【019】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-19】
こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。
仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。
あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。
前回は仏教における二つの守るべきルール、戒と律についての解説でした。
戒は修行を行う自分のためのルールで、心がけとしての性格があります。
律は出家僧団が一般社会を敵に回さず維持存続するためのルール。
律にはきちんと罰則があり、最悪の場合は永久追放もあるそうです。
今回は佐々木先生のYouTubeチャンネル開設から1ヶ月が経ったそうで、その振り返りと仏教を学ぶ意義について語っておられます。
仏教哲学の世界観1-19
https://youtu.be/PnZNtbr6N_8?si=_pWD9vYJHstwze3G
AIによる要約
オンライン授業の1ヶ月間の経験と成長
仏教哲学と日常の結びつきについての考察
仏教の教えとその価値の受け取り方
人生の方向づけと生き方についての考察
人生の選択肢と異なる生き方の可能性
異なる生き方を見つける重要性
多様な生き方の可能性を探求
人生の方向性を見つけるための迷い
学習したこと
「仏教を学ぶ意義」とはなにか
これまで仏教のベースとなる考え方と、実際に活動する仏教徒の活動の様子を解説してきた。
これらを学習する意味とはなんだろうか。
通常、授業を受けて学習をするというものは、通常では技能の伝承や知識の伝達、つまり教える側の価値を受け取り側が受け取るという意味なのだが、仏教に関してはそれが少し異なる。
仏教を学ぶということは2500年前にお釈迦さまが編み出した世界観を伝えているということである。
そこには教える教師の価値観は含まれない。
ではこの仏教の教えを学ぶことがどのような意味を持つか。
仏教の知識自体は知っていたとしてもあまり意味がない。
仏教用語を知っていてもなんの役にもたたない。
ではなんのために仏教を学ぶのか。
それは「生き方の方向づけ」である。
追い求める希望と、確実に訪れる現実
人間は生まれた時、そこは本能をベースとした一般社会である。
その一般社会の価値観を受け取りながら人生を送る。
それがそのまま死ぬまでなんのトラブルもなく過ごすことができるのであれば何の問題もないが、現実においてはそれはほぼあり得ない。
なぜなら、
人間には寿命があり、老いたり病気になったりし、最後には必ず死ぬ。
どのような人間でも人生は右肩下がりに落ちていくものである。
夢や希望を持ち、今日よりも明日は良くなると信じる一般社会の価値観にそって生きていくと、老いによって齟齬が生じてくる。
若い頃であればそれでも問題はないのかもしれないし、これが間違った生き方とも言えない。
ただし、様々な要因によってそれがそぐわない状況がやってくる可能性がある。
ここで重要になってくるのは、
一般社会の価値観とは違う生き方がある
という事実を知ることである。
世界を「海」に喩えたら
人間の社会が広大な海だと例えると、
海の真ん中で生まれて育てば、世界は全てが海のように感じ、それに対応した生き方をするしかないと考えるだろう。
しかし、(ここでは仏教という)
当たり前の価値観で生きることを拒否する生き方があり、
その先に本当の幸福がある───
このような価値観の存在を知ることは、
海しかないと思われていた世界に小さな陸地や島があり、これまでと全く違う価値観で生きることができるということを知ることと同じである。
つまり、
人の生きがいとは複数ある
ということである。
ただし、自ら探す必要はある。
この世の普通の価値観とは違う世界があるということを知る。
これが(この講義で)仏教を学ぶ上でも意義のあることである。
周りとの価値観が合わず生きていくのが辛いとしても
ただ一人で孤独に苦しむ必要はなく
探せばあらゆる価値観があるという事を知り、自分の価値観と同じような価値観を持っている人が集まっている場所が存在するということを知るべきである。
特にコロナ禍によってこれまでの生活が難しくなり、それまでの価値観に揺らぎが生じている現代においてどのように生きていけば良いのか。
そのように迷った時、2500年も前からそのような迷いから道を見つけた人等がいるという事を知るべきで、いろいろな生き方を模索していくといずれ自分に合った生き方を見つけることができる。
これが仏教を学ぶ上で知っておいた方が良い意義である。
感想
仏教をどのように見るべきか
今回は仏教の解説というより、仏教をどのように見るべきか、という内容。
たしかに仏教に限らず色々な生き方があって、人それぞれにその人自身が持つ価値観が尊重されている世界に生きるのが良いのだろう。
ところが現実においては、
お受験・入試・就活・婚活・妊活・教育・住宅・資産形成・老後・終活・・・
どこまでも「やるべきこと」「やったほうがいいこと」というものが私たちの人生に付き纏っている。
それぞれに希望通りにうまく行ったり、それこそ頂点に立つようなこともあるだろうし、達成できた人は人生を謳歌できるのかもしれない。
けれども、達成する努力に疲れた人は絶望するしかないだろうか。
また、何かで達成できた人は本当に幸せだろうか。
生き方のモデルケースの一つとして
誰にとっても自らの生き方の選択というのは難しい。
なぜなら正解の生き方なんて誰にもわからないからだ。
人生において行き止まりに突き当たってしまったのなら、そこで絶望するのではなく、回り道でも別の生き方を模索するしかない。
別の生き方に切り替えるのもまた難しいが、様々な生き方の選択肢を知識の上でも知っておくことは絶望に備える意味で重要になってくる。
仏教はその生き方の選択肢の一例だと言える。
世界は本当に海だけか?
海に喩えるのは実感できる話だと思う。
実際、僕らはみんな言われなくても「頑張って」生きている。
夢や希望を持ち、良い将来を目指している。
つまり幸福になりたいのだ。
でも現実は超長距離のマラソン…どころか遠泳だ。
前に進むのを止めてしまえば、たちどころに沈み溺れていく。
現代社会というのはそれほどに前進を強いている。
休む暇なく前に進む努力をしなければならない。
その結果、趣味にまでタイパやコスパを求め、物も思われない余裕の無さの中に生きている。
本当は自らを見つめ直す時間が必要で、これは仏教でいうところの「定」になるのではないかと思う。
次回は「仏教哲学の世界観 1-20」
話を元に戻し、出家生活の様子が解説されます。
その最低のラインがどのようなものであったか?というお話です。
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