【022】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-22】
こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。
仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。
あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。
前回は「律」についての解説でした。
一般社会からの援助によって成り立つ仏教僧団ですが、その援助はどこまで受けるべきか。そこには「律」によって細かくルールが設定されていました。
これによってその場の雰囲気や上の立場の気分によって曖昧な行動にならない仕組みができています。
根底には「原理原則に従う」という完全な法治主義が仏教には存在しているということになります。
今回は前回の「パーティに呼ばれたら」の補足です。
出家者にとっての正しい一般社会との付き合い方とその役割が語られます。
仏教哲学の世界観1-22
https://youtu.be/2U4w_AeUGkA?si=OES5AH35U8FLvl6k
AIによる要約
お坊様のパーティー参加に関する修行者の立場
信者との付き合い方と仏教修行者の役割
お坊さんの行動と仏教組織の評判
結婚式に招かれたお坊さんたちの役割
お坊様の招待とご飯の儀式
お坊様の幸せな役割と文化的尊重
お坊さんの触媒と病気の癒し
現代のお坊さんたちの新たな役割
学習したこと
「パーティに誘われた場合」の補足
しても良い行動の判断基準(=律)について
「パーティに誘われた」場合はどうするか?
という事例について、
仏教では世俗の楽しみを放棄するという原理原則があり律が定められているので、本来はパーティに参加して楽しむことは禁じられている。
前回はこのように解説した。
しかし、じつはパーティに参加する事自体が問題ではない。
パーティに僧侶を呼ぶ側の目的が、
仏教修行者にお話を聞く・修行の成果を聞く・修行者の立派な姿を見たい
といった場合には事情が異なる。
これはつまり「僧侶として呼ぶ」場合においてはパーティへの参加が認められるということになる。
出家者の信者との付き合い方
出家者は信者との付き合い方として、
信者の娯楽に無自覚につきあってはならない
ただし、仏教への深めるための交際は可能
これらが守られる必要がある。
一般社会から見て出家者がどのように見られるか。
これを考慮に入れなければならない。
誘われたパーティで僧侶としての品行方正な態度を取らず一般社会から俗であると判断されてしまっては一個人の問題だけでなく仏教僧団全体の信頼に関わる問題となってしまう。
人々の仏教への思いが深まるのであればそのような姿勢・態度・振る舞いで参加せよということである。
パーティに僧侶が参加するケース
パーティに僧侶が参加するケースは以下のようなものがある。
結婚式
僧侶が自分の親戚の結婚式に行くというわけではなく、
僧侶として参加する。
日本では考えられないが、タイでは伝統的な仏式の結婚式がある。
その際には、
朝早くに九人の僧侶が訪れる。
タイにおいては「九」という数字がめでたい数字とのことで、結婚式に訪れる僧侶も伝統的に九人となっている。
僧侶用に用意された横一列の座席に座る。
すると新郎新婦が食事をまずこの僧侶たちの鉢に入れていく。
つまり、僧侶は食事をしにきている。ということになる。
これは前回の解説にあった「食事に招待された」という状態である。
立派で清廉な僧侶に食事を提供する、ということが新郎新婦にとっての功徳(のちに報われる良い行い)となる。
これが「僧侶に食事を召し上がっていただく」ことの目的である。
僧侶はその間全く喋らない。
世間付き合いといったことをせずに黙々と食事を済ませる。
そのあとは僧侶としての言葉とマントラ(真言)を唱えて帰ってしまう。
結婚式はその後で開始される。
僧侶を結婚式に招待するのは、あくまでも食事を提供し、功徳を積むためであり、お祝いに参加することではない。
ここでわかるのはタイの結婚式に招かれたお坊さんは、結婚が幸せなものになるための触媒としての役割となっている。
タイでは、様々な場面でお坊さんがいる、という状態が有難いと考える文化となっており、元の仏教も本来そのような立ち位置である。
新築祝い
タイでは家の新築祝いでも僧侶が招かれる。
完成した新居に布を引き、僧侶に最初に入ってもらう。
これによって新居には福が訪れ、災いから守ってくれると考える。
この考え方はもちろん仏教ではなく、一般社会からみた文化ではあるのだが、その触媒として清く正しい生き方をしているとされるお坊さんが招かれる。
また、病人の見舞いにもお坊さんに来てもらう。
これも同じく清廉なお坊さんに来てもらう事が病気の元である邪気を払い除けると考えられているからである。
出家者の価値とは
これらは現代の日本には全く無い文化である。
日本の場合では葬式に深く関わる事があったため葬儀の司祭としての役割がほとんどになってしまった。
これは残念なことではあるが、最近では様々な場面で仏教にまつわる有益な話をしたり、良い姿勢を見せる、一般の人にとって心の安心を与えたいと願う僧侶も増えてきている。
このような動きが一般社会にも受け入れられるようになるのであれば、もっと広く仏教というものの意味が浸透するであろう。
感想
縁起物としてのお坊さん
あくまでも僧侶の仕事?としてであればパーティには参加してもよい。
ただし、楽しむためではなく修行の成果を披露したり、一般人が功徳を積む機会としての参加に限るということ。
なるほどタイではお坊さんは縁起物みたいな扱いになっているわけだ。
個人的には日本の仏教だと葬式のイメージが強くてあまり晴れやかでめでたい気分ではない。
ただ、そこのことを考えた時にふと1-20の事を思い出した。
葬式=死者とくると援助を得られない僧侶が衣服の布を死体置き場から拾ってくる話だ。
なんとなく死者と僧侶のイメージが近しいところにあるのは葬式に関係あるのだろうか。
日本において教育制度や文化、メンタリティ(清貧が美しいとか、嫌儲もそうかな)に仏教は大きな影響を与えているところがあるだろうけど、日常生活に仏教との関わりは無い。
なので特別仏教やお坊さんに対してありがたみも感じないわけだが、その辺どうなのだろう。
仏教が一般社会に必要とされるには
今回のお話の最後にあった「一般の人にとって心の安心を与えたいと願う僧侶も増えてきている」というのは良い傾向なのかもしれないけど、それはどのような形で一般社会にコミットするのだろうか。
Twitter(X)とかYouTubeで発信するとか?
ダメではないけどなにか違う気がする。
僕が以前書いたnoteマガジン
これは酷い目にあった自分の心の整理のために認知行動療法の一環として書いたものだった。
なんとか自分で自分を立ち直らせるためのものなのだが、このような苦しい状態にあった時に仏教は傍にいただろうか。
当然僕は仏教徒ではないので仏教に文句が言いたいわけではない。
けれど、仏教が一般社会に日常的に必要とされ、カジュアルな存在であったら僕は相談していたかもしれない。
身近な存在になる工夫
お坊さんって関わると高額なお金を要求されるイメージもあるし、近寄りがたい。
せめて町の歯医者さんくらいの身近さと気軽さがあれば良いのにね。
と思う。
(というかそもそも元嫁がカルトに走ることもなかったかも)
ホームドクターみたいに近所のお家を定期的に回って最近の悩み事を聞いて回るのも良いかもしれない。
それこそキャンディを一つ入れた鉢を持っていこう。
悩める人に前を向かせるヒントを与えるプロ
苦しむ人の苦しみを消すヒントを与えるプロ
今後の幸せを願い、寄り添ってくれるプロ
お坊さんにプロというのは変だけど、そういう存在であれば現代社会においてもお釈迦さまの教えは存続できるのではないかな?
次回は「仏教哲学の世界観 1-23」
仏教の定義である「三宝」について。
インドの地理、仏教以前の社会、仏教の出現、お釈迦さまの考え、それに従う出家僧団の内実を経て「仏教とはどのような宗教か」という定義について解説されています。