【018】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-18】
こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。
仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。
あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。
前回は「出家社会が一般社会に受け入れられるには?」という内容でした。
生産活動が行えない出家者たちが生活を維持するには一般社会から養ってもらう必要がありました。
しかし、その一般社会から見放されれば修行は続けられません。
したがって、一般社会から見ても清廉潔白で正しい姿を示さなければなりません。
そのために一般社会に対して失礼の無いように様々なルールを自らに課しました。それが「律」です。
今回はその「律」と、以前登場した三学のうち「戒」との違いを解説されています。
仏教哲学の世界観1-18
https://youtu.be/Be1R7_bt9Jw?si=dzAtMFmKbW3vYNaX
AIによる要約
仏教の出家僧団における律と修行の道
仏教の規範規則と戒律の違い
修行と会の重要な関係
律の役割と法律の重要性
律における処罰の差異
殺生を犯した場合の仏教僧団の処分
法律と心の対立:犯罪行為と内面の葛藤
古代の法律から見る法体系の発展
学習したこと
出家者が守るべき「戒」と「律」
生産活動を行わない出家僧団が一般社会に依存する以上、一般社会から嫌われるわけにはいかない。
そのため、仏教では出家者の守るべきルールを自ら課した。
それが「律」である。
しかし、それ以前に出家者は「自分の心の苦しみを消し去る」という本来の目的を達成するために習慣づけしなければならないルールがある。
これが三学のうちの最初のステップである「戒」である。
三学とは悟りへ至るための柱になるもので、戒・定・慧の三つがある。
戒:瞑想に集中できる環境を作るために良い行動を無意識で行う習慣付け
定:正しい瞑想
慧:瞑想の果てに得られる自分の心を変える方法
三学についての解説はこちら↓
このように、出家者はこの「戒」と「律」の二つのルールを守らなければならない。
戒と律の違いとはなにか
戒の場合、例えば禁じられている動物の殺生をしたとしても罰則はない。
しかし、戒はその個人の修行のために必要な事なので、結果的に修行がストップし、「心の苦しみを消す」というその人の本来の目的が達成できないということになる。
つまり、戒を守らないことによって損害を被るのは守らなかったその人ということになる。
これは外部の人間が批判する理由にもならないことを意味する。
一方で律はまったく違う目的で設定されている。
律は修行者の向上を目的としたものではなく、出家僧団を維持していくための法律である。
原理上、どうしても一般社会に頼るしかない僧団は一般社会に迷惑をかけたり、嫌われたりするわけにはいかない。
一般社会を敵に回した瞬間に僧団は崩壊してしまう。
律とはこれを阻止するために制定されたルールである。
何百という数で制定されている律だが、これを守らないと個人の問題では済まなくなる。
組織としての社会的信用を維持するための法律を破るということは、組織自体の社会的信用を失うということである。
したがって、僧団は律を破ったものに対して罰を課す。
このことは、律を破った者をきちんと裁き罰する仕組みを持つということが一般社会に対して信頼を得られる要素にもなっている。
戒を破ること、律を破ること
このように、僧侶は
個人的な資質の向上を守るために「戒」を守り
自分が属する出家僧団を守るために「律」を守る。
この二重構造の生活が義務付けられている。
「戒」においては
生き物を殺してはならない
という決まりがあるが、同じく
「律」においても
生き物を殺してはならない
としている。
しかし律の場合、殺したものが
人間か、それ以外の動物かで分けられている。
これは外部の一般社会から僧団がどのように見られるかで区分けがされている。
例えば、
僧侶が道を歩いていたらうっかり虫を踏み潰してしまった
僧侶がなんらかの理由で人を殺してしまった
では全く外部からの見え方は異なる。
このように同じ「生き物を殺した」でも一般社会からの目線に違いがある。
そのため、破った内容に応じて処罰が異なる。
「僧侶が人を殺した」という例では律によると僧団からの永久追放となる。
人を殺すような重大事件でも追放だけで良いのか?と思われるが、追放した後のことは仏教僧団は関与しない。
後のことは追放先である一般社会の判断に任せる。
では人以外の生き物を殺した場合だとどうなるか。
これは近くにいる別の僧侶に対して懺悔することで終わる。
例えば蚊が飛んできて腕に止まったとする。
ここで、この虫を殺そうと思ったが思いとどまった場合は律を守ったことになる。
律は法律なので、当然実際に起こした行動にしか関わらない。
一方でこの虫を殺してしまえば殺生を禁じる戒と律の両方を破ったことになる。
そうなると律を破ったとして別の僧侶に懺悔し解決とする。
しかし、律でのペナルティは科されたとしても、自分の心が従うべきルールである戒については反省し続けることになる。
2500年前から使われている律だが、時代によって様々なケースが発生する。このことから律には注釈書が後から追加され、さらに注釈の注釈という形で膨大な数に膨れ上がっていった。
感想
二つのルールと現在
目的の異なる二つのルール。
一つは心がけとして、もう一つは仏教僧団の存続のため。
とても高尚なことだとは思うけれど、今の仏教徒ってその戒とか律は守っているのだろうか?
そもそも膨大な量になっているという律を理解しているのだろうか。
毎回佐々木先生の講義を見るたびにどこか違う全く別の宗教のお話を聞いているような感覚がある。
律の適用範囲はどの程度?
お話のなかで、「僧侶が人を殺した」場合の対処が語られていたけれど、
これが「人を殺した人」が僧侶になったりできるのだろうか。
人殺しの罪から逃げてきた、つまり一般社会から馴染めずに逃げてきた人に対しては仏教僧団はどのような対応をしたのだろうか。
やはり律の考え方を持ち出して出家をご遠慮願ったのだろうか。
それとも仏教は常に世の片隅にありとして受け入れていたのだろうか。
一般社会の裁きを受けた上で受け入れるのであれば理解できるけど、一般社会では即死刑みたいな状態にまで追い詰められている人に対してどのように仏教は立ち回ったのだろうか。
要するに罪人(悪人とは限らない)を匿うような事をしていたのだろうか。
細かい話かもしれないけれど、仏教と一般社会との関係性の話でもあるので今後こういう疑問が解消されるといいな。
次回は「仏教哲学の世界観 1-19」
一旦脱線してYouTubeで講義をはじめた振り返りと、仏教という価値の受け止め方のお話です。
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