【014】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-14】
こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。
仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはXなどでご指摘いただけると幸いです。
あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。
前回は仏教の三学のひとつ「戒」と仏教の二重構造についての解説でした。
正しい瞑想、そしてそこから得られる世界と自分自身の正しい認識である智慧。これらを達成するための前段階としての「戒」。
戒は正しい行動の習慣化を説いたものですが、これを仏教では一般社会と出家社会の二つの社会向けに異なる目的意識を持った「戒」を説く。という解説でした。
今回は「出家」について。
一般社会では生きられない、夢も希望も持つことができない人々を収容し救済する「出家」について解説されています。
仏教哲学の世界観1-14
https://youtu.be/u1Xg5D5BdCc?si=9KqQQC6heylLehau
AIによる要約
仏教の本質的な役割とは何かについての考察
一般社会と出家社会:異なる社会を求める仏教徒の生き方
出家社会の持続力:仏教とオウム真理教の比較
出家社会の構造:仏教の出家社会の本質的な特徴
日本の仏教の歴史と家族制度の影響
お坊さんの道は自覚と覚悟が重要
出家社会への参入と脱退は自由であり、垣根は存在しない
出家社会と一般社会は自由に行き来できる
学習したこと
仏教の二重構造のおさらい
仏教は欲求ベースの一般人と世の中で生きづらく絶望している人で教えを分けている。
これが仏教の二重構造である。
夢や希望を持ち、それを明るく楽しく追い求めることができる元気な人。
本来このような人には仏教は必要ではない。
このことから仏教は最初から世界宗教を目指していないことがわかる。
一方で生きづらさを抱え世の中に絶望した人に対して、仏教は救いと癒しを用意し治療する病院のような立ち位置を持っている。
救う人と、救う必要のない人たち。
このように区分けをしているが、これは人それぞれの必要に応じた対応をしているだけで、かつてのバラモン教のように人を区分して差別するためのものではない。
一般社会が馴染めない人のための仕組み「出家」
真に仏教を必要とし、心の苦しみを消したいと願い、お釈迦さまの教えに従う人たち。彼らはこれまでの日常を放棄し、お釈迦さまが設計した生活スタイルに身を投じる。
これを「出家」という。
「出家」は仏教独自のものではない。
一般社会になじめない人たちが、寄り添い合いながら独自の価値観を持った生活を送る島社会。
ここに参入することが「出家」である。
仏教に限らず一種の島社会が存在し、独自のライフスタイルを送るのであれば、これは広義には出家と捉えることができる。
仏教もオウム真理教もどちらも同じ様に出家社会を持つが、そこに正しい出家社会と間違った出家社会と区別することができる。
それは「持続性」である。
仏教という宗教が作った出家社会は2500年前から存続している。
仏教が現代まで出家社会を維持できているのは、一般社会との軋轢を生じさせなかったからである。
一方、オウム真理教はおよそ10年で崩壊した。
これがなぜかというと「社会を敵に回したから」である。
仏教の想定する出家社会
まず、前提として人間は誰でも生まれた時は一般社会に属する。
誰もが最初は本能的に「よりよい何か」を求めるし、そのような社会に生きている。
しかし、このような社会に生きていくことができない人たちは社会から離脱したいと願う。それが叶わず行き先が無ければ、絶望のなか一人ぼっちで苦しみながら生きていくしかなくなってしまう。
しかし、お釈迦さまはそのような人たちを受け入れ、彼らの新たな価値観をそのまま認めながら生きていける組織を作った。
それが仏教における出家社会である。
このように、出家してきた人というのは、元々は一般社会を経験した上で、そこが自分に合わないということを実感し、自分で決断して入ってきた人たちということになる。
日本における出家した人
出家した人たちを修行僧と呼ぶが、
日本においては「お坊さん」がそれにあたる。
ただし、日本の仏教は政治による影響もあるが、世襲するようになった。
お坊さんが家庭を持ち、子供を設け、その子供がお寺を継ぐ。
これは本来のお釈迦さまの説く仏教とは全く違う形態となっており、これは日本だけである。
お坊さんの子供がお坊さんになる、という事自体は間違いではないが
息子だからお坊さんになったという考え方は間違いである。
大切なのは、お寺に生まれた事を仏教との縁であると考え、数ある選択肢のなかから自分でお坊さんになるという覚悟をもって選ぶことである。
お坊さんとは職業ではない。
家業のように継ぐものでもない。
あくまでもお釈迦さまの教えに基づいて心の苦しみを消すという道を自ら学び、他の心に苦しみを持つ人に教えを伝えていく責務を背負ったお釈迦さまの弟子であるという認識を持たなければならない。
仏教の出家社会と一般社会には垣根がない
出家社会は一般社会と出家社会に垣根がない。
また、出家には特定の生まれや家柄には関係なく、一般社会のなかで苦しみを抱えた人は決められた儀式さえ行えば、誰でもすぐに一般社会から出家社会に入ることができる。
逆に出家社会から一般社会に移る事も自由である。
回数も制限はなく、かつてのタイでは徴兵制により一時的に軍に入るかお寺に出家するかどちらかを選べる制度もあった。
このように仏教における出家は出入り自由であり、現代で言えば病院に似ている。
心に苦しみを抱えて一般社会では苦しいというのであれば出家すれば良いし、出家してからやはり一般社会に戻りたいと思えば自由に戻ることができる。
感想
出家って無責任にやっちゃっていいの?
元嫁に出家で出て行かれた僕としては非常に気になる内容だった。
誰でもいつでもすぐに出家できるだって?
それ、家庭を持っていたり重要な立場を持ってる人がある日突然出家なんかされたら残された人はたまったものではないと思うのだけど。
「社会を敵に回したから」オウム真理教は崩壊したわけだけど、本当に仏教は社会を敵に回してなかったと言えるのだろうか?
僕の経験としては
全部の生活と責任を放棄してきてウチにおいでよ☆
と言ってるように見えるのだけど。
僕にとってはそれは社会を敵にまわしているのと変わらない。
病気とか怪我で入院するなら理解できる。治療して健康になれば帰ってくるし、なんだったら入院保険なんてのもある。
でも宗教の場合、出家先は残された一般社会に対してそんなケアはしてくれない。
誰か出家手当とか出家保険みたいなの出してくれないかな。
「カルトでも安心!出家時の一時見舞金と月々の生活費を補填!」
みたいな感じで。
社会だけでなく仏教の価値観から離れてる人を認めていいの?
もうひとつ気になる箇所があった。(7:30あたり)
出家社会が受け皿になっているとして、出家希望者の「新たな価値観をそのまま認めつつ」ってどういうことだろう?
一般社会の価値観ではなく、仏教の価値観でもなく、出家したい人の価値観を受け入れるという意味なのだろうか?
そうなると、
価値観A→一般社会
価値観B→仏教
価値観C→生きづらい人
ということになる。
でも出家って価値観Cを価値観Bに捻じ曲げることではないの?
それが出家してお釈迦さまの教えに従う(仏教の価値観で生きる)ということではないのだろうか?
その人の「新たな価値観をそのまま認める」とはどういうことだろうか?
日本のお寺が世襲制な件
今回はなぜか仏教の考え方とは真逆の日本の世襲制なお寺についても解説があった。
あったけど、結局それって自己欺瞞のような気がするかな。
縁があって、という言い分は理解できるけど、教員免許をとった社会人経験のない大学生が卒業後に教師になるようなもので、なんというかモラトリアムに浸ってる印象がある。
やっぱりここまで解説されてきた仏教の本質を考えると、一度は本気で一般社会で揉まれて絶望してもらわないと出家なんてしちゃダメだと思う。
それで出家するにしても、実家のコネとか絶対使っちゃダメだし、むしろそこから意識的に離れないと示しがつかないと思う。
だって一般社会の価値観を捨てるんだよね?
もしも本当に「縁がある」ならいつかは行くべきお寺にたどり着くと思う。
しかも家庭を設けてもいいわけでしょ?
それってダブルスタンダードなんじゃないの?
まあ、背景の情報がまだ学習できていないので安易に断言はできないのだろうけど。
次回は「仏教哲学の世界観 1-15」
仏教における出家とはどのような意味か。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?