【023】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-23】
こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。
仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。
あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。
前回は律における祝い事など食事のあるパーティのお誘いにどういう対応をとるか、その補足と、一般社会にとってのお坊さんの存在意義について解説されました。
祝い事への招待は断る必要はありませんが、その本分はあくまでも「食事をいただく」というもので、催しを楽しむためのものではありません。
僧侶はあくまでも一般社会の価値観を放棄した存在なので楽しむためのパーティは断らなければなりません。
また、食事だけでなく修行の成果を披露したり、仏教徒としてのお話をすることで一般社会が仏教への思いを深める機会としては推奨されています。
このことは一般社会の人々が功徳を積む機会でもあり、現在のタイの結婚式や日本の仏教における法事においても継承されています。
今回はこれまでの解説してきた内容の総決算として「仏教の定義」について解説されています。
仏教哲学の世界観1-23
https://youtu.be/-JO6jQIlGks?si=fJot9PxcrGF9Rz9T
AIによる要約
仏教徒の信仰と生活についての詳細な説明
仏教の定義とその多様性
仏教の最終到達点:三宝であるという理解
仏教の定義:ブッダへの尊敬と法の教え
仏教の三つの定義:ブッダの教えに従う生き方
お坊さんの呼び名と意味:挽くと座る
仏教の末法と次のブッダの到来
仏教における仏法僧の重要性
学習したこと
ここまでの解説を経て
ここまでで、インドの地理、アーリア人の進出、そしてバラモン社会の成立など仏教以前の世界の成り立ち、そしてお釈迦さまの出現とその教えやそれに基づく考え方。さらに出家僧団の内実まで解説してきた。
これは「仏教とはなにか?」という問いに辿り着くまでの前提としての解説であった。
ここに至り、「仏教の定義」を解説することができる。
仏教の定義
「仏教とはなにか?」という問いがあった場合、現在の仏教には多種多様な考え方があり、それぞれの立場で仏教を説明してしまうと答えはバラバラになってしまいまとまらない。
しかしながら、仏教とは元が一つの宗教であるため、
万国共通の唯一無二の定義が存在する。
これは小学校の歴史の授業にも登場する
聖徳太子の「十七条憲法」に記載されている。
ここに「篤く三宝を敬え」とあり、その説明までも記述されている。
意外とこれが仏教の定義であるということは知られていない。
三宝とは
三宝とは仏・法・僧の三つである。
仏
これは仏陀のことであり、「目覚めた人」としてのお釈迦さまを指す。
ただし、お釈迦さまと言っても王子として育った時代でもなければ修行をしていた頃でもない。
目覚めるために修行をしている人を「菩薩」とよぶ。
そして修行の結果、悟りを得た瞬間「仏陀」となる。
法
法とはこの仏陀であるお釈迦さまが説いた教えの事。
このことから、
仏陀であるお釈迦さまを認め第一に信頼し尊崇すること(仏)
その仏陀からの教えに従って生きようとする(法)
ことを意味する。
僧
そして三つ目の「僧」は集団、つまり仏教僧団を意味する。
決して僧侶一個人のことを指してはいないので注意が必要である。
僧はインドの言葉で「サンガ」を音写し省略したものである。
では個人個人の仏教僧侶をなんと呼ぶか?
男性の場合「比丘」(びく)、女性の場合「比丘尼」(びくに)という。
仏陀と呼ばれる者
仏陀という言葉はそもそもお釈迦さまだけを指していた言葉ではなく、仏教の設立当初には悟りを得た僧侶たちにも使われていた。
しかし、仏教のなかにおいては仏陀とはお釈迦さま個人を指すように定着していった。
では仏陀とはお釈迦さま一人のみだろうか?
お釈迦さまの時代から数千年、数万年という範囲では仏陀はお釈迦さましかいない。
これはインドの大元の仏教においてはそのように考えられている。
ただし、諸行無常(すべてのものは滅びる)という考え方からすると、お釈迦さまの教えも滅びる。
お釈迦さまが説いた法も滅びるし、僧(サンガ・僧団)もまた滅びる。
これで三宝である仏法僧が滅びることになる。
これを「末法」と言う。
三宝が滅んだ後
末法の先において、
それではもう二度とだれも悟ることはできなくなるのか?
というと、そうはならず時代は繰り返し、
次の仏陀が現れるとしている。
ただし、それは数十億年後の話である。
これは同時に、仏陀であるお釈迦さま以前にもはるか昔の時代に別の仏陀が存在した、ということになる。
このように、膨大な時間だが、いずれは繰り返し次の仏陀が現れるであろう。としている。
一本の時間軸のなかで、数十億単位の間隔で仏陀が現れる。
これは最も古い仏教の考え方であり、世界観である。
後の時代になると、仏陀はもっといても良いのではないか?ということで様々な「仏陀」が考案されたが、元々の仏教ではそうではなかった。
お釈迦さまの次の「仏陀」
ではお釈迦さま以外の仏陀は誰か?というと、
お釈迦さまの次に現れると予約されている仏陀が
「弥勒」(みろく)
という。
この広隆寺の「木造弥勒菩薩半跏像」(国宝)では右足を左膝に乗せ、右手を口元に添えて何かを考えている姿の弥勒菩薩を表現している。
感想
聖徳太子の時代に三宝を敬う
ごめんなさい。
「十七条憲法」の事など忘れていました。
確かに小学生ぐらいの時に「聖徳太子が憲法を作った」と習った覚えはあるけど、そこに仏教の事が記載されていたとは。
これ、三宝のうちの「僧」は僧団ということなのだけど、これを敬えということは仏教徒じゃなくてもそのようにしろ、という憲法だったのだろうか。
Wikipediaによると「十七条憲法」は
とあるので、一般民衆にはあまり関係なかったのだろうか。
唐突に現れたファンタジー要素
今回ついにファンタジー要素が登場してきた。
「弥勒」についてだ。
何十億年規模の時間のサイクルで新しい仏陀が登場する???
これまでの仏教の成立過程だとか仏教僧団の仕組み、
戒・定・慧の三学、それに律など
ものすごく合理的で理性的な話が続いていたのにも関わらず
唐突に合理性の無い話が出てきた。
一体なにを根拠にこう言う話が出てくることになったのだろうか。
少し調べたが
弥勒は56億7千万年後に現れる
ってなにコレ。
56億年後っていうか、それ以前に50億年後には、太陽の老化により地球の公転軌道まで膨張して、地球を飲み込んでしまうのでその頃にはとっくに人間いないのだけど。
いや、科学が発達していない時代の事だからしょうがないのだけど。
分かりもしない事に対してなんの根拠も無いことを無責任に言ったというのが理解に苦しむ。
これまでの理知的で合理的な流れはなんだったんだ?
どうすんの?
地球が木っ端微塵になって5億年経った後にひとりぼっちで宇宙に現れるの?
次回は「仏教哲学の世界観 1-24」
このシリーズの最終回となります。
内容は仏教の定義「三宝」とそのまとめです。