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【029】ブッダの生涯-【5】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)

仏伝に描かれるお釈迦さまの悟り

前回は仏伝がどのように生まれたか、その経緯についての解説でした。
最初からお釈迦さまの人生や、ましては前世が語られていたわけではなく、仏伝の出発点は律の冒頭にありました。
仏教僧団の運営のためのルールづくりにおいて、法律ができるまでのあらましとして仏教僧団の設立史が語られたわけです。
これが最初期の仏伝となりました。

今回は最古の仏伝の内容、つまり仏教の誕生の経緯が語られた仏伝について解説されています。


このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
主な教材は仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座の内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


ブッダの生涯5

https://youtu.be/ErXG7tAe1Z4?si=6Rp4x-x7ukZH_GIh

AIによる要約

このビデオスクリプトでは、仏教の中心である釈迦の悟りについて詳しく説明されています。様々な文献資料によって釈迦の悟りの内容が異なっており、その理由として、言葉だけでは心の状態を完全に伝えることができないことが示唆されています。釈迦の悟りとは、間違った世界観から抜け出し、正しい視点を獲得した心の状態であり、それを言葉で一言で説明するのは不可能だと述べられています。その本質を理解するには、仏教の教えや活動から逆算する必要があると結論付けられています。

学んだ事

最初の仏伝の、最初の場面は「悟り」の場面

仏伝の始まりは律の冒頭に置かれた仏教僧団設立へのあらましである。
つまり、お釈迦さまが悟りを開いてから仏教僧団ができあがるまでの過程であり、仏伝のコアとなっている。

すなわち、
お釈迦さまの悟りの場面
から始まることになる。
これが最初にしてコアとなる仏伝の物語である。

予備知識:悟りを開いた場所と逸話

お釈迦さまはブダガヤにある菩提樹において悟りを開いた。

インドでは目が覚めることを「ブドゥ」という。
そして目が覚めた人のことを「ブッダ」という。
このことから仏のことを「ブッダ」と読み、漢訳されたものが「仏陀」となる。

一方、「目覚め」という名詞については「ボーディ」という。
これが漢字で音写され「菩提」(ぼだい)となった。
すなわち、悟り(目覚め)のことを菩提という単語となった。

お釈迦さまが悟る時に座っていた木はアシバッダという木なのだが、
これがお釈迦さまの悟りに由来して「菩提樹」(ぼだいじゅ)と呼ばれるようになった。

なお、現地のこの木は現在でもその子孫として引き継がれた木が残っており、世界中から多くの巡礼者が訪れる場所となっている。

特別なお釈迦さまの悟り

お釈迦さまの弟子たちも悟り(菩提)を開いた。
ただし、お釈迦さまの悟りと他の弟子たちの悟りに対して区別している。
お釈迦さまの悟りを、これ以上はない最上のものとして
無上菩提(むじょうぼだい)
と呼称している。
これはインドの言葉では「アヌッタラ サンミャク サンボーディ」と言い、
それが音写で漢訳され
「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたらさんみゃくさんぼだい)
となった。

これが仏の悟りであり、般若心経に登場する。

お釈迦さまの悟りとはなんだったのか

ここが仏教の難問である。
悟りの説明があらゆる経典で同じ内容であれば問題が無いのだが、
昔からある様々な資料で内容が異なる。

仏伝においては
十二支縁起
がお釈迦さまの悟りの内容となっている。

ところが、他の資料によると同じ場面において
違ったことが書かれている。

三明
他の人の前世を含む過去・現在・未来について明確に見通せる神通力を得た上に、自分自身の煩悩が全て断ち切られ悟りを得たという自覚

六根の清浄化
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・心
の六つの認識器官をシャットアウトする方法を得る=悟り

このように、悟りの内容は文献によって違う表現がなされている。
これは、一言で悟りを表現することが不可能であるからである。

そもそも悟りとは、
煩悩によって間違った物の見方、間違った世界観を持つことによる苦しみを、自分自身の力で訂正・修正し、苦しみが生まれる要因を自分の力で全て排除した状態──

このような心のあり方は、全体を言葉で的確に表現することはできない。

しかし、全く説明ができないわけではない。
その方法は多面的な見え方を取り入れながら全体像を把握すること。
あらゆる側面を受け入れながら立体的に、かつ次第にその感触を理解していくことはできる。

「悟り」に関わらず、物事にはさまざまな立場や見方によって異なった理解の仕方がある。
例えば生物の定義、数学の定義、時間の定義。
誰にとっても身近な存在であっても、それぞれが人によって解釈は異なる。
同じように、お釈迦さまから教えられた弟子たちはそれぞれの受け止め方によって「悟り」を定義し、現在まで多面的な情報として残る事になった。

感想

正確な理解の難しさ

一次情報と二次情報。アナログとデジタル。
物事の本質、特に「悟り」のような形の無い、心の内の様相に関しての説明は、省略されたデジタル情報である「言葉や文字」ではほんの一側面、むしろ一点でしかその輪郭を捉えない。

僕は子供の頃から
「ぐにゃぐにゃに描いた図形を、消しゴムで消してから説明するにはどうすれば良いか?」
という事を考えていた。
消しゴムで消え損ねた部分を定規で直線で繋いでみたり、記憶を頼りに爪楊枝を並べて図形の輪郭部分を点で捉えた大量の爪楊枝でその大体の輪郭が出るようにしてみて遊んでいた。

どんな遊びだよ、と突っ込まれそうだけど、僕は後でこれがデジタルとアナログの誤差であると理解したし、物事の正確な理解にはそれだけの手数が必要だと思った。

ましてや2次元の絵ですら正確ではないのに、これが立体物だったり、時間の経過によって輪郭が変わっていく物だとすると、どれだけ言葉を尽くしても説明する事は不可能だろう。

語れば語るほど遠ざかる実態

例えば僕個人の変性意識の体験も、説明しようとすればするほどに「なにか違う」と違和感を感じて説明できない。
さらには自分の発した間違った言葉を自分で信じ込もうとしている自覚すらある。

となると、客観的に感じた事実や前後の状況を示すしか無いのだが、それも記憶の変化とともにすり替わってしまうのでやはり正確に相手に伝えるのはかなり難しいだろう。

一次情報であれば、まだ言葉を尽くしたりして説明できるのかもしれないが、それもバイアスがかかったり二次情報だったりでどんどん実態とはかけ離れていく。

こうなってくると、究極的には
「それぞれで実践して体験してね」
と言う他になくなってしまう。

つまるところ、今回の「悟りの内容」についても完全に言い当てられた答えはどこにもなく、各々の解釈の数だけ新たに「悟りの姿」が増えていくだけのような気がする。


次回は「ブッダの生涯6」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
一言では説明のつかないお釈迦さまの悟り。
それでも律の最初に書かれた最古の仏伝はお釈迦さまの悟りから始まり、その内容「十二支縁起」について一応の解説がされます。


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