自己啓発本と自己語り
『嫌われる勇気』『7つの習慣』『人を動かす』これらの自己啓発本には、非科学的な要素が多く含まれているという共通点がある。これらはどれもベストセラーとして有名だ。多くの日本人はこうした自己啓発本を読んだり、セミナーを開いたりしている。
こうしたスピリチアルな自己啓発本が世に出てきた背景には何があるのだろうか。何か、大きな背景が存在するのだろうか。
最初に思いついたのは「新興宗教」のような、マインドフルネスなどの実態であるとか、オウム真理教いわゆる洗脳といった負の影響である。
しかしまあ宗教とかで片付けてしまうと、世の中で起きた出来事がほとんど宗教になってしまうし、分析するにも手詰まりになってしまった。そこで、別の視点で考えて見ることにした。それは、70年から80年にかけての「教養ブーム」という考え方だ。どこか、私の頭の中では、教養という意味合いが大きく変わってしまったのではないかという仮説があった。
つまり、何らかの理由で科学的な裏付けがあったとされる教養から、自己啓発といった非科学的な教養にわれわれが傾倒せずにはいられなくなる出来事があったのではないだろうか。
今回の雑記では、こうした出来事を紐解きながら、何故自己啓発本がブームになって行ったのかを一緒に考えていきたい。
自己啓発の歴史
まず、簡単に自己啓発本がいつ生まれたのかを振り返ってみたい。まず、自己啓発としての源流は中国にある。1130年代から出てきた朱子学の中での「論語」を引用しよう。
子曰く、学は及ばざるが如くせよ。猶(なお)之を失わんことを恐れよ。
現代語訳すると、「先生は言った。まだまだ自分の知識や能力が十分ではないことを自覚しながら、様々なこと学びなさい。それでだけではなく、学んだことは失われることのないよう常に気をつけ、失われることが一番の失敗である」という感じか。
こうした自己啓発的なものはすでに中世には教えとして説かれていたのである。日本においては、どうだろうか。日本では、90年代にビジネス書として生まれた、『マーフィーの法則』が有名どころか。
日本では、論語のような朱子学は80年代ごろに流行り始めた。この頃には、人間関係が上手くなる方法や、謙虚な学びの実践、幸福になるための方法といった、現代の自己啓発本における源流が流行した。
80年代や90年代にかけて、どうしてこのような自己啓発本が流行り始めてきたのだろうか。こうした自己啓発はなせ人を惹きつけたのだろうか。このことを理解するために、いくつかの仮説を考えてみたい。
社会主義運動からのポスト・モダン
80年代に自己啓発本がブームになり始めたことは、単なる偶然だったのだろうか。ここで、70年代の日本の実態についてみてみよう。
70年代の日本で起こった最大の出来事といえば、連合赤軍であろう。連合赤軍は、世の中の社会的平等を掲げ、格差社会を革命によって是正しようとした左翼軍である。この赤軍の基盤にはマルクス主義があった。
そしてこのころ教養的にもマルクス主義を肯定する主張が目立ち始めた。例えば、浅田 彰の『構造と力』では、ジャックラカンを超える思想としてマルクス主義を擁護している。
しかし、連合赤軍のマルクス主義革命は失敗に終わってしまった。その結果、日本においてマルクス主義を正しいとする、風潮も途絶えつつあった。
そこで生まれた新たな思想がポストモダンという考え方だ。この思想は80年代には日本の学問において、大きなブームとなった。この思想で有名なジャン・フランソワ・リオタールは、マルクス主義などを大きな物語とよんで、こうした物語が終焉したと叙述した。
つまり、かつてカールマルクスが一応唱えた、科学的なマルクス主義は、ラディカルに解体されてしまったと言えてしまうわけだ。
そうして残るのが、小さな物語、つまり自己を語るという新たな物語が出てきた。これは80年代後半から現在かけての主流な、物語となっている。こうして、マルクス主義という科学的な知がラディカルに解体されてしまった後で、非科学的な教養がブームになった。これが、学問ではなく自分に語りかけ、非科学的なものとしての自己啓発本となったのではないだろうか。決して自己啓発本が80年代ごろに流行り始めたというのは偶然ではないのだ。
必然化する自己語り
他者に自分の振る舞いを示し、それを元に、新たな自分を振る舞い作っていくことを「再帰性」とかいったりするけれど、この自己を啓発するというのも一種の再帰性と言える。自分の振る舞いを自己啓発に当てはめ、それに啓発されて新たに自分の思考や人間性を作り変える、そんな自己語りはこれからも主流になっていくであろう。
こうした自分という物語が、どんどん増えていき、こうした物語は自分が死ぬまで永遠と語り続けることができる。これからの自己のあり方は、その局面ごとで多様性を持ったものになっていくことは、必然的であると言えるのだ。