最近の哲学が胡散臭くなっていると感じて
ふと、マルクス・ガブリエルやカンタン・メイヤスーなどの現代哲学者の論文を読んでいると、どうも最近の哲学はどこかパッとしないなと感じている。
確かに、古代〜近代哲学は、大きく学問の礎を作ったと言っても過言ではない。ここでは、詳細に哲学者の思想の話はしないが、古代ではプラトンのイデア論、中世になるとトマスアクイナスの神の存在証明、近代になると、「我思うゆえに我あり」で有名なデカルトの独我論。さらにカントのコペルニクス的転回など、19世紀ぐらいまでの哲学はとても、興味深いものと言える。
現代で言うと新たな実在論として、「思弁的実在論」がここ2〜3年、哲学の主流になっている。思弁的実在論というのは、まあ簡単に言ってしまえば、我々が生まれる前の存在や人間が思考できないモノの存在を考えるいわゆる存在論のことである。
ただ、こうした「思弁的実在論」の有用性や有効性がどうしてもわからない。というか、こうした実在論や存在論といった「モノが存在することはどういうことか」という哲学が限界に来ているのではないかとも思ったりする。
というわけで今回の雑記では、哲学が少しづつ人生が幸福になるにはどうするかということを離れ、哲学そのものがすでに時代に乗れなくなっているのではないかということを考えてみたい。
ポストモダン以降の哲学??
思弁論的実在論の代表格の一人である、マルクス・ガブリエルは「思弁的実在論はポストモダン以降の哲学である」と述べている。
ところでポストモダンとは、マルクス主義や大きな物語などの絶対が終焉した時代なのだけど、実は社会科学的には本当に我々はポストモダンの時代にいるのかと疑問符を打つ学者も多くいる。
それは、定義的にモダンとはどこのことを指すのかという時代感覚ではなく、我々が今どこにいるのかということが残念ながらまだ分かっていない。
こうしたポストモダン・モダンという区別がまだついていない中で、ポストモダン以降の哲学と言われても、正直ね・・・・という。そもそも論になってしまっているけれど、我々の立ち位置がまだわかっていない時代に、先祖以来や思考を超えるいわゆる超越的なものの存在を明らかにすると言っても、かなり無理がある。
まあ、無理矢理ポストモダンと言ってしまえばそれまでなのだけど、ポール・ゴーギャンが問いかける「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこから来たのか」という難題を解くということと同じくらい難しいのでは、と思ったりした。
プラトンへの注釈
かつて、20世紀の科学哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドが、「西洋哲学の歴史は、プラトン哲学の膨大な注釈に過ぎない」と述べたけれど、現代の哲学はまさしくプラトンの実在論に注釈を与えているという形になってしまっていると思っている。
思弁的実在論などだけではなく、エトムント・フッサールにあるような現象学など、こうした存在論というのは、そもそもプラトンの実在論に大きな影響を受けている。
現代に関わるこうした哲学は、ものの存在という一つの哲学的難題に一石を投じるものであるのには変わりないのだけれど、実在論ってほとんどプラトンと同じだよね、という認識をもつ哲学者もいることは確かだ。
まあ、哲学が胡散臭いと言ってしまうと、哲学者には申し訳ないのだが、もしこうした「思弁的実在論」を流行らせるというのであれば、我々の認識を超えたものの存在を証明することで、何が明らかになるのか。ということをゆくゆく考えていかなければならないだろうなと思う。
現実にあることに目を向ける
現実におこることに目を向けよう、とかいうとドイツ観念論の影響をかなり受けていると言われると思う。しかし、ルードウィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは、『将来の哲学の根本命題』という小論の中で「自然の中での現実に起こりうることに目を向けることが今後の最重要命題である」と大真面目に述べた。
この人は完全にヘーゲル派の人間であり、いかにドイツ観念論の影響が強かったのかがよくわかる。
哲学というのは、私自身人生を豊かにするためにあるものだと思っているのだけど、我々にとって身近で知覚できるものの存在を明らかにすることが根本にあるのではないかと思う。
私が哲学が胡散臭いと思ったのは、こうした根本が崩れていることに端を発しているのかもなと感じたのであった。
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