精神疾患と神経症の違い(だと思うもの)
他の方のコメントで書いた事をまとめてみる。
「精神(疾患)」と「神経(症)」の違いを妻が解ってくれなくて、どうにもモヤモヤしてケンカ寸前になったので
ダイソーに行ってスーパーボール(空洞がないゴムのボールね)を買ってきて、小さなものではあるが、10個ほどいっぺんに妻に投げつけて
「反応できんやろ?!」
(この時点でケンカを売っているが)
という事をした事がある。
解ってても反応出来ないし、痛くないと解っててもつい首をすくめてガードしてしまう。
発達障害も含む神経症ってのはそういう類のものだ。
哺乳類が本来持っている防御的な適応そのものだと俺は思っている。
一方精神疾患というのは
「ムカついたからわざわざダイソーまで買い物に行って妻にボールを投げつける」方だ。
そんな事までしなくてもいいのに認知がそのようになってしまってそうしたくなる。
それが解決方法だと思ってしまう。
そして、場合によっては「治る気持ち」「適応的であろう」とする認知そのものが変調してしまっている可能性すらある。
これはある種「人間疾患」とでも言うべきもので、そのような認知をしなければ健康に生きる事が出来なかった過酷な環境に当事者が「適応」し、違うライフステージになり、その「適応」が要らなくなったのに残ってしまっている状態だと考えている。
不本意かつ、良い表現だと言えないのは承知で書かせてもらうが「精神疾患」は「治る気持ちすら認知で歪む」「治りたいココロそのものが全く別次元の認知に変質する」場合もある。
「適応しようと生体的に精神的に頑張った」という意味では似てるものだし、互いに影響を与え合うけど違うメカニズムで動いてるのは解ってくれたらいいなぁ、というお話。
あ、ちなみにパーソナリティ障害のBクラスタである
・境界性パーソナリティ障害
・演技性パーソナリティ障害
・自己愛性パーソナリティ障害
・反社会性パーソナリティ障害
はこの神経症域と精神病域を行ったり来たり、どっちとも取れる状態である線引きが難しい「境界域」である、とされています。
境界性パーソナリティ障害、ADHDであった俺が3年間受けたカウンセリングは「精神」にアプローチするもので、前回の日記で書いた「神経系ケア」は神経にアプローチするものです。
投薬もこの「神経」にアプローチするもの。
(ハタめいわ…ゲフンゲフン、他者との軋轢四天王であるパーソナリティ障害Bクラスタの場合、神経、精神のどちらかが安定するともう一方もまた安定する、という説もあるし実感もしている。ただしこれら疾患に功を奏すると言われているスキーマ療法やDBT、パーツ心理学等は主に精神にアプローチするものである、と感じる。だが投薬などもセラピストと一緒にオーバードーズを気をつけることが出来るなら十分有効である。俺は精神科医は「合ったお薬を引くガチャ」「合ったお薬が見つかったら、それを安価で処方してくれる優しい人」ととらえて、神経方面のケアは最低限の投薬(漢方薬)だけに絞り、精神療法をしていた。生き地獄を味わう同じハタ…く…ゲフンゲフン、大事なお仲間へのちょっとしたトリビア。スキーマ療法は工夫したりポリヴェーガル理論と組み合わせると急性期への対処方法にもなる。多分。)
発達障害の二次障害で「精神疾患」になってしまった場合、精神の変調(認知の歪み、という言葉でよく説明されてますが。俺は『歪み』などとするのは嫌いだ。そもそもこの世が演繹と帰納に基づくことが出来る線形であるという「認知」そのものが人間の限界であると思うから。定命の人の子ごときの認知なぞ歪んでいて当然なのだ。脱線。)が神経に影響を与えて特性を深化させてしまっている場合もあるので、投薬だけで発達障害が緩和されない場合はあります。
上述の例で言うなら、神経系のケアはボールが飛んできてもそれに反応しないようにしたり、上手くキャッチ出来るようにしたり、ボールを見ただけで反応してしまったりを緩和するためのものです。
なので(交感神経優位状態に四六時中さらされる)発達障害の方にも神経系のアプローチは有効なのかも。
先天的要素を持ってるから難しい、とお考えになる人もいるかもしんないけど、神経系のケアってのは自転車に乗れるように訓練したり、逆上がりが出来るように練習したりするのと同じように「体に覚えさせる」エクササイズという側面があります。
一度体が覚えてしまえば、なかなか忘れないように神経を安定させる「感じ」を覚えれば特性は薄まっていくと俺は思います。
逆に精神疾患を負ってる方も神経が安定すると、神経は精神を補おうとするので神経系のケアで安定させてから、根源的な精神の葛藤にアプローチする、という方法もあります。
前述の例で言うなら例えば「すべてのスーパーボールは見かけたら俺の方に自動的に飛んでくる」と強く思い込んでしまって日常生活に支障をきたすのが精神疾患であり、神経が安定する事によって「いやいや、それは可能性としてはかなり少ないやろ」と検討能力が適応的になり、その上で「なんでボールが全て飛んで来るなんて認知を俺はしてるんやろう、それをやめるにはどうしたらいい?」と可能であればセラピストと一緒に考える、そんな感じです。
さらに言うなら俺のように「精神療法」で「精神」のケアをして、認知の土台をふっにゃふにゃなものから堅固なものに硬めて、神経的な急性期(発作?)に認知の力で打ち勝てるようになってから、神経のケアをするという方法もあります。
どれが合ってるかなんて人それぞれだし、入り混じって微妙な事になってる事もあるので、同時に進める事もあるしで、一概に「これがいい」「これが出来ないから難治だ」とか言えないし「ボールが飛んで来るだけで身構えるのはメンタルが弱い」などと思うのはそれこそ「認知の変調」です。
なので神経症だ、精神疾患だ、と言ってメンタル云々言われたら
「ああ、この方はそのような認知を持っている、ひょっとしたら神経が大変な方なのかも知れないな、同類だな、優しくしとこう」くらいに思っておくのがいい。面倒なら有無を言わさず離れる。
そうではない方に俺らの感覚を解ってもらうのはなかなか難しい。
だけど、どういうものか表現して誰かに伝えるのはそうなった人にしかない才能であり、特技でもあるんです。
ただしスーパーボール投げない方がいい。
ダイソーにはスポンジボールの束もおそらく売っている。
経験者からの忠告だ。
(スーパーボールはその後我が家のニャーニャー言うかわいいスタッフが狂喜乱舞して楽しく遊びました)