箱庭 その後2
昨日から調子が悪い。
最近見られなかったアグレッション(能動性、衝動性、攻撃性)が低い位置でマグマのようにうねっている感じ。
他の方からは笑い話でしかないのだろうが
「兵士とピカチュウ」という箱庭のイメージにとらわれている。
あれが、幼稚園〜就学初期のトラウマに起因しており、その他の記憶と連結しているものだとは自分で認識出来る。
以前であれば「外在化」させた俺の中のイマジネーションの産物でなんとか出来たのだが、それらを失った事によって自分自身で「徒手空拳」で対応せねばならないのだ。
とある方とのやり取りの中で、どうやら俺は比較的長い間、自己同一を失っており、それが統合された/されつつあるという可能性があるという示唆を得た。
以前であればSNSで心許せる方々に甘える事も出来た。
しかしそれすら今はない。
「一人になってしまったのだな」
という感慨でいる。
だがこれも通過儀礼なのだろう。
この「見捨てられ不安」のようなものと融和出来なければ俺のこの先はない。
この気分を押し込めるのダメ。
囚われてもダメ。
こんな不安定な状態で思ったよりネガティヴな気分にならないのは「良くなってきた」と実感していた自分にこんな脆さがあったという発見をどこか楽しんでいるからだ。
対立事項との融和が「個性化」の道であり、それが安易なものではない、とするならこれも必要なものなのだろう。
知識としては解っていたが実感として感じる。箱庭療法は子供だけでなく、大人がやっても効果が出る。
「外在化も行動化もせず、たった一人でやりきるんだ」
「自分」で「自分」に言い聞かせる。