理想の自分。
箱庭は左から右へ時間が流れていく。
そして手前にあるものは
「手が届き易いもの」
遠くのものは
「手が届きにくいもの」
つまり「川」の東岸(右側)にあるものは
「いずれ手を届かせたい自分」
その角に俺はアテナ神を意識した女神像とその眷属であるフクロウを配置した。
そしてそのフクロウを「親父だ」と言った。
俺の精神世界は女性への尊崇を基盤にしている。
そしてその眷属として俺が立ち回り、動く事。
それはおそらく俺の家族がそうであった事に由来しているのかも知れない。
親父は極度に気分屋である母親に翻弄されながらもそれを出さずにいた。
それがどこかで俺のバックグラウンドになっているのだろうか。
それが俺の理想なのだろうか。
あるいは気分屋ではなく、勝利と理知を司る女性であれば命かける事を厭わないという意識があるのだろうか。
アテナの元になったメソポタミア人の女神イシュタルは気分で恩寵と呪詛を放ち、英雄を恩寵と呪詛で翻弄した地母神だった。
命をかけた女性の為に死にたい。
そんな、北欧神話の戦を司る半神、ヴァルキュリアのようなものに魅了された人生が「できそこない」であると認識していた事から少しだけ脱却出来た俺が望むものなのだろうか。
そんな印象を持った。
一方、東岸の手前にいる馬に乗った男性。
これは「動物に乗った乗馬の正装をした男性」
自分の情動(馬)を律して、正装をした(社会的に適応的な)俺。
その奥に居る恐竜はその逆。
俺が「獣」と認識していた俺。
情動のままに動き、牙を剥く事を厭わない俺。
彼らが同じ側に立って一定の距離があるのが俺の自我の理想なのだろう。
これを総合すると
「女性への尊崇を忘れずに、律している自我と律さない自由さが適度に融合した俺」が今俺が理想としている自分だと認識している事が解る。
そしてそれを対岸(西岸)から見ている3人の女性。
この女性たちは多くは言えないが過去に深い関係にあった女性だ。
彼女達はある意味俺の「傷つき」「トラウマの再演」の犠牲者であり、保護者であった。
彼女たちの立場から言えば「自分の知らない場所で起こったトラウマに翻弄された」被害者でもある。
そして彼女たちは皆、父親との何らかの葛藤を抱えていた俺の写鏡のような女性たちだ。
今なら思う。
「もっと上手く守ってあげられれば良かった」と。
理想の自分と過去の女性たちは俺のアニマ(女性的側面)を間にして立っている。
俺が、、、彼女たちを見捨てられ不安に踊らされず見守ってあげられたなら、今のようにほんの少しだけでも気配りが出来たなら、違った未来はあったのかも知れない。
だが、残念ながらそうはならず、俺は東岸の俺になる事を目指している。
それを祝福してくれてるのだろうか。
それとも「呪われよ!」と呪詛しているのだろうか。
あるいは「なんだか忘れたけど、昔そんなマザコンを拗らせた男がいたような気がする」とでも思っているのだろうか。
答えは俺の中にしかない。
「前よりもマシな自分諦めない」
「死ぬまでアップデートする事をためらわない」
こんな事でしか、謝罪と感謝の意を示せない。
これが川を挟んで起こった、かつて本当にあった物語。