本、についての雑感
文章は人で、人生だと思う。
時たま、深く共感できる文章に出会えたときは、そうだよなって思うし、俺の話を聞いてくれたみたいな感覚になる。
本当によく言われる、チープな話だが、文章は人に寄り添ってくれるというのは真であると思う。
孤独を抱える人間が内に秘めた寂寥に少しの慰めが与えられる。
筆者が全く同じように考えているわけもないが、少なくとも、部分的に限定的に自身の抱える思いに近接する。実際に筆者が同じような思いを抱えてはいなくとも、そういったものに対する感度や想像力のある人間が、今は目の前にいるということを感じることが出来る。それだけで、世界と細いながらも繋がりを保つことが出来て、まだ人間でいられると思わせてくれる。
俺が暗く湿って陰湿な人間が出てくる物語を好むのはそのせいかもしれない。俺自身が、暗く湿った陰湿な人間だから。
一時期はそういった人間が最後には死んでしまうような物語を好んでいた。俺も死にたかったから。物語の中で、共感できるような同じ孤独や疎外感を抱えた人間が、俺の代わりに死んでくれるから。俺の死にたい気持ちと一緒に死んでくれるから。
今でもその部分はあまり変わっていないようにも感じるが。
本を読むということは、筆者の考え、想像力に触れることだと思う。人を見て、共感したり、人に対する共感力を養ったり。共感力ってなんかやだな。全部が人間のステータスのためにあるみたいな言葉で気持ち悪い。ゲームの強化アイテムじゃないんだから。
とにかく、本を読むことで人に、人生に触れることが出来る。だから本は人で人生だと思う。
俺は大きい本屋に行くと、発狂して泣きながら叫んで走り出して逃げ出してしまいたくなることがある。本屋、ひいてはこの世には無数に本が存在する。日本語で読めるだけのものでも相当数存在する。本屋では平積みの本が並び、扇情的な謳い文句のポップが並んでいる。俺はその本の内の、棚に並ぶ本の内の、世界にある本の内の、ほんの一握りしか読んで触れることが出来ない。全部読みたいのに、全部読めない。この世には、人生には、俺が触れることが出来ないものが多すぎる。こんなにも悔しいことはない。
俺は不可逆が嫌いだ。マスターボールもラストエリクサーも使えない。髪を切ることも嫌いだ。教科書に名前を書くことも、歳を重ねることも嫌いだ。
だが本屋に来て無数に立ち並ぶ本を見ると、その全てを読むことなど到底できないと突き付けられる。お前の人生というゲームにおいて、回収できない要素がこんなにもありますよと突き付けられるのだ。ゲームで全ルートを回収しないと気が済まないような人間にとってはこれほど苦しいことも無いのではないだろうかと思う。
人混みの中でふと、この人たち全員にも意思や思考があり、これまでの何十年という人生があり、これからの何十年という人生があり、2度と俺の人生には立ち現れない人も、明日俺のあずかり知らないところで死ぬ人もいるのだろうと思うと気が狂いそうなほどの恐怖感を覚えることはないだろうか。これも本と同じである。俺の人生には、俺の知らない要素が多すぎる。俺の人生の全てを仔細に知ることは俺には不可能で、それがそこはかとなく怖い。
そういう事実に真っ向から向き合って、死ぬほど本を読むということをしないのは、どれほど努力しても叶いはしない夢幻であると了解して諦めているからであろう。できそうならやるんだけどね。せめて有名な賞取ったやつは全部読むぐらいはしても良いのかもしれないけれども。
それでも読書を止めないのは、本を読んで共感を得て眠ることが忘れられないのだろうと思う。
俺が文章をたまに書くのは、傲慢不遜厚顔無恥な言いかたではあるが、俺の文章でも、どこかで共感したり反発したり、まあなんだっていいがとにかく読んでくれた人に何かを残せるかもしれないと思うからである。それだけ俺は文章の力というものを信じている。
しばらく何も発信しないと、創作欲みたいなもの(本当に創作をしている人間からすると塵芥のようなものなので、みたいなものとしておく)がふつふつと出てきて、たまに文章を書いてしまうので、そういう性分なんだろうなというのももちろん多分にあるだろうが。
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