「意思」と「運」の心地よい分岐点をさぐる/2月25日
水の入ったコップが溢れるように突然花粉症を発症する、と言われるその日がいつか来るだろう、という予想はついている。
しかし私には徐々に忍び寄っている気がしてならない。
ここ数年、季節の変わり目になると明らかに目の調子がおかしくなる。
コンタクトをしていようものなら、目がゴロゴロしてずっとしかめっ面をしていなければならない羽目になる。体感では、今の自分、ガチャピンぐらいしか目が開いていないだろうなと思っている、そんな感覚。
ただでさえ調子は今ひとつなのに、先をなんとなく見通せていたとある仕事のゴールが、ずっと先に延びた、との知らせが入った。ちょっと、自分の人生設計にも関わりそうなスケジュールの変更。
まあ、人生なんてそんなものだろう、というのは、なんとなく分かる。自分の力だけでどうにもできるわけではない。だからと言って、全てに流されるというのも、主体性がなくてきまりが悪い。
人生の全ては自分の選択で成り立っている、みたいなことも言われるが、確かにそうなんだけれども、選択の種類(究極の2択か、複数選択可能か)も、その責任の大きさも、本当にまちまちだ。
つい最近まで、私の人生も迷子になっていて、そこにたどり着くまでの自分の「選択」やその仕方、「選択」する責任を放棄してきたことを、随分と責めていた。「自分の手で選び取る力」の弱さに気づき、現実を突きつけられていた。逃げる場所もなかった、というか、自分の人生に対する責任をほったらかしにするという「逃げ」の積み重ねの極地がそれだったから、それ以上逃げる場所がなかった。向き合うしかなかった。
そこから浮かび上がってくる過程で、「自分の手で選び取るんだ」と息巻いたりもしていたが、全てを自分の手で選び取るんだ、かき分けて進むんだ、といったような「パイオニア」的生き方は、そもそも自分に向いてないんじゃないか、ということにも気づいてきた。やっぱり、それなりに生きてきて、ついたクセを今から直していくのは無理がかかる、それならば、自分に合った生きやすい生き方を探った方がベターだ。
「意思」か「運」か、「自力」か「他力」か、人それぞれ、心地よい分岐点があるのではないかと思う。
99%を自分で選びとって決め切らないと気が済まないタイプの人もいれば、10%は自分の意思と選択で、あとは人と運と時代に任せて、みたいな人もいるだろう。
自分だったら、どんな心持ちでいるのが良いかなと考えた時、59%くらいを自分の意思と選択で、あとの41%を他人との関係と、世の中の流れと、その時の運に任せるくらいが、心地よく、気楽でいられるんじゃないかな〜という結論に至った。59%は決して高い数字ではないけれど、自分の影響を及ぼせる範疇において、その中では全力で考えて、判断する、ということを前提に。
ただ、冒頭の仕事の件は、ちょっと切り離して考えた方が良さそうだ。大きな組織と組織の関係性、その末端にいる私。そこで翻弄されることが、果たして自分にとっての幸せになるのだろうかと考えた時、決して首を縦には振れない。
あの時より「選べる」自分になっているはずだから、心に正直に、身も軽やかにこなしていきたいところだ。
「スパンコールな波際で 浮かび続けるんだフローター」の歌詞が、なんだかしみる夜。
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