「キングダム」は読んでいませんが、始皇帝について
中国の初代皇帝である始皇帝、というと日本では「キングダム」がすぐに連想されます。残念ながら私自身は「キングダム」を読んでいませんが、始皇帝については長年興味をもち、いくつかの書籍を読んできました。「キングダム」の解説本なども書かれている渡邊義浩先生の著書などは分かりやすく、愛読しています。
毀誉褒貶はありますが、始皇帝、というのは本当にすごい君主だったと思います。
最もすごいと感じる点を一点あげよ、と言われれば、紀元前221年、つまり今から約2250年前に中央集権国家を創った、ということです。
ここでいう中央集権国家とは、国家が方針や制度・法律を定め、中央から派遣した官僚によりそれを全国で徹底させることです。国全体で事業に取り組めるのですから、それだけ大きな事業に取り組むことができます。
このような中央集権国家は、中国以外ではなかなか根付かず、世界全体では地方権力が分割して支配する封建国家が長いこと続きました。
ヨーロッパは、古代にローマ帝国が中央集権国家を目指しましたが、ローマ帝国崩壊後は封建国家が続き、中央集権国家は16~17世紀になって現れてきます。
日本では江戸時代までは封建国家であり、明治維新時の廃藩置県で中央集権国家になったのは、なんと明治4年、西暦1871年になります(!)。
これらと比べると、紀元前221年に中央集権国家ができ、(一時的に封建制に戻りつつも)概ね2250年に渡って中央集権国家だったことは、途方もないことでした。
なぜ始皇帝は中央集権国家を創ることができたのか。
その理由として、地方権力や血縁関係を基盤とした「氏族社会」を破壊し、法に基づく法治国家を徹底したことがあげられます。ここでいう法とは法律だけではなく、基準統一などの制度や、信賞必罰などの実力主義も含まれます。特に実力主義は徹底していて、身分が低くても功績をあげれば地位が上昇し、王族でも功績をあげなければ追放されました。
これは秦が中国辺境に生まれた国であったため、中央の国々のように「氏族社会」に囚われなかった、ということがあります。
一方で、「氏族社会」の破壊は、地域や血縁のなかで育まれた、「地域のなかでの助け合い」や「親族への思いやり、尊重」といった文化の破壊につながるものでした。実は儒教とは元々、「氏族社会」のこうした文化を体系化したものでしたから、始皇帝が中国統一後に「焚書坑儒(ふんしゅこうじゅ)」という儒教弾圧を行ったのも自然な流れだったのかもしれません。
しかし、地域や血縁のなかで育まれた文化を徹底的に破壊しつつ、巨大な宮殿や墳墓を造営し、民衆の負担を増やしたことにより、始皇帝が創設した秦は長く続きませんでした。紀元前221年に中国統一後、わずか15年後の紀元前206年には滅亡しています。
法治国家を進めつつ、それまで育まれていた文化も尊重し、民衆の生活ももっと大事にしていたら、中央集権化には時間がかかりつつも、秦はもっと長く存続していたかもしれません。
組織の目指すべきビジョンや組織文化においても考えさせられる歴史です。