自分を打ち負かしたライバルから学び、真似た徳川家康
大河ドラマ「どうする家康」の5月7日、14日放映は三方ヶ原の戦いを描いたものでした。この戦いは徳川家康が武田信玄に大敗したもので、その後の家康の教訓となった戦いとして有名です。
西に向かう信玄が家康の浜松城前を素通りした為、家康は信玄が三方ヶ原を通り過ぎて狭い道に入れば攻撃できると考え、城を出て追撃します。しかし、信玄は三方ヶ原を通過せずに家康を待ち構え、打ち破るというものです。ドラマで描かれていたこの流れは史実通りと言われています。
以前からこの流れは知っていましたが、今回ドラマを観る中でふと気づいたことがありました。それは、この流れは、27年後の関ケ原の戦いで家康が進めた流れと似ていないか、ということでした。
関ケ原の戦いでは、家康と対立する石田三成は大垣城にいました。家康は大垣城を囲んだ後、大坂城に向かって西に向かった為(※)、大坂城の豊臣秀頼を守る三成は慌てて大垣城から出た結果、関ケ原で家康の東軍と三成の西軍が戦うこととなったのです。
※家康が大阪城に向けて西に向かったかどうかについては異説もあります。
敵の城を無視して西に向かうことで敵が城を出るように仕向け、広い野外に敵を引っ張りだし、決戦にのぞむ。
この流れは三方ヶ原、関ケ原とも共通しており、三方ヶ原で敗れた家康はこの流れを関ケ原でつくり、三成を破ったのです。
想像ですが、関ケ原では家康が大垣城をずっと囲んでいると、秀頼が出陣してきたり、また各地の大名が自立の動きを見せる等、家康に不利な状況が生まれたでしょう。その為、三成を野外に引っ張りだし、短期決戦に持ち込む必要があったのではないでしょうか。
これは三方ヶ原でも同じです。ドラマでも阿部信玄が語っていたように、浜松城を攻めれば時間がかかり、健康に不安がある信玄にとって時間の無駄になり、また織田信長の救援が来れば挟み撃ちの危険もあります。その為、信玄は家康を野外に引っ張ることで短期決戦に持ち込んだのです。
現代にも通じる学びですが、自分が打ち負かされる経験をしたことは忘れたり、否定したいものです。例えば、ライバル他社が新しい商品・サービスを始めたことで自社が負けるようなことがあった時に、その商品・サービスの欠点等をあげつらうこともあるでしょう。
しかし、ライバルの商品・サービスが本当によいものであれば、謙虚に学び、真似た方が、自分の成長に繋がります。その商品・サービスを学んだ上で更によいものにすれば、今度はライバルに勝てるかもしれません。
自分が打ち負かされる経験をした時、そこから目を背けたり、否定するのではなく、なぜ負けたのか、競合相手から学び、真似ることが大事ではないでしょうか。