忖度に疑問を感じる人生(3)
物珍しさが気になる。
高校紛争の後、いつもの?高校生活を送っていた。帰宅部。だんだん勉強もしなくなり、高三になっても受験勉強に気持ちがゆかず、受験に落ち、予備校へ。
高校は自転車通学だったが、予備校は大阪市の北端の家から天王寺まで阪急と大阪環状線を経由しての電車通学だった。高校はどうしても学区内で似た成績・似た性格の人が集まってしまうが、予備校は講師陣も生徒も個性的。確かご飯を食べず酒しか飲まないという国語講師とか、北海道出身で背高飛びをやっている生徒とか。背高飛びの彼と、予備校のカウンセラーに「夜眠れない」との相談をしにいって、自律訓練法を教えてもらった(1回だけ)が、とても印象深い。高校の学食とは違い、一般の飲食店にランチを食べに出掛けるようになったのも大きな違い。「ラーメン古潭」を初めて知る。
物珍しさが勝っていた、いや物珍しさに救われた、いや物珍しさに気を取られていた時期だった。自分にとっての"Something New"(新しい何か)が気になるのは、今も変わらない(笑)
進路:気象庁勤務か、地理の教師か、工学系のエンジニアか。
気象大学校受験⇒落ちる
中学校の夏休みの宿題として、ラジオの気象通報(「石垣島では晴れ、北の風8m、・・・」とか)を聴いて天気図にしたのを提出したことがある。まだ気象予報士の制度が産まれてなかった頃。気象大学校の試験を受けた。落ちた(笑)
気象への関心は今も続いている。しかし予報の仕事をしたい訳ではなく、気象大学校が給料を貰いながら学べるところがポイントだった。親父は自営業。一時は木箱(木で作った箱。ポンプ製造会社に出荷用木箱を納めたりしていた)で儲かっていた。新築した家に親戚筋から当時珍しいクーラー(エアコンではない)をプレゼントしてもらっていた。昭和40年代か。でも時代は段ボール箱に代わり、古紙や廃棄物を収集しリサイクルする仕事に転換していっていたが、次第に裕福では無くなっていた。進路として、資金的に自己解決を試みたってことです。
地理の教師⇒人相手不得意で×
何をやりたいか?何が出来るか?
地理・地学にも興味あった。ははぁ~、気象だけでなく地球に現れる現象全般に興味があったんだ、今も続いているんだと今気付いた(笑)地理・地学で生活してゆくには、高校の先生というのが目前に見える手段だった。でも、生徒という人間相手の仕事は避けることにした。なにぶん「3つ子の魂100まで」で、幼稚園未体験の私はひとり仕事を目指した。
(しかし、そうはいかなかった、教師にならなくとも)
そうなると、工学系のエンジニアが残る。
通信工学をターゲットにする。
物理も好きだった。よく分からない事象から法則をみつけだすのは気象・地理・地学に共通することだった。一般化することに魅力を感じた。
それを人の暮らしに活かすという面で工学を選び、最終的に通信工学に絞り込んだ。当時は電話・電信が主流で、その後、FAX・携帯電話・インターネットへと急激に変化する前だった。ある意味、時流に乗った選択だった。別の見方をすれば、乗せられたのかもしれない。でも、乗ってみてこそ次がある。どれだけ忖度していたんだろうか?
(つづく)