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8/26 教職の思い出

私がいた大学は教育学部がなく、教員免許を取る人がほぼいない大学だったので全体として不親切なシステムだった。この教員成り手不足のなかで、免許をそう簡単には取らせないようにする仕組みだったと思う。最初に教職を取るといっていた人たちはどんどん辞めていった。他の授業と重複を避けるために授業の多くが1限か5限に置かれていたのも多くの学生にはきつかったのだろう。最終的には登録者の2割も残らなかったんじゃないかと思う。

印象に残っていること。
教職の必修単位にして最難関。水曜5限のこの時間が私にとって最も苦痛だった。先生の言っていることが何もわからないのだ。「おっおっおっおっおっおっおっー」大教室にEXILE×GLAY 「SCREAM」のイントロを彷彿とさせるような声がながれる。かろうじて合間に「教育勅語」などの固有名詞が聞き取れたが、それが意味をもつ最小単位だった。私はレコーダーを持っていって録音し、なんとか家で細部を聞き直そうとしたがやはりスピーカーからは「おっおっ教育おっおっ勅語おっおっおっー」が聞こえるだけであった。
評価方法は試験のみ(持込可)。持込可といっても時折配られるモノクロの「教育勅語の写し」みたいなものだけで、これで論述の試験は到底無理である。

こういうのを配られた。ウィキペディアより。改めて見ると文法が英語に近い。I think…

当時は同じ授業を履修している友人もいなかったため、私はひとり暗中模索で教育勅語に関連した本を数冊読んで備えた。試験はたった1問で90分、両面罫線のみの解答用紙がひとり2枚配られた。ひぇぇ。もう記憶もないけれど自分の知っているかぎりの用語でそれっぽいことだけを書くことに必死だった。評価はCだった。教職センターで最も「えらい」先生らしかったが、たしかに、学習者にこの授業から単位をどのように取ろうかと考え試行錯誤させ本を読ませるという点で教育的だったのかもしれない。

幸いほかの授業は無難にすすみ、実習がとても楽しい思い出となったことで私の中で教職という選択肢ももなくはないかと思わせてくれた。大学院のときは修論のかたわら、アルバイトがわりに高校で英語を教えていた。まあまあの偏差値の男子校だったが、アフリカに行ったときよりもカルチャーショックだった。「20代女性教員が来る」というだけで他学年他クラスからも教室にわらわら見物が来た。そのくせ話しかけると逃げた。小テスト延期のためにクラス全員で土下座してきた。1日絶対に3回はおならを聞いた。体育の授業後は半分くらい半裸で授業を受けていた。ゴキブリのおもちゃを何度も教務手帳にはさんで私のリアクションを見ていた。服の繊維かなんかがプリントに印刷のよごれとして反映されてしまったものを私の陰毛だと騒いでいた。あの2年間は毎日怒鳴り机を蹴り不快きわまりないことも少なくなかったけど、漫画みたいにばかばかしい笑いが日々必ずあって、誰もシリアスじゃなくて、私も気軽に授業ともよべないおしゃべりをしていたんだけれど、ずいぶん今は美化されてちょっとした面白い思い出になった。

いろいろあった思い出のひとつ。

男子校の生徒はほんとにみんなよく喋る

仕事というのはむずかしい。働いてみなければいろんなことがわからない。


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