8/22 がんばる論
ビジネス本の類は精神が汚染されるのでできるだけ読まないようにしている。本とも呼びたくない。これは私の大学の同級生がみんな言っていたようなことである。私も彼らもドイツ語の形容詞変化もあやふやな状態で、大学2年生からかっこつけてカントの原典を読んでいた人たちだ、こういうビジネス本を読む人間は負け組、おれたちは腹を空かせながらも精神だけは高尚に生きていくのだ、、、と爪楊枝をかりかりする、みたいな空気にだいぶ毒されて久しい。ほんとに誰も就職とかお金の話をしなかった。楽しかったな。まあお金を稼ぐ力がないので、こういうことを言うくらいしかできないのです。
アメリカで流行している『怠惰なんて存在しない』を読む。今よりも昔(大学・大学院・社会人2年目くらい)の私が読んだらもっと響いたかもしれない。朝6時に家を出て、片道2時間半もかかるような大学に行って、1週間に24コマも授業を受けて、片親だったので家のほとんどの家事とアルバイトもして性犯罪にも巻きこまれてメンヘラバンドマンとも付き合ってしまって、そんな生活で休日まったく動けないでいると、自分はぜんぜん頑張ってない怠惰な人間と涙さえしていた。今書き出したら頑張っているというかあまりにもかわいそうだな。
まだ読んでない&買ってくれた夫は「本に2500円払えるような人にしかそもそも怠惰は許されてないんだよ」と言っていた。たしかにね。この本の対象は身も蓋もなく、短期間で高単価を(潜在的にであれ)稼げる人である。そうした人に限って、いわゆる怠惰とみなされてるようなことを、浮いた時間をどうでもいいことに使うことを、生産的なものとして解釈しなおすことを目的としている。半分以上の人は対象ではない(気がする)。というか、あんまり怠惰が生産的なものであるという考えを採用したところで救いにもならない。「人並みに」生活をするという点で、多くの人は金になるスキルを持ち合わせていないため、時間を売ってお金にすること以外方法がなく、そもそも怠惰なんて贅沢で、生きるためにわずかな睡眠をむさぼるばかりだからである(そもそも私のこの認識がまちがっているということすらあるけれど)。SNS全盛期時代、他人の生活がある程度見えるようになった今、何が人並みで何が人並みでないかみたいなものを気にするようになりましたし。
稼げる人間がスローダウンして人間的な生活を取り戻すのがポジティブに受け止められたところで、稼げない人間が怠惰であることにみんな同情はしてくれない。怠惰なちいかわは好かれない。あと個人的な体感として、スケジュールを何か役に立つ時間、たとえばボランティアみたいなもので埋めがちな人は、プライベートであまり人に好かれないから(あくまで人に必要とされるような)予定をいれないと寂しくて発狂してしまうからじゃないかというのは感じている。
そもそも論で、まあ一般的に働く/学校で勉強する(日本だと部活も)時間て長すぎるよね、みたいな話もされている。私もずっとずっとそう感じている。でもそれが「標準」となってしまっている以上、そこからプラスアルファで投じたエネルギーと時間しか(あるいは結果を出さない限り)努力としてみなされない。高校の土曜の午前部活が終わって私はめったなことがない限りすぐ帰っていた。他のほとんどの人は午後は残って当たり前みたいに自主練している。だから、私みたいな人間が試合でレギュラーに選ばれると、恨まれたり泣かれたりする(あと私が選ばれたのはうまいからでもなくコーチに個人的に好かれていたというより悪質な理由である)。私からすると、平日授業が終わって2時間半、土曜に3時間を部活に充てただけで自分ではもうずっとキャパシティを超えた相当な時間やエネルギーを費やしている。
頑張るという言葉はとくに個人の脆弱性を惹起する。人の頑張りみたいなものはとにかく属人的にすぎるからだ。特に体力は個人差がありすぎて、少なくとも日本でいわゆる頑張りとみなされるものはフィジカルに疲れを感じにくい人たちと非常に相性がよい。私なんて1日働いたら2日休むくらいじゃないと全然立ちゆかない。これはものすごい差である。
私の大贔屓、べてるの本にも通ずるものを感じる。しかしいわゆる「降りていく生き方」は個人の実践だけじゃ正直だいぶ難しい。体力があって精神もタフで努力大好き体育会系みたいなのが上層部からいなくならない限り無理である。学校も然り。個人の幸せをめざすなら、お尻叩いて東大行かせる必要とかどこにあるんだろうと思うけれど、それでも東大を出た人間がパワーを持ち続ける以上、このまま時代錯誤のジェンダー観を持つ男子中高一貫出身者だけがパワーを持ち続けるという事態になりかねない。女性には頑張ってもらわねばと思う一方、他人にタフな生き方を強いるには自分が努力をやめず模範であろうとするタフさ、あるいは頑張れない人を切り捨てる薄情さが要る。私はもうそのどちらも持ち合わせていない。甘やかすことと愛と、厳しさと理不尽さの区別もうまくできない。甘やかされると世の中でうまくやっていけないという人たちが甘やかされた人を許さないのだということ、多くの人がただ「そのように思っている」ということが事実そのようになっているということに皆どれほど自覚的なのだろうか。
私自身も「降りていく生き方」を100パーセント生きてしまえるほどに強くはない。働かない人間にも働けない人間にも、他人は冷淡なほど無関心になる。うつなり精神疾患なりで働けない人たちが怒る気持ちは想像できる。べてるから学んだのは、頑張れなかったり精神的に病んでしまった人たちは、いた場所や人間関係があまりにも悪かったなど、不運であり不幸であったにすぎないということだ。それは、偶然にも自分がそうでなかっただけのことだし、ともすれば明日の自分であるかもしれないということに対してみな想像力が及ばない。
この本はありがちにもリベラルな自己受容に収束していく。私もそういう世の中であればいいと思う。ほんとに思う。でもどうせ共和党が勝つんだと思ったら私がアメリカ人ならすべてのやる気をなくしちゃうよ。自由の豊穣、何にでもなれるようでいてなれない時代を生きている若者たちにとって生きやすい国になるといいですね。殺し合いが起きないだけでも日本はいい国だと思う。ただ社会的にも精神的にも福祉が足りない。いったんくじけてしまった人たちがみじめな気持ちを抱きやすい。自分が頑張れない人間に向けた視線がいつか自分に向く恐怖から頑張るような社会は健全ではない。頑張らなくても自分を責めずに生きられる社会の方がずっといいよなとは思っていても、日本は共産党が与党にならない限り(それはあまりに現実的ではない)実現は難しそうである。私は私でなにかできることを探すしかないのだけれど。もうおばさんはほんとは頑張りたくないんです。ただどうしても他人事にしちゃいけないような気はするというだけで。
なんかこう「がんばる」とか「がんばらない」テーマってnoteの人好きそう。「がんばることをやめたらいろいろとうまくいった話」「がんばるのも私、がんばらないのも私」「がんばるって、なんだっけ」👈絶対あるよこれらののタイトル!正直本読んでる場合じゃないくらい仕事がたまっている。去年のクソ楽な職場に戻りたいな〜なんでやめちゃったんだっけと思い出したらセクハラが多いからだった。人間は悪い思い出ってけっこう忘れちゃうね。完璧な職場はない。うぅぅ。
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