仏像のある空間へいくともらえる✨
恐ろしい顔ですよね。
ほんとにそうでしょうか。
先日、當麻曼荼羅を見に博物館へ足を運びました。
平日で、感染症拡大ということもあり、人はまばらでした。
なので、2時間ほどゆっくり観覧できました。
言葉や、絵、物によって、人は気分を変えたり、ちょっといい時間を過ごせたりします。
若い頃は、お寺や仏像なんて、暗いイメージで、あまり興味がないものではないでしょうか。
日本において、仏像は、信仰の対象というだけでなく、歴史、美しさ、スピリチュアルを感じる造形物の数々です。
年をとるにつれ、いろんな感覚で見ることができるようになってきました。
幼い子が見たら、大きい上に、怖いお人形ー😭って、泣いてしまうくらいの形相のこちらですが、本来は私達を守るためのパワーを秘めた仏像です。
悲しみや恐れから、身を守り、自分の怠けや嫉妬心を戒めるように、そして幸せであることに気づかせてくれるような存在です。
間にはさまれ、感謝する気持ちが沸き起こります。
写真撮影が許されたのはこの二体だったので、伝わるかどうかはわかりませんが、造形物としての仏像が、一堂に、静かに安置されている展示室は、私にとってどこも、無重力空間のようでした。
足で踏ん張る必要がなく、肩の荷の重さもまったく感じないのです。
そこに立たされている??
いさせてもらっている、私は、ここに迎え入れてもらっているんだ、最初から!!
地球上のこの空間で息をし、食べ物を食べ、友人たちと笑い、家族と過ごせることのしあわせ。
鳥や虫、木ノ実や、米、着るものがある幸せ、ここへ来られたのも道があって車を走らせたから、、。
仏像を運搬された方々、管理の方だって、大変でしたでしょう。
それは誰かの働きのおかげで、また他の誰かが関わってはじめて成り立っています。
当たり前過ぎますが。
そこが、まさに『他力』なんじゃないか、と。
自分でやれることは、少ないですね。
仏像展に行きたい、と思うくらいのことですもんね。
ほかのなにをしたの。
お顔や姿、作られた時代に、思いを馳せ、どんなに沢山の人がこれに関わってきたかと思うと、圧巻です。
飛鳥時代の手のひらほどの小さな誕生釈迦像も、ふっくらしたお腹や、日本人離れした表情にも、そこにい続けて2000年近いよ、という雰囲気がただよいます。
手足がきちんと、残存しているものばかりでもありませんし、一部しかないといったものもお好きな方は保有されているようです。
私もまた、生まれた瞬間から、死ぬまでは、そこにいてよい、のだと思いました。
なにもしなくてよい、ただ喜びで満たされてよいのだと、教えられた気がします。
考えれば考えるほど、人間の社会は複雑で、より良くなってるんだか、どうだかわからないのです。
他所の国も、、社会も学校も家庭も、ルールや思いやりだけがあれば、うまくいくんでしょうか。
皆が幸せだと信じれば、世の中は幸せでいっぱいになるのでしょうか。
もぅとっくにそうなっているんじゃないか。
問題ないのに、大問題にしてはないか、親切と言って余計なことをしてないか、正しさで自分を苦しめてはいないか、、。
許すということも出来ていいんじゃないか。
苦しみ悩んだ人は必ず、幸せになれる。
これが本当なのでは、ないか。
お腹の減る人にしか、食べることの本物の喜びは、味わえない、そんなきがします。
今、苦しい人に、すぐに良かったねとは言えないけれど。
言葉も画像も足りませんが、若いときには思いもしなかったお気楽さで、近頃は、面白いことに遭遇します。
立方体の箱でサイコロを作ろうと、探していて、、買おうかなと思っていたら、入場記念にと、お香の箱をいただきました。
まさに、立方体や。
こんな私のスピリチュアルゆるゆる体験は、ここでシェアしたいことの一つです。
なので、サイコロをおいておきます。
クリエイティブに生きることは、私からの感謝の気持です。
下手さは愛嬌😁🧡
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?