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いま、ナチュラルワインに思うこと。
都会には、蔦屋書店なる大人のテーマパークがある。
充実した本のラインナップ、ゆったりとしたカフェスペース、途中で途切れないWi-Fi(ここ重要)。
奈良在住のぼくは指をくわえて見ていた夢の空間だったが、2020年に奈良市のど真ん中にできて以来、ぼくの第2の仕事場になった。
蔦屋書店は、まるで図書館だ。スタバでコーヒーを買って席に着けば、陳列されている本を「座り読み」することができる。
ぼくはもっぱらワイン関連の本しか読まない人間だが、じっくり読みたい本は一通り購入して自宅に置いてあるので、せっかく座り読みできるならと普段買うことのない雑誌コーナーを物色するようになった。
すると、最近はワインを題材に取り上げる雑誌が増えたことに気づく。
グルメ雑誌はもちろんのこと、カルチャー雑誌やファッション雑誌でも「ワイン」の言葉が表紙を飾っている。
ついにワインが日本でも市民権を得たのだな…
感慨深い思いで中を読んでみると、何やらおかしなことが起きている。
ほとんど、いやほぼ全ての雑誌が「ワイン」ではなく「ナチュラルワイン」をテーマにしているのだ。
グルメガイドを見てみると、「注目の新店」と取り上げられるワイン系のお店はほとんどがナチュラルワイン取り扱いと書いてある。
ワインのレビューを書く専門家は、ほぼ全てナチュラルワイン専門店の店主やソムリエだったりする。(*ワイン専門誌は違います)
それだけではない。
「今ワイン業界のトレンドはナチュラルワインである」
「ナチュラルワインは従来のワインよりもずっと美味しい」
「ナチュラルワインが登場してワインは自由なお酒になった」
「ナチュラルワインは環境に良く、健康にも良い」
多くの論調がこんな感じなのだ。
さて、この現状を、業界のぼくらはどう捉えているか。
これをお伝えしたい。それが今回のメインテーマです。
「ナチュラル」が業界を分断し始めている
最初に。
本記事ではナチュラルワインが何かについての解説は割愛するため、ぜひ以下の投稿を読んでから読み進めてください。
この記事でも触れているが、新しいカテゴリーが生まれて、それがきっかけで皆さんがワインの世界に足を踏み入れてくれるのはとてもありがたいことだ。
しかし。
それでも、看過できないところがある。
それは、ナチュラルワインを愛飲する方たち(便宜上、ここではナチュラル派とする)が従来のワインを否定する側面を持っていることだ。もっと突っ込んだ言い方をすれば、誹謗中傷をしているのだ。
別にいいじゃないか、何をそんなに目くじらを立てるのだ、と思われるかもしれない。
確かにそうだ。ワインはしょせんお酒であり、嗜好品だ。既存のワイン法に従ってつくられた堅苦しいお酒ではなく、ルールのない自由な造りをしているワインは楽しいじゃないか、と。
ワインは自由に楽しく飲むものだ。これについては100%同意する。飲み手にはなんら落ち度はない。
だが、問題はそこではない。考え方の違いとか個人の嗜好の問題では済まされないところまで問題が表面化していると感じるのだ。それはぼくだけではない。多くの業界の人間が、このトレンドに危機感を覚えているのだ。
一応断っておくと、ぼくは全くの保守派というわけではない。
ネゴシアンの仕事ではボルドーワインを取り扱っていて、そのほぼ全てがナチュラルワインとは謳っていないが、ぼくが個人で運営しているワインショップ「デシカ」では世界中のワインを取り扱っていて、その中にはナチュラルワインとカテゴライズされるものもある。
さて、本題である。
なぜワイン業界の人間はナチュラルワインに危機感を覚えるのか。
結論から入ろう。
理由は2つある。
1つめは、ナチュラルワイン論争の未来は、長年に亘り繰り広げられている「有機野菜論争」と構図が同じだからだ。
慣行農法に対するレッテル
少しワインから離れて、野菜の話をしよう。
一般に流通する野菜には、有機農法で育てられた野菜と、慣行農法で育てられた野菜がある。「慣行農法」というと何かしらの定義があるように見えるがそうではない。端的に言えば、有機農法や自然農法といった特別な農法に対する「その他」の農法と言って差し支えないと思う。
「農薬や肥料を使うのが慣行農法」というわけではない。使わなくても良いからだ。だがどうしても使わないと立ち行かなくなる時に、切り札として使うことができる。
特に、良心的な野菜作りをしている農家にとっては、むしろこの自由度がとても重要になってくる。虫に食われて穴だらけになった野菜を好んで選ぶ人は多くないだろう。菌やウイルスに感染すればその季節の収穫がゼロになり、経営が立ち行かなくなる。美味しくて栄養のある安全な野菜を安定して供給する…それがより多くの人を喜ばせることを彼らは理解している。
安全に美味しく食べられる野菜をつくるという大きな目的の下では、有機も慣行も、どちらも何ら変わりがないのだ。
さて消費者の多くが有機農産物に対してより良いイメージを持っているであろうことは、想像に難くない。農林水産省が過去に行った消費者調査でも、有機・オーガニック食品に対するイメージについて「安全性が高い」と答えた人が54%と最も多かった。(https://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/yuuki/attach/pdf/chosa-7.pdf)
最近では品川区が全ての給食をオーガニック野菜に切り替えるとして、その理由が「より美味しいから」「子どもたちの健康を増進するから」ということで話題になった。
有機野菜のイメージが良い。美味しく安全である。
しかしこれは裏を返せば慣行農法でつくられた一般的な野菜は、それに比べて美味しくなく、栄養価も低く、安全性も低い。という理屈になる。果たしてこれは正しいのだろうか?
…ワインに話を戻そう。
ナチュラルワイン論争も、いずれ同じ結論になりかねない。
「ナチュラル」は響きが良い。ナチュラルワインは、オーガニックであり、環境に優しく、美味しく、そして体にも良い。そういうイメージを与えてくれる。
しかし、世の中の問題の多くは、雑誌やメディアでは取り上げられない裏側、「B面」にある。ナチュラルワイン人気が続けば、それはファッションではなくカルチャーとなり、カルチャーはいずれ常識になる。その時ぼくらが最も恐れているのは、「ナチュラルワイン、オーガニックワインと謳っていないワインは、環境に悪く、美味しくなく、体にも悪い」という間違った常識が広まることだ。
野菜や果物と違い、ワインはその中身について、消費者が判断しづらい。だからショップやレストランのスタッフに頼らざるを得ない。そのとき、プロと名乗るスタッフが間違った常識を繰り返していたらどうなるだろう。行きつく先は、良心的なワイナリーが謂れのない誹謗中傷を受けて、間違った常識に淘汰される未来ではないだろうか。
実際に、お客様に真顔でこう言われたことがある。「このワイン、オーガニックと書いてませんね。身体に悪いんですよね?」と。
2つ目の理由は、消費サイドでの弊害だ。
それは、自由なワイン造りと謳っているナチュラルワインは、本当にワインの楽しみ方を自由にしているのか?という問いだ。
自由なワインが不自由な楽しみ方を生む
ぼくはワイン専門店でワインを眺めるのが好きだ。ボトルやラベルを眺めているだけでも満たされた気分になるが、こだわったお店であればその並び順もまた面白い。産地、色、品種、味のタイプ、生産者…と綺麗にカテゴライズされている。
ワインというのは面白いもので、産地や品種によって味や香りが変わるし、その傾向が飲む前からだいたい予測できる。だから望む香りや味わいに近いワインを、飲まずして手に入れることができる。
例えば、とあるレストランで飲んだワインがあなたの好みだったとしよう。そのワインのラベルにはフランス語がつらつらと書かれていて正直よく分からない。それでもとりあえず記録にとスマホで写真を撮ったあなた。
こないだ飲んだワイン、美味しかったなぁ、また飲みたいな、とワイン専門店に足を運んだあなたは、その時の写真をスタッフに見せる。
あなた「このワインが美味しかったんですけど、これありますか?」
スタッフ「おー!これは良いワインですね。しかし人気の生産者で、うちでは完売してしまったのですよ。なにより非常に高価です」
あなた「それは残念です…なにか似た味のワインはありませんか?」
スタッフ「でしたら、こちらのワインなどいかがでしょうか?こちらのほうが価格はずっと安いので、同じクオリティではないかもしれませんが、同じ産地、同じ品種、作り方も似ていますので味は近いですよ」
あなた「このお値段なら今夜の晩酌でも楽しめそう!早速買って試してみますね」
(完)
こんな会話が想像できる。
この会話で大事なのは、飲み手であるあなたに不自由さは一切ないことだ。気に入ったワインの写真を見せるだけで、スタッフは魔法のように、ごまんとあるワインの中から味わいの近いワインを選んでくれる。それはまるでハリーポッターに出てくるオリバンダーの杖屋のようだ。
よく、ワインは知識が要求される飲み物だと言われる。横文字がずらり、法律も面倒、なんて堅苦しいのだ、と。しかし実際ワインに関する膨大な知識を必要とするのは、あくまでも売り手側なのだ。
一方、ナチュラルワインはどうだろうか。ナチュラルワイン専門店で、同じ会話ができるだろうか。
1つ目の理由では深く触れなかったが、ナチュラルワインはオーガニックで栽培されたブドウを使っていること以外に、もう一つ大きな特徴がある。それが、伝統的な造りに則っておらず、典型的な産地・品種の個性を有していないワインが多いことだ。
典型的な個性とは何か?
例えばソーヴィニヨン・ブランに感じられるパッションフルーツや青草のアロマがそれだ。
このアロマは、放っておいても生まれるものではない。ブドウ、果汁が酸化するとあっという間に失われるため、収穫は夜間に行われる。酸化しないように密閉度の高いステンレスタンクを用い、低い温度を保ったまま醸造する。ボトリングにも細心の注意を払い、フレッシュなアロマが損なわれないようにしている。その品種に対する深い理解を前提に長年培われてきたノウハウと技術が可能にしている。
つまり典型的な個性とは、品種そのものが持つポテンシャルを、人間が開花させることによって初めて現れるのだ。
ナチュラルワインは、産地や品種の典型的な個性を持っているだろうか。答えは、全てではないが、ほぼNOである。
今日本の市場にある「ナチュラルワイン」と自ら銘打っているワインの多くが、産地や品種の個性ではなく、自分自身の個性を表現することを優先しているからだ。また、上で書いたような品種個性を引き出すための技術を使わないワイナリーも多い。だから品種個性が出ておらず、目隠しで飲んでもそれがいったい何の品種かを当てるのがとても難しい。
なぜ、彼らは既存の作り方を踏襲しないのか。
1960年代に端を発するナチュラルワイン運動は、いわば原点回帰であり、現代のブドウ栽培・ワイン醸造に対するアンチテーゼであった。
当初の運動には大きな意義があったと思う。
大戦後、疲弊した経済を発展させてきたのは、都市部に流れてきた労働者たちだ。彼らが食べていくための食料が必要だった。化学肥料や農薬を使い、野菜を大量生産する技術が確立し、世界中に広まった。
それはワイン造りも例外ではなく、農薬、殺虫剤、化学肥料の大量使用によって、効率よくたくさんのワインを造る流れが生まれた。同じ作物だけをずっと育て続けるモノカルチャー農業の大きな弊害は、作物が病気に弱くなることであった。そして土中の有機物は失われ、土は痩せていった。ブドウ畑は自然の一部ではなく、完全に「ブドウ工場」と化した。
この状況を憂いたワイン生産者たちが「昔のやり方に戻ろう」と動き出したのが、ナチュラルワインの始まりと言える。
野菜や穀物と違ったのは、それが栽培だけでなく、ワインに加工する過程、醸造にも原点回帰の動きが起きたことだ。畑の環境だけでなく、醸造の過程で使われる添加物の過剰使用にもメスを入れた。
(*ワインで使われる添加物の多くは、長期間の保管・移動に耐えらえれるよう微生物の安定化を図るためのものであり、味を調えるためのものはごく一部であることを付け加えておく)
当時はまだ「革命前」のワインが飲まれていたであろうし、彼らの父親、祖父がつくっていた、まだ化学肥料も添加物も存在していなかった時代のワインもセラーに置かれていただろう。彼らからしたら、安定化のために清澄剤とフィルターで濁りを落とし切った大量生産ワインは、味もそっけもなく感じられただろう。過剰な添加物使用がワインの魅力を損なうのは間違いない。
しかし、だ。時代が下るにつれて、ナチュラルワインの動きにも変化が見られるようになった。
彼らが当時批判していたモノカルチャー農業や、安定剤・清澄剤・酸化防止剤を過剰に使ったワイン造りは、市場の成熟とともに見直されていったからだ。一部の非常に安価な、およそワインとは言いがたいワインなどは例外として、環境に配慮せず、ただただ量だけを求めるようなワイン造りは、今ではほとんど見ることがない。一般的なワイン造りの質が上がったことで、ナチュラルワインはよりエクストリームに向かうようになった。
亜硫酸は無添加でなければならない。
濁りがあるワインのほうが良い。
ワイン造りはできるだけ人の手をかけてはいけない。
雑味がそぎ落とされたワインはつまらない。
そんな考え方をするワイナリーが増えてきたのだ。
当初ナチュラルワイン運動のパイオニアであったマルセル・ラピエールやジャン・フォワイヤールら、その師であるジュール・ショーヴェ氏などが掲げていたワイン造りの在り方とは、およそかけ離れたところにあると言っていい。
話を戻そう。
ナチュラルワインは、既存のワイン造りへのアンチテーゼから始まっているため、栽培醸造における添加物や科学薬品等の使用を批判している。それは良いことだ。だが、ありのままのワインの姿を追い求めた結果、人の手を加えることをしなくなり、品種の個性、産地の個性を失ったワインが増えてしまったのだ。ナチュラルワインに「どれも似たような味だな」と感じた経験がある方も少なくないと思う。
ここで問題になるのはワインの良し悪しではない。お客にとってナチュラルワインが「再現性がないこと」だ。
同じ産地同じ品種でも、作り手によって全然スタイルが違う。さらに年によってもスタイルが変わる。なんなら瓶によっても変わる。
時にナチュラル派のお店では「ワインは一期一会」という言葉を聞く。それはもちろんそうだ。どんなワインも飲むタイミングやシチュエーションで味わいは変わる。だが、「同じワインを買っても同じ味(スタイル)とは限らない」という意味だとしたら、それは商品としてどうなのだろうか。(極端な例かもしれないが年によって欠陥があったりなかったりするワインもある。決して安くない額を払って裏切られたお客は、ワインだけでなくそのお店の信用も無くすだろう)
美味しいワインに出会ったらリピートしたいと思うのが普通だと思う。しかし、再現性がないワインばかりでは、飲む前から味や香りを予測することが不可能になり、冒頭で挙げたようなお店での会話はもはやできない。
これは言い換えると、本来売り手側が担っている「知識の番人」としての役割がなくなり、お客が「どんなワインにあたるか分からない」リスクを負うことにつながっている。ぼくは正直この売り方を「とても不親切だな」と感じてしまう。
自由なワイン造り、自由なワイン販売は、お客にとっては自由さの押し付けであり、不自由な楽しみ方を生んでしまうのだ。
以上が、ぼくの考える「業界の危機感」の正体だ。
うまく言語化できているか、言葉が足りていないか、少し心配ではある。
ぜひ、ご意見を聞かせてほしい。
ワイン法を守る意味
理由は二つと書いたが、2つ目の理由に付随してもう一つだけ書かせてほしい。それは、ワイン法、原産地呼称とは何か、という話だ。
上にも書いた通り、巷でナチュラルワインと謳っているワインの多くが、その土地のワイン法に準拠せず、「自由なワイン造り」をしている。
「ルールを気にしない、型破りなアウトロー」
ちょっとカッコよく見えてくるではないか。しかし、ルールを無視した造りのワインが人気になるのだとしたら、みんなが無視するようになるのも時間の問題だ。
今や時代は個人主義。個々のワイナリーの情報はSNSでも閲覧できるし、ラベルに書かれた「Chablis」や「Cava」の文字がなくたってファンはつけることができるんだ。そう思うワイナリーは、今後増えていくだろう。
では、そんな時代がやってきたとして、ワイン業界はどうなるだろうか。
そもそも原産地呼称法の本来の目的は、詐称対策と品質保護だ。原産地呼称法ができるまでは、シャブリやキャンティといった人気のワイン産地の名前を、周辺の関係ないワイナリーたちが勝手に名乗ってもお咎め無しだった。
するとどうなったか。
名前だけで売れるワインの品質は当然下がる。品質を上げなくても売れるからだ。品質を上げる努力をしなくてよいから、値段も抑えられる。そうなると、粗悪で安価なニセモノが世の中に出回ることになる。本来、高い品質を誇っていたシャブリやキャンティの生産者にとっては、たまったものではない。
これを防いだのが原産地呼称法だ。
その名前を名乗るには、畑はその産地内になければならないし、ブドウ品種や熟成期間など製法についても規定を守らなければならない。
原産地呼称法がグローバルに広く一般化されたことで、消費者にとって大きなメリットが生まれた。それが品質保証だ。
飲む前から、一定の品質、そして味や香りといったワインのスタイルが保証されている。こんなに消費者にとってありがたいことはない。
歴史を見れば、ナチュラルワインがというより、自由な造りのワインが広まると、実は消費者にとってすごく良くない状況が生まれるのが想像できる。
なぜか。それはワインを買うための判断基準がなくなるからだ。
品質が保証されないワインに、大枚をはたくことはなかなかできない。普通はできるだけ安いワインを買って、リスクを避けようとするだろう。これは開けるまで品質を知ることができないワインの大きな欠点でもある。
もちろんすでに名声があるワインは高くても売れるだろう。だがそうではないワイナリーのほうが圧倒的に多いわけだ。となると、彼らが生き残るための方法は、価格競争に巻き込まれるか、より安定したワインを造り、品質が保証されるための「印」を求めるかになる。
そしてその印にふさわしいものこそ、結局「原産地呼称」になるのではないだろうか。
つまるところ、ナチュラルワインは現状、マイノリティーであるがゆえに与えられた「ナチュラルワインという印」が売れる理由になっていると言っても良い。メジャーになってはいけないという矛盾がそこにはあるのだ。
ナチュラルワインの未来
ずいぶんと長くなってしまった。
本当は2時間くらいでさらりと書くつもりだったのが、気づけば6時間もパソコンに向き合っている(笑)。
後半は、少し極端な未来予想図を提示してしまったかもしれない。
悲観的な見方で終始してしまったので、最後にポジティブな話を。
実際、ヨーロッパやその他ワイン生産国では、まったく違うベクトルで物事は進んでいる。
日本では、ワインといえば「ナチュラルか否か」という二極論がお決まりだが、生産側を見てみると、すでにナチュラルワインという言葉は死語になりつつあるように思う。
つまり、ナチュラル派も、伝統を守る派も、同じように高い品質のワインをつくるために日々努力しており、その境界線はすでに曖昧になっているのだ。
産地や品種の個性を守りつつ
生育環境にも配慮し
できるだけ無駄な薬剤や添加物を使わず
より美味しいワインをつくるために「手をかける」
これが現在の、全てのワイナリーたちの理想的なワイン造りになっているように感じる。そうなると、近い将来、ナチュラルワインというカテゴリーは不要になる…そう思わないだろうか。
また念のため補足しておくと、すでにこの理想的なワインをつくっているワイナリーもたくさんあり、それらの多くがナチュラルワインという肩書の有無に関わらず販売されている。
もはや垣根など無いのではないだろうか?
最後まで長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
面白かった、共感した、いやいや共感できない、どんなご意見も大歓迎ですので、是非あなたのコメントをお寄せください^^
最後に一つだけ。
「ナチュラルでないワイン」にまだ出会ったことがないあなたに。
是非、ワインショップに行ってみてください。
そして、ワインを愛する店員さんのお話を聞いてみてください。
ナチュラルとかなんだとか関係ないことが分かるはずです。
あなたに美味しいワインを届けるために日々努力するワイナリーたちのドラマが、そこにはありますよ。
それではまた。