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「セクシー田中さん」問題について、ジョジョアニメの成功例から考える”わからせ”の方法論

「セクシー田中さん」の原作者である芦原妃名子さんは私とほぼ同世代で同郷(少なくとも同じ県出身)であり、その世代の関西人が東京のメディアの中で地歩を築いていこうとしている試みの中で起きた不慮の事態として、この事件は他人ごとじゃない感じがして心が痛いです。

今回は、こういう不幸な事件が起きないようにしながら、それでも漫画原作のコンテンツが広く作られ続け、「こんな良い作品があったのか!」という良い出会いが今後も生まれ続けるにはどうしたらいいのか?について考える記事を書きます。

特に、「ジョジョの奇妙な冒険」のアニメ化も、初期は本当に本当に評価が低くて大失敗扱いされていたところから、今は世界的にも評価が高い成功例になっている事例について触れながら考察します。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「ドラマ版」セクシー田中さんの出来は”実は凄く良かった”事を皆知らない

私はこの事件はとにかく「他人事」と思えなくて、「どういうことが起きていたのか」が知りたくて原作漫画だけでなくhuluで配信されているドラマ版も全話見ました。

実際に放映されたドラマ版を見て意外だったことは、原作者の芦原さんがブログで「大きく改変されてしまった」と不満を述べていたような、たとえば

「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ・小西と進吾の長い会話といった大事なシーンがカットされた」

…という不満は「企画段階の脚本」についてのもので、最終的に完成したドラマ版にはちゃんと全部含まれていたことです。(この単純な事実すら誤解したままSNSで脚本家叩きをしている人はかなり多いと思います)

つまり、

完成されたドラマ版はかなり「原作の意図が反映された」ものであった

…ということです。

全体として、脚本家の相沢さん側がリードして「テレビ映え」するように展開したであろう中盤部分と(特に第二話のラストに”笙野くんと田中さんが同じベットで目覚めるシーン”を先に持ってくるテクニックなどのグイグイとドライブ感をもたせる展開など)、最後に原作者の芦原さんが主導権を取り戻して描いた最後の二話の「丁寧なモノローグを重ねる揺り戻し」も含めて、「漫画原作のテレビドラマ版の着地」としては大変理想的なものであったと思います。

実際、これが騒動になる前のSNSコメントを探してみると絶賛のコメントが圧倒的に多いですし、そういう視点で芦原さんのブログを再度読んでみると、「素敵なドラマ作品にしていただいた」と最終的な出来には原作者も好意的だった事が伝わってきます。

今のSNSにおける「セクシー田中さん騒動」の大部分は、こういう基本的な事実↑もよくわかっておらず、「脚本家の相沢さんを血祭りにあげればいい」という形に噴出しがちなのは問題が大きいです。

脚本家の相沢さんは原作をある程度自由に改変する事が持ち味だったらしくて原作ファンから恨みを買いがちで、人間的な振る舞いとしても褒められた事ではない真偽不明の噂も沢山出てきてますが、ただこの記事によると「演じる男優・女優の魅力を引き出すテクニックが高くてタレント事務所側からは評価が高くて指名される事が多い売れっ子脚本家」なりのプロの技術はある人だと思われます。

それは「完成品のドラマ版セクシー田中さん」を見れば十分伝わってくるところがあり、単に相沢友子さん(や日テレプロデューサー)の「個人の問題」として非難すれば解決できる問題ではない。

もちろん、「原作に完全に忠実に」やろうとするのが良い場合もあります。

そのために、前回の私の記事で書いたように「スラムダンク映画」や「Netflix版ワンピース」の成功例に見られる「ビジネスモデル」レベルで完全に権利を握ってしまい「原作者がガチガチに関与する事が正解」である事も多いでしょう。

ただしそんなことができるのは「本当に一握りの強者」だけであり、多くの漫画原作のドラマは「今のテレビドラマを巡る事情」の上で、できる限り「オリジナルの美点が伝わるように」作れるようになっていくしかない。

特に、「自分たちの文化を世界に理解してもらう」ためのビジネス上の徹底した蓄積があるジャンプ系少年漫画に比べて、少女漫画の場合は、その価値をちゃんと保存したままより広い層にアピールする手段として、今の日本のテレビ局が作るドラマの形式が最も適している可能性はかなり高い。

なにより、「セクシー田中さん」という作品のテーマそのものが、いわゆる「陰キャとか陽キャとか」といったそういう下世話なワードで分断されてしまうような「朱里ちゃん」と「田中さん」の生きている世界の間に、しかし人生に関する深い問題意識が共有可能であるというような問題意識だったわけですよね。

つまり、この「作品が持つ本質」からして、「少女漫画の世界」と「テレビドラマの世界」、または芦原妃名子さんと相沢友子さんといった、「全然違う文脈で生きている」2つの世界が、共有できる何かを見出していく試みをいかに実現できるかを考える必要がある。

現状の「漫画原作のテレビドラマの作り方」に何か問題があることは明らかだと思いますが、ただそれを「映像制作者側」をとにかく叩いたり、契約書でガチガチに縛ってやれば解決するのだ、という短絡的な発想でなんとかできる話ではない。

なぜなら、単に「ガチガチにテレビ局側にいうことを聞かせなくては」という押し込み方しかなされず、それが「今のテレビドラマ側の事情やコスト構造」的に成立不可能なレベルになってしまえば、単に「漫画原作のドラマが作られなくなる」というだけの結果になりかねないからです。

結果として、本来もっと広い範囲の人に読まれるべき良質の少女漫画原作が、その可能性を封じられるだけで終わってしまう。

つまり、「テレビ局側に改善を求める」にしても、「脚本家相沢を血祭りにあげろ」みたいな圧力を加えるだけではどうしようもないのだという事が、前回記事で私が述べたかった事です。

ではどうすればいいのか?

2●「ジョジョアニメ」の初期の大失敗と今の成功の間にあったもの

そこで考えてみたいのが、世界的にも評価が高い「ジョジョの奇妙な冒険」のアニメ化の事例なんですよね。

長年のファンはご存知と思いますが、

「一番最初のアニメ映画版のジョジョ(2007年公開)」は本当に本当に本当に本当に(中略)本当に本当に本当にサイテーの出来

で、

「こんなの全然ジョジョじゃない!」

…と怒り心頭になった私は、渋谷の映画館で夜に見たんですけど怒りに任せて帰り道をズンズン歩いてたら駅と違う方向に行っちゃって道に迷ってしまったぐらいなんですよ(笑)

でもその後、「どうすればテレビアニメの予算感で、”ジョジョ”を表現できるのか?」について色んな人が色んな「テクニック」の蓄積をしてきたんですよね。

結果として、

「原作者の荒木飛呂彦さんの絵のような一点もののアーティスティックなクオリティを常にアニメでも描く」ことは絶対無理

…だとまずは諦めてしまう事が大事だった。

一方で、「通常の予算のアニメでも描ける」テクニックとして、

こう描けば”ジョジョっぽく”なるのだという『定番の技術』

…を、アニメーターだけでなく声優さんたちや、あとはカプコンとかバンダイナムコのキャラクター格闘ゲームのクリエイターなんかが寄ってたかってテクニックとして磨き上げてきた経緯があるんですね。

この「カプコンの格ゲー↑」はジョジョの映像化表現の先駆者として相当な出来でしたが、その後も進化し続け、以下の「バンナムのキャラゲー↓」に至っては、相当な原作ファンでも唸るしかない出来になっている。

3●「相手の事情」を迎えに行きつつ「わからせる」方法論を磨く事が必要

ここで重要な事を考えてほしいんですが、「ジョジョアニメの成功」までのプロセスにおいては、

「アニメ制作側の予算その他の事情」を否定し、「ちゃんと原作通りにしろと契約書でガチガチに固めれば良いじゃないか」というふうに言っているだけでは決して実現しなかったはずだという理解が重要

…なんですね。

「アニメ制作上の技術的・予算的制約」があるならそれを迎えにいきつつ、その上で

原作の美点の本質を”わからせる”にはどうしたらいいのか?

…について、定番のテクニックを磨き続けてきた歴史がある。

その「定番のテクニック」が社会的に蓄積してきたからこそ、その後のハンターハンターや呪術廻戦といった「能力バトルもの」が、世界的に受け入れられる道も開けてきたところがある。

「ジャンプ漫画」の世界は、ビジネスモデル上の工夫と関わるさまざまなクリエイターのテクニック蓄積の双方で、着々とその価値を「世界に売り込む」「わからせる」努力が積み重ねられてきているわけですね。

「少女漫画の世界」を過不足なく「テレビドラマで扱える」ようにしていくために必要なのもまさにこういう精神で、

「テレビドラマの制作上の難しさ」を否定せずに飲み込みつつ、どうすれば「少女漫画の精神」をテレビドラマフォーマットで成立させられるのかについて、「定番のテクニック」が業界内で蓄積されていく必要がある

…のではないでしょうか?

そういう「よくある展開のパターン」が蓄積されていくことによって漫画原作の世界とテレビドラマ業界関係者の間に「共通言語」を作っていく事が重要。

それによって

あ、ここはアレの感じでやればいいのね!

…という演出がツーカーに行われていくことによって、今のテレビドラマの予算感でもちゃんと「少女漫画の美点」が過不足なく表現できる情勢にもなってくる。

そういう「ジェネリックな定番の表現技法」を発明していかないと、ちゃんと広範囲に届く映像化ができるのはNetflixワンピースやスラダン映画みたいな「一握りの強者」だけになってしまうんですね。

4●「ドラゴンボールに負けないジョジョアニメ」を作るために必要だった事と、「少女漫画の繊細さ」をドラマでも表現するチャレンジは同じ構造

もう少し「ジョジョの映像化」の事例について深堀りしたいんですが、2007年のジョジョ映画がファンにとって不満だったところは、

『ドラゴンボール』や『北斗の拳』のようなパワー至上主義的な展開

…の影響を受けた絵柄や演出になっていて、

それぞれの個人にはそれぞれの特殊な能力や志向性があり、単純なパワー勝負でなくそういう自身の本質に目覚めて活かしていくことが重要なのだ

…というジョジョの世界の深いテーマ性がかき消されてしまっていたところがあったんですよ。

で、2007年の映画を監督したのはまさに「北斗の拳アニメ」を長くやられた方だったらしいんですが、この羽山淳一さんという人を「個人攻撃」すればいい話ではないのだ、ってことが今回凄い重要な発想なんですね。

「ドラゴンボール的なパワー主義」ではない、「ジョジョ的な個々の本質的多様性を活かしたバトル」というものを、どう描いて良いのかについての「蓄積された定番のテクニックが当時はなかったのだ」という理解が必要

これと同じ話が、今回の「セクシー田中さん」問題で脚本家の相沢友子さんを叩いていればいいわけではないという話につながってくる。

「セクシー田中さん」型の優しい少女漫画の理想を、「テレビドラマの形式で描く」にあたっての、「蓄積された定番のテクニック」をこそもっと磨いていかないといけないのだ…という発想が重要なのだと思います。

単に「原作通りにガチガチに縛ってやらせる」ことで、単に「ドラゴンボールを見慣れた観客から見て全然迫力不足なジョジョアニメ」になっちゃってたら意味なかったわけですよね。

でも、「ジョジョ的な能力バトル」を描く定番テクニックを蓄積してきた事で、「ドラゴンボールの迫力に負けないジョジョ的バトル」をアニメ映像化できるようになってきた。

同じように、「セクシー田中さん」の「繊細な優しさ」を消したくないからといって、キャラクター同士が心情を語り合う長いモノローグだけが連続して続くような、「テレビドラマに必要なドキドキ感」が足りない作品になっていたらそれはそれで良くないんですよ。それで市場的に成立しなくなってしまったら、「原作漫画をもともと読んでいた層」以外にはその価値が伝わらないまま終わってしまう。

「テレビドラマに必要なドキドキ展開」を十分に演出しながら、「セクシー田中さんの繊細なテーマ」をも表現できるような、そういう「定番の演出テクニック」を、業界とファンが渾然一体となって作り上げていくことが必要なんですね。

5●「業界の事情」を否定せず乗りこなすテクニックを知恵を出し合って考えるべき

この事件に関するウェブ記事が毎日のように量産されていますが、一個すごい「その発想はなかった!」っていうめっちゃ勉強になった記事があったんですね。

それはこれなんですが。

これは西脇亨輔さんという、弁護士資格のある元アナウンサーで今はテレ朝法務部勤務の方の記事なんですが、この人も原作もドラマ版も両方ちゃんと見た上で、「テレビ業界インサイダー」ならではの分析をしています。

ドラマ版では、「田中さん」のベリーダンス教室の仲間たちがちゃんと名前入りで出てくるんですが、原作では「モブキャラ」でしかなくてそれほど活躍しないんですね。

セクシー田中さんドラマ公式サイトより(各生徒キャラをクリックすると原作にはなかった詳細な人物設定も見られる)

僕は日本の芸能界に詳しくないのでこういう発想は全くなかったんですが、例えば「景子」役の生駒里奈さんなどは、普通に考えれば全編を通じて台詞がほとんどないような役柄でキャスティングされるような人ではないらしく、ここに今回の「齟齬」の鍵が隠されているんじゃないか?という話でした。

「原作の芦原妃名子さんが最初に受け取って困惑した脚本」の中では、この「人気俳優をキャスティングしたモブキャラたち」それぞれにも深堀りしていくような展開が無理やり挿入されていて、それが大きな齟齬になってしまっていたのではないか?という話ですね。

生駒さんはドラマ制作発表時に「コメント」も発表していたらしいんですが、確かに最終的なドラマ版においてはほとんど台詞もないまま終わってしまっていて、「ここに何かあった感」はかなり感じられるところがあります。

こういう「タレント事務所の意向」みたいなものについても、ソレ目当てで見られる事で視聴率が底上げされて経済的に成立する事も実際多いんでしょうから、頭ごなしに否定していても始まらないと思うんですね(無理強いすると単に漫画原作が作られなくなるだけに終わってしまう)

ただし、「原作者の意向や作品の世界観」から考えて「無理のない決着」になるように配慮することは当然できるわけで、

・そういう事情があるならそういう事情がある事を否定しない
・その上で理想に近づける配慮をしていく

…ことが今後求められるのだと思います。

5●「価値観の違いでぶつかり合う」ことは、「リスペクト至上主義」より時に創作に必要

最後にお伝えしたいこととして、私事ですが私は経営コンサルタントとして日本の中小企業の現状などから体験したことをウェブで発信し、それが本になり、またSNSで徐々に読まれるようになり…という形で読者層を広げてきた人間なんですね。

で、その「コンサルの経験」→「ウェブ発信」の間も、「ウェブ発信」→「本」の間も、その間にはかなりの「ジャンプ」があって、そこでは結構「単にリスペクトしてもらえればいい」という話じゃなくて、「価値観の違いでぶつかり合う」ことが必要な局面はかなりあったと思っています。

特に最新のこの本↓とかは、あのコンビニで売ってる雑誌「SPA!」の創刊に関わられた経験のある編集長と、これまた雑誌出身の編集者のコンビで作ってもらったんですが…

日本人のための議論と対話の教科書

正直言って作ってる間は「価値観のギャップ」をめっちゃ感じてました。

お二人とも「雑誌出身(しかも言うたら悪いですが結構”扇情的な雑誌”w)」だから、小見出しの付け方から文体や選ぶ話題の選択から見てめっちゃ最初は抵抗感があった。

ザックザクと手を入れられて、最終的な文章でも一章まるまる「自分の言葉とは言えないな」って感じになってる部分もあって、本当に当時はショックを受けていたんですが。

ただ、本のタイトルや装丁が出来上がってきた時は、「なるほどこれは自分は絶対思いつかないわ」と思いましたし、この本の出版後はこれを読んでコンサル業の打診をくれた人もいるしウェブでの読者層もかなり広がった実感があります。

昔からの僕の読者やクライアントからすると「ちょっと抵抗感がある」ようなものでも、そうやって「異物とぶつかりあう」ことで可能性が広がるってことはやっぱりあるんですね。

だから、「リスペクトが大事」「原作通りにやれ」と押し込むだけだと、「アニメの映像化」も良くない側面はあるんだろうと私は思います。

絶対変えてほしくないタイプの人に嘘を言って契約して変えさせたりするのはNGなのは言うまでもないですが、正直言って「最初は原作者もかなり抵抗感があった」ようなゾーンの改変でも、バチバチにぶつかりあう中で着地点まで行くなかで本当の前向きなクリエイションが生まれることもある

特に「関わる人が増える」ともっとそういう要素は出てくる。まさに「実写化」の壁は高い。

ジョジョアニメはうまく行ったけど、「ジョジョの実写映画」はお世辞にもうまくいってるとは言えませんし、こないだの「ジョジョのミュージカル」もなんかトラブってるのを見ました。

「実写化」において特に問題なのは、原作側の意向が強すぎると

「コスプレ感」

…が出てきちゃうんですよね。

コスプレをディスってるわけじゃないんですが、「原作のファンだけがコレコレ、これだよ!」って喜んでるだけでその外側にはあまり広がらない作品になってしまいかねない。

「原作の味も全く消えた駄作」になるよりは「コスプレ感全開」になった方がいいけど、もっと良いのは「実写映像ならではの新しいリアリティ」があるのが一番良い

…ですよね。

2000年代の少女漫画原作大ヒットドラマ(映画化もされた)である「のだめカンタービレ」は、最初は岡田准一・上野樹里という配役で制作発表まで行われたそうですがジャニーズ事務所のゴリ押しで主題歌はV6に、ドラマの内容も「のだめ」でなく「千秋先輩」が主人公のストーリーに転換されそうになり、作者の二ノ宮知子さんが難色を示して一度破談になったそうです。

結果としてその後、TBSからフジテレビに制作が変わり、主題歌もベートーヴェンの「交響曲第7番」とガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」に変えて大ヒットになった。

僕も当時大好きで全部見ました。「当時の日本」で出来たこととしては最高の出来だったと思います。

ただ、あの作品は「すごいコスプレ感」があったのも事実で、なかでも謎に色黒の竹中直人が付け鼻みたいなのつけて(たよね?)演じるドイツ人シュトレーゼマンとか、2024年の今見るとかなりイタイと思います。

今なら、例えばアメリカ人だけどパックン(パトリック・ハーランさん)とか、日本語も達者だし合唱をかなりやってたらしいしでなんとかそういう着地があったのではないかと。

でもこうやって「コスプレにならないように」していくと、当然「薄まる」部分はあるんですよね。

でも、「薄まる」のは、「実写世界におけるリアリティの補完」として非常に重要な意味を持つんですよね。

そうやって「自分たちのテリトリーの外側」に一歩出るたびに、「その外側の事情」とぶつかることはどうしてもある。

それでもなんとか「わからせ」ていくためには、「言う通りにやれ!」って命令するだけじゃダメなはずなんですよ。

「相手側の事情」を取り込みつつ、「わからせる」ためのテクニックを毎回毎回関わってる人全員で開発していかないといけないんですね。

●最後に

何度も言ってるとおり、私は日テレや小学館に原因究明とか再発防止策を発表させるような圧力はどんどんかけていくべきだと思ってるんですよ。

また、さっき少し私の本の事例を話しましたが、私は本業が別にあるから嫌なら単に本を出さなければいいわけで、それゆえにきちんと出版社と交渉ができていた面があるのは疑いない。

「漫画家と出版社」「原作者と映像化ビジネス」の間の、適切な力関係をもたらすビジネスモデルの工夫というのも否定しているわけではありません。(むしろめっちゃ重要な検討課題としてあるでしょう)

でも、「テレビドラマというプラットフォーム自体がもつ事情」を全否定して、単純に「ガチガチに契約書で縛ってしまえば全部解決するのだ!」とかましてや「相沢友子を血祭りにあげろ!」みたいな事を言っていても、ただ今後「良質だがマイナーな漫画原作」がちゃんとテレビドラマを通じて紹介される流れが滞ってしまうだけになると思います。

今回記事で書いたのはあくまで「一例」ですが、そういう「テレビドラマ制作の難しさ」もキチンと理解したうえで、例えばさっきの話で言えば「タレント事務所の意向と漫画原作の美点をすり合わせる方法はどういうものがあるか」みたいなレベルまで含めて考えていくことが大事です。

「悪のタレント事務所が原作を潰すために仕掛けた暴虐を許すな!」みたいな事を言っていても意味のある着地点は見えてこない。

そりゃ悪名高い「海猿」の映画の頃はテレビドラマ作る人が漫画原作を蔑視しているようなことは沢山あったでしょうが、すでにかなり時代は変わってきているはずです。まだ古い気分を持ってるテレビ業界人の不品行を攻撃するよりも、こういう問題が再発しない方法を仕組みとして考えるべき時が来ているはず。

日本の少女漫画にとって、「日本のテレビドラマ」のフォーマットはかなり有益な拡販プラットフォームであることは間違いなく、「誰が悪い」という話にしないで有益な再発防止策(だけでなく良質なドラマ化が適切に行い続けられるような環境整備)が見えてくることを望みます。

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここからは、久々に「日本のドラマ」を見たうえで、原作者とか脚本家とかとは関係ない次元で「やっぱそうはいってもコレはねえ」と思うような問題について考える記事を書きます。

細かい話ですけど、田中さんと笙野くんがスーパーマーケットでばったり出会って、お肉の値段を談義するシーンがちらほら出てくるんですけど、

・このお肉安い!!!って騒いでいる商品の値札を拡大してみたらそんなに安くなかったり
・このお肉は信じられないほど高い!!!って騒いでる商品の値札を拡大してみたらめっちゃ安かったり

…なんか、「現実感」が全然ない感じがしたんですよね。

あと、「現代日本を描いたドラマ」で結構な大企業に見えるのに、「女子だけ制服の”一般職”組」が沢山いて、ちゃんと「キャリア」を積んでる女性はメディア関連の派手な職業だけだったりするようなバイアスが、「なんか古っ」って感じがするんですよ。

今どき古い古い製造業系大企業でもこんなことないんじゃ?って感じがある。

「キャリア女性」となると妙に「キリッ!!バリバリッ!!威圧感!!」みたいな描かれ方になるのも古い感じがするし。

言ってみれば1990年代とかの「トレンディドラマ」とか呼ばれてた頃の「日本テレビドラマ全盛期」のときに培われた「職場の描き方の手癖」のままにやっていて、それが「現代日本の本当の職場」と乖離してるんじゃないかという感じがする。

なんかこの「日本のテレビドラマの古臭さ」が、芦原妃名子さんとか羽海野チカさんとかの「繊細で優しい少女漫画の世界」を実写によって描こうとする上で、余計な困難を生み出してるんじゃないか?と感じるんですよね。

むしろその「少女漫画の美点」を「現代劇として実写化」するうえで、真剣に「今の日本で普通に働いている女性」に対する解像度をもっと上げていくことが大事なのでは?という話をします。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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