果てしなく過激化するアメリカ型リベラルを超える日本の「ニンテンドー型包摂」ビジョンについて網野善彦を読みながら考える。
なんかヘンなタイトルですけど、かなり野心的な話になると思うんで、「おや?」と思った方はぜひ読んでってください。
今日アップする記事は3本で、一個目はFindersというウェブメディアで、中国の人権問題について日本企業はどういう対処をすればいいのか?米中冷戦時代における日本の役割とは?みたいな話をした記事が一つ↓。
上記記事を物凄く端的にまとめると、
結局「中国へちゃんとNOという。ほんとうに人権侵害を改めさせる」ためには、「糾弾する側」が単なる欧米文化帝国主義的になっていないかちゃんと自ら精査し、「フェアな議論」をする必要がある。日本はそれを担うべきだ
という話です。
そしてそれを受けて、こないだの「車椅子バリアフリー」問題についてSNSで紛糾していた話題について、「社会運動について研究する社会学者」の富永京子さんの著書の書評をしながらどうあるべきかを考えた記事がこちら。
上記記事を無理やり端的にまとめると、
当事者が異議申し立てをすることを黙らせてはいけないが、黙らせないからこそ、「なんで欧米みたいにできないの、遅れてる!」的断罪じゃなくて、ちゃんとその社会で必死に生きている無数の人の気持ちも吸い上げる解決が必要で、そういう丁寧なローカライズをやらないから欧米的理想は人類社会の10%強の特権サークル以外に広まっていかないのだ、という事を米中冷戦時代には真剣に考えるべきだし、問題を糾弾して騒いで終わりじゃなくてちゃんと解決まで丁寧に持っていこうとしないと当然バックラッシュは起きるに決まってるよね・・・
みたいな話です。
で、今回はそれらを受けた総集編的に、「果てしなく内輪の論理だけで先鋭化してしまうアメリカ型リベラル」を超える日本なりの着地点や理想について考えてみたいんですが・・・
なんか、ウチの夫婦はアジア系アメリカ人ユーチューバーのVログ(日記風の動画)を見るのが趣味で、韓国系や中国系、時々日系(日系は数少ないんで)の20代〜30代ぐらいの色んなユーチューバーの動画をよく見てるんですけど。
ある時期「あつまれ動物の森(ACNH)」がメッチャクチャ流行って、ゲームの話とか全然したことなかった動画配信者でも動物の森の話をみんなしてるのが衝撃的だったんですよね。(同じことはマリエ・コンドーでもあったんですが)
私は個人的に子供の頃、父親の方針でニンテンドーのゲームハードを買ってもらえなかった(MSXというパソコンがあった)んで、ニンテンドーのゲーム機に触れた経験があまりないんで傍から見てる感想でしかないですが、ニンテンドーのゲームって独特の「包摂性」があるじゃないですか。
誰でも参加できる。そして誰かを過剰に糾弾したりしない。
そういう「ニンテンドー型包摂性」こそが、「果てしなくあらゆる存在を糾弾し続けるアメリカ型リベラル」とは違う理想像として、今後の日本が目指していくビジョンだろうと自分は思っているわけです。
そういう話を、最近ひょんなキッカケで読んだ網野善彦っていう日本史学者さんの話とかをしながら紐解いていこうという野心的!な記事がこれです。
体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」はほぼ別記事のようになっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。
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1●話題の網野善彦を読んでみたら、右とか左とかを超越していて凄かった
先月末に現状の私の知名度的にはかなり読まれた記事↓に書きましたが、
こういうのって興味ない人は全然知らない事が多いなと思うのでわざわざ書くんですが、先日日本の人文系ガクシャさんたちがよってたかってSNSで大きな論争をしていたんですね。
で、その論争の詳細については上記記事を読んでもらうとして、その論争の最初の最初のキッカケになったのは、
みたいな話題だったんですよ。
で、個人的に、網野善彦って久々に聞いた名前だなあ!と思ってですね。
網野善彦は、宮崎駿が「もののけ姫」を作る時に凄い参考にしたとか、司馬遼太郎もかなり影響を受けているとか、まあそういう評判があって、学生時代に何冊か読んだことがあったんですが、その当時もなかなか面白かったけど、その後実社会でいろんな「体験」をしてきた今なら、単なる書籍上の知識じゃない視点で深く読めるんじゃないかと思って、読んでみたんですね。
そしたらめっちゃ面白かったんですよ。
久々に電子書籍じゃない本で読んだんで、メモ用にパソコンに抜書きしておこう・・・と思って抜書きしはじめたら、「異形の王権」という論文の後半なんかまるごとほとんど書き写したりしてしまったりして(笑)
なにが凄く印象的かっていうと、たとえば網野善彦って、たしかに左翼で、個人的意見としては天皇制にも反対だったっぽいわけですよ。
でも、網野善彦の本を読むと、単に「糾弾するためのネタとして書いている文章」って感じでは全然なくて、”天皇制に反対だからこそ”、むしろ天皇という存在が日本史の中で果たしてきた重要な機能について、多面的に深く理解して記述する知性と真摯さがある感じで。
そのあたりの「天皇というものへの深い理解」は、最近の右翼さんの大半よりもよっぽど深い感じで。
ぶっちゃけ網野善彦の本を読んで、むしろ「日本にとって天皇制がいかに大事なのか」を開眼する読者がいてもおかしくないレベル・・・だと思いました。
こういうのに比べると、今の人文系ガクシャさんの書くものは、「コイツを糾弾してやる」という意図がもともとあってそれの材料を集めてきて紋切り型に並べたようなものが多くなってしまってるんじゃないか?という感じがしなくもないです。
まあこれはさらに言うと、今は人文系ガクシャさんのポストが少なすぎて、生存競争が激しすぎるから呑気なことは言ってられないんだよ・・・という事情もありそうで、とてもダメ出しとかする気持ちにはなれないんですが・・・
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2●後醍醐天皇がいた事で、日本の歴史がギリギリの土俵際で維持してきたもの
で、網野善彦が後醍醐天皇について書いた「異形の王権」っていう論文が本当に面白くて、これも「網野善彦が後醍醐天皇を徹底的にディスってる」みたいな前評判が気になって読んでみたんだけど、全然ディスってない感じで、むしろ後醍醐天皇が歴史的に果たした役割について物凄いポジティブに分析している論文なように私には読めました。
「異形の王権」で描かれた後醍醐天皇の日本史における役割は、端的に言うと
「その時代なりのネオリベ市場原理主義的世界観に全てが飲み込まれていくのに対して、必死に土俵際でギリギリの抵抗を試みた天皇」
みたいな感じなんですよ。
もう10年ほど前に、與那覇潤さんという日本史学者さんが「中国化する日本」という本を書いてかなりのベストセラーになったことがありましたよね。
あれをかなりザツに要約すると、いわゆる「貨幣経済」が急激に発達することで、その時代のネオリベ市場原理主義みたいなものに社会が飲み込まれて徹底的に変化したのが中国の「唐と宋の間」に起きたことで・・・みたいな話で。
当時の日本の「ネオリベ的風潮」の追い風を受けて、中国はそういう風に「徹底的に市場原理化した風通しの良い社会だが、日本は江戸時代的な閉鎖性を未だに引きずっているけれども、これからはどんどん中国化していくのだ」というような本だったと記憶しています。(ザツすぎる要約ですいませんが)
で、網野善彦によると、後醍醐天皇時代の日本もそういう「ネオリベ化(と網野善彦は書いていないですが今の時代的に言えばね)」がどんどん進んで、貨幣経済に熟達したカネ勘定に聡い人が出てくることで、
マルキストならこれが「疎外」だ!って言うかもしれない。
これは「異形の王権」に出てきた話じゃないんですが、学生時代に網野善彦を読んで印象的だったのが、色んな「書き文字」が木簡とか紙とかで残ってるんだけど、その「書き文字」が、
っていう話があって、凄く面白かったんですよね。
要するに「カネのために右から左にやる仕事」がどんどん増えて、一個一個の仕事に人生の意味やら喜びを込めたりしてられなくなってしまう・・・的な「疎外」っていう感じの話でしょうか。
ただ、経営コンサルタント的に言うと、こういうのって事業構造が間違っていて、「ちゃんと一個一個に心を込められるようにする」のは、無駄な部分を省いて規模の経済が効く部分をちゃんと効かせて原資を準備して、そして「一番重要な部分で余計な心使いをしなくても集中できる環境を作る」ことは「経営」がやらなきゃいけないことなんですけどね。
ともあれ、こういう風に「心を込めて何かをやれる」感覚が一応なりとも「理想」として共有されるのは、社会が端から端まで完全に拝金主義化してしまったらそもそも出来ないことですよね。
で、その日本社会を「徹底的なネオリベ化」からぎりぎり救おうを奮闘したのか後醍醐で、後醍醐天皇がいなかったらこの「徹底的なネオリベ化」の過程で天皇制自体が吹き飛んでしまってもおかしくなかったが、後醍醐と南朝の記憶が共有されていたせいで、ギリギリのところで日本は天皇という軸を最後まで手放さずに来たのだ・・・っていうのが網野善彦の見立てなんですね。
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3●「差別をなくす」のではなく「差別構造を相対化する」天皇という機能
で、ここからが「無限に誰かを糾弾し続けるアメリカ型リベラル」から「ニンテンドー型包摂」へ・・・っていう話につながってくるんですが。
後醍醐の時代にはもう風前の灯だったわけですが、「天皇」の「聖」性が生きていた時代には、いわゆる「差別の相対化」みたいな機能があったんですよ。
たとえば国民の多くが営んでいる「農」っていう職能はかなり組織だって行わないと崩壊するんで、結構「ウチとソト」みたいな峻別とか上下関係とかが厳しくなってくるわけですが、そういう「普通の人」の社会から見ると、芸能民や海民、遊女、非人、河原者・・・みたいな存在は「異物」なわけですよね。
しかし、天皇の「聖」性が認知されていた時代には、そういう「異端」者は天皇と直接結び付けられる存在として尊重されていたというか、遊女が貴族の奥さんになることも珍しくなかったし、「普通の社会とは違う人達」というだけのククリであって、それは「蔑視」ではなく、むしろ「尊重」されている世界があった。
でも、後醍醐の必死の抵抗虚しくこういう「天皇の聖性」みたいなものがどんどんネオリベ的カネ勘定万能主義に飲み込まれていったとたん、
「対等に尊重されていた異端者」が急激に「蔑視」に変わっていった
・・・そうなんですね。
でも、そうやってどんどん「蔑視」され差別構造の中に追い立てられていくタイプの「異端者」たちのお話の中では、「南朝」というギミックがとても重要なものとして象徴的に語り継がれている部分があって、やはり最後の最後で「完全なネオリベ化」を相対化したいという後醍醐の執念が、日本史全体を通貫するような影響力を持っているのだ・・・というのが網野善彦説のようです。
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大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回に合わせて、「本能寺の変が起きる国」であるということは、日本文明と中国文明を分ける大きな分岐店であって、今後の日本はその自分たちのコアのキャラクター性を生かしていかなくてはいけない・・・っていう記事を以前書きましたが↓
結局「本能寺の変が起きる」=「織田信長的存在が全てを差配できるわけではない」構造にあることは、ギリギリの土俵際で「後醍醐の執念」が、骨の髄までのネオリベ化に抵抗した結果なのだ・・・というのは言えるかもしれない。
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4●「差別を完全になくす」は可能なのか?それより「差別はあっていいがちゃんと相対化する」ことが重要なのでは?
で、現代の「差別問題」に対して、この話を応用していきたいわけですが。
あらゆる社会において、「農」的共同体っていうのは、ある程度まとまってないと機能しないし、協力しあって円滑に何かをするにはウチとソトがある程度別れている必要もあるし、「差別」がゼロになることはありえないと私は思うんですよ。
というのは、「差別」が全然なくなると、
・その土地について真剣に人生を賭けてコミットしてる人の意見
と、
・全然そんな気もない通りすがりの人の全然その土地を尊重していない思いつきの意見
を
対等に扱わねばならない
・・・みたいな事になってくるわけで、そんなん無理ですよね。
結局この「差別をゼロにすべき」というイデオロギー自体が、アメリカがネイティブ・アメリカンをほとんど抹殺した更地の上に建てられた国家だっていう特権性ゆえに可能になってる特殊な考え方なんですよね。
だから現代の、この「差別をゼロにする発想」こそが、
「その土地」「その社会」にちゃんと責任感を持って参加している人たちと、そういうのを果てしなくバカにして侮辱して攻撃する糾弾者たちの争い事・・・
みたいな心底ショーモナイ現象が延々続いてしまう元凶なわけですよ。
そういうのは、そもそも「無理がある」んだと自分は考えていて、だからこそ、
「差別をなくす」んじゃなくて「差別はあっていいがちゃんと相対化して尊重し会えるようにする」べき
なんですね。
これは例えば、「農」に向いててコツコツ生きて貢献する人と、そういうのは全然性にあわなくて、でも踊りの才能があってそれでやっていく人と・・・みたいなのがあった時に、どっちかがどっちかの常識を押し付けあったら本当に不幸じゃないですか。
学校がなじめなくて必死にユーチューバーとして成り上がろうとする人がいたっていいし、でもそれを「これからの時代は学校なんて行ってたらダメになるぜ」とか言い始めたらコラコラ何言ってるねんって話になるわけで。
で、「コツコツ真面目に農をやる組」の内部では、「ちゃんとやろーぜ」っていう規律がある程度あることは必要なことなんで、そこで「差別」の源泉になるようなものをゼロにしろって言っても難しいわけですよ。
でも、「それとは違う道を行く人がいる」という理解があって、「自分たちとは違う異質な存在」として「尊重」しあうことならできるはず。
「差別をなくす」ビジョンと、「差別はあっていいがちゃんと相対化して尊重しあう」ビジョンの違い、わかります?
結局
「社会を支えている多くの普通の勤労者を無駄に糾弾しない」
って言うことが大事なんですよ。
人間普通に仕事して恋をして子供育てて・・・っていう人が「大半」で人類の種としての基礎活動を行ってくれているからこそ、僕自身も含めてですけど(笑)「頭の中でありとあらゆることが政治活動に見えるビョーキ」の人たちの活動にも意味が生まれてくるわけなんでね。
そして、何度も引用してるサンデルの新刊にもあるように、「ネオリベ市場主義における有能者」が、「それ以外の普通の人」からいかに効力感を奪ってしまわないか・・・「浮世での成功度合いは人それぞれだけど、俺たち平等にこの社会を構成している仲間だよな」という”幻想”をいかに失わずにいられるかどうかが大事で。
しかし、「差別ゼロ」を目指すために果てしなくトリビアルな「糾弾ネタ」を掘り起こしては「普通の勤労者」を攻撃し続けるみたいなのは、エリートのインテリが恵まれた自分の立場なりに担うべき責任から逃げて、ただ単に
「問題解決のためでなく自分がカッコつけるために誰かを糾弾するサイクル」
にはまり込んでいるだけなのではないかと思うわけです。
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5●自分だけカッコつけないほんとうのカッコよさを復権していこう
なんか最近ネットでよく見る「弱者男性論壇」ってのがありますけど、現在の社会システムのままでは「幸せなカップリング」が生まれづらい・・・という構造がある時に、
っていう話になるとさすがに時代錯誤すぎるだろって話になるんですが
というビジョンは、真剣に考えるべき内容だと私は考えているんですね。
随分前に、韓流ドラマに出てくる「かっこいい男」は「一人がかっこよくなるために何十人の引き立て役のダメ男」を持ってくるような形式になっていて、こういうのはそもそもサステナブルじゃない・・・という記事を書いたんですが↓
要するに、「同じ経済的成果」をあげるにしても、「手柄を独り占めしない」ってことが大事なんですよね。
誰かを過剰に英雄化して、ソレ以外をダメ男化すると、ダメ男扱いされた男が女性とカップリングしたいとなったら社会のシステム的合理性から考えて全く無意味なところで過剰にオラついて見せたりする必要が出てきて治安が悪化するんですよね。
そうじゃなくて、「それぞれの価値」をちゃんと社会の中で蔑視せずに承認できるようになってさえいれば、結局社会の8−9割の女性は異性愛者なわけですから、そのカップリングの可能性が増えたら全員にとってハッピーなのは間違いないわけですよ。
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6●盆踊りとか、よさこいとか、”みんなのための”オトコマエな仕切り
なんか、聖火リレーの演出が古臭いって言って凄い批判されてますけど、僕実はアレ結構好きなんですよね。
むしろああいうのを徹底的に「ダメ」と考えるセンス自体が現代社会の諸悪の根源じゃないかぐらいに思っている(笑)
「政治的に正しい今風の」人じゃなくても、ある意味ぼーっと生きてるオッサンオバサンでも、沿道に行ったら何も考えずにワーイ(^o^)!ってなれるのって今の時代貴重ですよ?
その「何も考えずに見れる」要素って、今の時代「アーティスト型に尖りたい人のエゴ」によって排除されがちですからね。
でも、「禅」の端然の美も日本だけど、安土桃山風の傾奇者文化だって日本なんですよ。片方だけで勝手に代表ヅラされたら困るんで。
「チャリで来た」のプリクラの兄ちゃんみたいな世界って日本が世界に誇れる文化だと自分は本気で思ってるんで。
あれ見てて思い出すのが、奥さんの実家の近くでたまたま通りかかった盆踊り大会で。
愛知県の盆踊り大会は、荻野目洋子さんの”ダンシングヒーロー”が定番曲なんですよね。
この動画、ちょっとだけ雰囲気伝わるかな、と思うけど、本物はなんかもっと感動的なんですよね。
僕は全然知らずに、大きな音に引かれて散歩中に立ち寄った会場で、老若男女が「ダンシングヒーロー」で楽しそうに踊ってるの見て衝撃を受けました。
なんか、「うおおおおお!ヘイヘイヘイヘイ!」みたいな超わっかりやすい掛け声があって、着物着て踊ってる老人たちも、マイルドヤンキーっぽい兄ちゃんやギャルさんたちも、小学生の子供たちも、あとちょっといわゆる”陰キャ”っぽくて大きなフリは恥ずかしいけど実は遠巻きに見ながら小さく手振りは参加してる”陰キャ”な男女も(笑)、そして白人もラテン系も(見た目でわからんから多分だけど)中韓系の外国人も、みんなニッコニコして同じフリに参加してて、個人的に物凄い感動したんですよね。
こういうのって、「リーダー」が「過剰に自分だけカッコつける」とこうならないじゃないですか。
ある意味でちょっとダサい部分もあるんだけど、着物着てるジジババでも血気盛んなヤンキーでも、陰キャの男女でも小学生でも外国人でも一緒に楽しめる。
「誰かしらんけどこういう差配をした存在」こそが「本当にかっこいいやつ」だなって自分は強く思うわけです。
今の時代は「カッコつける」を「みんなのため」じゃなくて、単に個人のエゴのために使ってる人が多すぎるんですよね。
で、こうやって「場を共有」する事ができていれば、
もありえるし、
もありえる。
で、こういう風に「普通の人の紐帯」が安定化すればするほど、「寛容さ」の余裕も生まれてくるんで、もしこの踊りに車椅子の人が参加したいとか、ホーキング博士みたいなALSでほとんど体が動かせない人も参加したいとかなったら、バーチャルアバターなりロボットなりを遠隔操作して、一緒になって参加します!みたいなことだって十分可能になってくる。
それを「普通のみんな」が心の底から楽しめる「場」を作っていけるわけです。
「差別的な蔑視で困る人をなくす」ためには、いかにこの「普通の人の紐帯」をホットな状態に保つことが大事か、実際に「人間の集団を動かそうとする」仕事をしてみたら誰だってわかるはずだと思うんですが。
「誰かを糾弾しまくったら解決する」なんてあり得ないことがフツーに生きてたらわかるやろ!って個人的には思うんですが。
そこで、果てしなく「自分だけカッコつけて全部”古い社会のせい”にして糾弾しまくる」人がいるから、この「紐帯」の方が危機感を持って、むしろ徹底的なバックラッシュで埋め合わせようとする反動が止められなくなるわけですよ。
たとえば、よさこいソーランとかも、さっきたまたま検索したら出てきたこの団体↓とか、
この団体とか↓
男女比とかも普通に半々で、別にどっちがリードする形にもならない感じで安定できてますよね。
で、こういう系統のって、案外「陰キャ」も参加しやすいというか、少なくとも「嘘くさい爽やかさ」よりはちゃんと「自分ひとりだけかっこつけてない」形式なんですよね。
だから、いわゆる「ヲタ芸」ってのも似たテイストがあるじゃないですか。
こういう「紐帯」をホットに保つことさえできていれば、その中で女性が活躍するってことも問題なくできるようになるわけですよ。
しかしこの「紐帯」を引きちぎると、そもそもの社会の安定性が保てなくなるんで、特殊な狭い特権的サークルの内側以外でちゃんと「安定した人間関係」を数多く作り出せなくなって人心が荒れてくるんですよね。
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7●コレはニコニコ動画の全盛期にもあった「あの感じ」
個人的に、「この感じ」ってニコニコ動画の全盛期にも凄いあったなと思っていて、自分は世代的にあまり参加する感じじゃなかったんですが、たまに見ては「今の若い子の文化ってスゲーなあ!!」って思ってました。
こういうのも、「自分たちなりの紐帯」がしっかりあって水をさされないから、確か香港の人とか韓国の人とか、外国人も一緒になって歌ってたけど全然”差別”とか起きないっていうか、「むしろ一緒にやれて楽しいね!」って感じになるんですよね。
いかにこの「社会の”農”の部分の紐帯」と「個人主義者の異人たち」が「相互に違うものとして尊重しあえるか」が大事なんですよね。
今の時代、この「農」の方の紐帯を、「マジョリティはマジョリティというだけで罪があるのだ」的謎理論で果てしなく糾弾して崩壊させようとするから、結局「ほんの一部の特権的サークルの中で果てしなくトリビアルなマナーが洗練される」一方で、ソレ以外の世界はむしろどんどん希望のないカオスが広がっていってしまうわけですよ。
だからこそ、「差別をゼロにする」のではなく「差別はあっていいがちゃんと相対化して尊重し会えるループを作っていく」ことが重要なわけです。
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8●”タイガー・マザー”度合いの薄さが中韓との違い
で、「後醍醐天皇がギリギリ土俵際で守った紐帯」の話に戻るんですが、そういうのがなかった中韓の文化と比べると、とにかく彼らは日本人と比べると「こういうのが正しい、こういうのが良いもの、と社会的に決まってる序列」に対するコミットメントが全然違いますよね。
別にどっちが良い悪いって言うんじゃなくて、とにかくそこが凄い違うと感じる。
アジア系アメリカ人のユーチューバーを見てると、やっぱり中韓系と日系では、「教育ママ度(タイガー・マザーとか言いますが)」がかなり段違いに違うな・・・って思うんですよね。
みんな同じ見た目は「アジア系アメリカ人」になってるからこそ、たまに中韓系アメリカ人の子供の頃の親の教育クレイジーママエピソードとか聞いたらかなりギョッとするんですよね。
日系に教育ママがいないわけじゃないけど、”中韓”の教育ママはなんか”孟母三遷”以来の筋金入りの歴史の伝統を感じる(笑)
で、今の時代、ちょっと日本人はマイペースすぎてグローバル競争についていけてない部分もなくはないんで、ちょっとは中韓側の価値観を見習ってもいい部分もなくはないと思うんですが(笑)、一方で韓国人とかは「スペック」の事ばっかり考えすぎててヤバいだろって思う時があって。
人生をあらゆる側面で常に人工的な基準に追い立てられまくってるからヘンなカルト宗教が林立するんやで・・・という話があり。
逆に中韓の人で日本文化が好きな人は、中韓にはないある種の呑気さとか余白とかを好きになってくれてるんだと思うんですね。
で、まあ繰り返すようにどっちがいいとか悪いとかではないわけですが、それぞれ「自分の特性」に無理なくあったビジョンを描いて生きていくべきなわけでね。
世界的にも「糾弾中毒文化」に疲れ果てている人ってあふれるほどいるはずなんで、米中冷戦の時代に、あらゆる一面的なイデオロギーが構造的に相対化されていく世界情勢の中で、日本人の本能を徹底的に世界情勢と噛み合わせていくことで、
アメリカ的に果てしなく他人を糾弾し続けるイデオロギー
を、
ニンテンドー型の包摂性
によって置き換えていく・・・それこそが今後の日本が掲げるべき旗印だと私は考えています。
それが最近なんども引用してる、7年前の本から使ってるこの図なんですね。
最後に、さっきファインダーズの方に書いた今後の見通しの話を・・・
・
今回の無料記事はここまでです。
以下の部分では、「呪術性」と「椅子取りゲーム」の話をしたいと思っています。
網野善彦の「異形の王権」、普通に読んでいると「後醍醐がいた事によって日本はナマのネオリベメカニズムに征服されきらずに済んだのだ」ぐらいにポジティブに描いている本のように見えるんですが、最後の「あとがき」になって唐突に(物凄い唐突に 笑)
みたいな嘆き節が入るのが凄い時代を感じて面白かったんですよね。
なんか、そもそも欧米に夢見すぎだろって思うというか(笑)
今だったら、欧米社会のあり方に「呪術性」みたいなのが全然ないかっていったらメッチャあるよね・・・って話だし、結局人々が強烈に誰かを蔑視しなくても社会が成り立ってたんなら、天皇システムがあった意味めっちゃあったってことじゃないの・・・という風に素直に読むのが「現代風」だと思います。
まあ、それぐらい、当時は「欧米」というブランドが燦然と否定不可能なぐらい輝いていた時代だったんだな・・・と思うわけですが。
で、以下の部分には、現代における「呪術性」って何なのか・・・っていう話と、個人的に「呪術性」の背後には常に「椅子取りゲーム的構造」があるんじゃないか、って感じるという話をします。
と、言うのも、こないだの人文系ガクシャさんの大騒動を見てると、関係ない立場から見れば「なんでこんな些細なことで全力で罵り合ってるんだ」と思う面もなくはないんですが、背後に人事ポストに関する嫉妬心が渦巻いてるんだって聞いて、「ああ・・・」と思ったんですよね。
なんか、人事に関する椅子取りゲーム的なものって、普通のサラリーマンでも、「さっきまであんなにいい人そうだったのに豹変してビックリした」みたいなことが沢山あるじゃないですか。
だから、この件で人文系ガクシャさんたちのことを悪く言うのはやめようと思ったんですが(笑)
で、それはさておき、日本史においても「敗れ去った政敵」みたいなのが、「タタリ神」になって呪ってくるんじゃないか・・・みたいな話があって、「負けた方がなんか祭り上げられてる」みたいな事って沢山あるよなと思って。
古くは菅原道真とか・・・崇徳天皇とか・・・
なんか、「敗れ去った政敵」が「タタル」存在として共存するメカニズムとか、むしろ本人としては後腐れなく流されちゃったやつの方が「タタリ」が怖がられてるとか、あと僕がよく引用するジョジョSBRの「シビルウォー」っていうスタンドの話とか・・・なんかそういう「人生と社会における椅子取りゲームのエトセトラ」について考察する記事を書きます。
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2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。
普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。
また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。
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ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。
「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。
また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。
また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。
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ここから先は
倉本圭造のひとりごとマガジン
ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…
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