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「性的潔癖主義」の行く末と、「嫌なことがあったら嫌と言える」社会はどうすれば実現するのかについて。

Photo by Jemma Pollari on Unsplash

さっきまで全然違う記事を書こうと思っていたんですが、喫緊で自分もほんのちょっと関わってしまった事件のようなものがあるのでその話をします。

3年ほど前に、いわゆる「me too」運動的な形で、戦場カメラマンの久保田弘信氏という人が、大枠で言うと「性加害」で告発されているnoteが凄い出回っていたんですね。

内容が凄く迫真的で(に見えて)、その”文中における”加害する男のクズっぷりがやばくて、僕もついツイッターでシェアしてしまったんですが。

その件についての裁判が終わって、「その匿名noteの内容は事実と認められず、逆に名誉毀損で慰謝料100万円の支払いが命ぜられた」そうです。

うかつながら、この「裁判の結果が出ました」というお知らせツイートがバズってるのを見ても、自分が昔その記事をシェアした事件の「その人」のことだという事も忘れていて、「へえ、そんなことがあったんですね」という感じだったんですけど。

ただ僕の昔のツイートを掘り起こして指摘してくれた人がいたので、当該ツイートは削除させていただきました。

現時点では「裁判の内容」というのが全然わからないので、実際に「勝訴」というのが「指摘された行為自体が全くなかった」事を意味するかもわからないんですが、そのnoteが物凄く具体的で迫真的だった事から、「もしアレが全部ウソだったとしたら何を信じていいのやら」と結構ショックを受けています。

とはいえ全く嘘だったとしたら、物凄くSNSで拡散された事自体が大問題だったと思いますし、それに加担してしまったことは反省したいと思っています。すいません。

今後はこういう件の「シェア」についてもう少し一件一件慎重にやっていこうと思いました。

ただ一方で、逆に「実際にあった性加害(に限らずパワハラとか過酷労働とか)」が隠蔽されないような社会になっていたほうがいいよねという話も否定できず、このme too的問題において常に難しいところなんですよね

例えば「映画監督がその権力を利用して女優を云々」とか「過酷労働で自殺とかくも膜下出血で死亡」みたいな事があったときに、被害女性や遺族側が独力で証拠を全部揃えなくてはならない…というのも厳しすぎるように思うし、じゃあどうしたらいいのか?というのは端的には答えがでない。

本来はそこで、労基とか警察とかいった「公的」な調査プロセスを尊重するべきだし、そこに変なノイズが入らずに丁寧に行われた場合は揉めずに告発も実現しているように思いますが、ただ「とりあってもらえなかった事例」というのも無数に眠っている可能性は否定できないところが難しいんですよね。

たぶん、世の中の半分の人は、多少冤罪事件になることがあるとしても告発がスムーズに実現することを優先するべきだ・・・と思っていそうだしこれからも思い続けると思います。

痴漢にしてもそうなんですが、「苦しんでいる被害者がいるのに冤罪を気にするなんて何事か!」みたいな怒り方をしてる人もよく見かけるしね。

ただ、そうやって「冤罪上等、その少数の被害によって多数の実際の被害者が助かるのだから」みたいな発想で組み上げていくと、どこかで強烈なバックラッシュにつながってその「被害者救済」の理想そのものが吹き飛んでしまいがちなので。

それで救われる人もいるであろう反面、ときに冤罪が起きて大変な思いをする人も出てくる。

個人レベルでは「SNSでシェアする時にもう少し丁寧にやろう」というだけでいいと思いますが、全体としてもうちょっと構造的に考えて「適切な環境」の構築を考えていくことが、どちらの派閥の人にも必要なことではないかと思います。

というわけで今回は、もちろん細かい事情は一個一個の事件で変わってくるでしょうけど、本当にこういう問題がスムーズに解決できる情勢を作っていくためには、どういうことが必要なのか?について考える記事を書きます。

1●理想主義的に言えば、「政治闘争」と絡めないことが大事

まず、こういう事件があるたびに思う事なんですが、

告発された人が「政権に近いジャーナリスト」とか「保守派のアーティスト」の時と「人権派ジャーナリスト」とか「無頼派の左翼アーティスト」の時で対応を変えるのをやめるべき

…ってことなんですよね。

「告発があれば一発アウト」派にするにしても、「冷静に毎度ジャッジされるべき」派にしても、犯人の「政治的立場」によって明らかに考えることが違いすぎると、なんか一人の性被害問題が「代理戦争化」してしまうじゃないですか。

そりゃ何か政治的権力の介入による明らかな隠蔽の証拠があるなら別ですけど、こういう個別案件の場合はそんな大掛かりな事をしなくても、むしろ左翼界隈が仲間内で庇うのでも十分隠蔽力があるので。

むしろ「政権と関わりがあって、首相が隠蔽を指示したに違いない」みたいなメッセージの民主主義社会における伝播力を考えると、権力者”側”だから過剰に糾弾されなくてはいけないという意見も説得力がない。

端的に言って、

「別にとある一人の人権派ジャーナリストが性加害をしまくっていたとしても、人権という理想そのものが傷つくわけではない。ただその事件を丁寧に裁けばいいだけだ」

「とある一人の政権と近いとされているジャーナリストに性加害事件が持ち上がったとしても、その政権に問題があるということにはならない。ただその事件を丁寧に裁けばいいだけだ」

…という構造になっているのが、本来その「性加害が問題なのだ」という理想から言えば最も望ましいはずですよね。

一人の人権派ジャーナリストの事件が持ち上がった時に「人権そのもの」のイメージを壊されてしまう危険性があるとなったら過剰に庇うことをせざるを得なくなる。

そして全く同じことが、一人の”政権寄りとされる”ジャーナリストの事件が持ち上がった時に「政権」に無理やり結びつけようとすれば、その政権が実現しようとしている政策を真剣に支持している人たちがどう行動するか?という課題において起きることになる。

要は「単にひとつの性加害事件に対処する」っていうところに余計な政治的文脈を結びつけると、「代理戦争」的に巨大な感情が流れ込んで絶対に負けられない戦いに発展し、「当事者」が大変な思いをすることになる。

とはいえなんか、5年ぐらい前までは、「性加害をするのは政権べったりの保守派だけで、人権と人間の尊厳を尊重する左派にそんなヤツはいない」みたいな「神話」があったと思うんですが、その後次々と広河隆一氏とか園子温氏とか、「単なる一件二件じゃない連続性加害」の話が出てきて、結局政治的志向がどうあれ性加害をするヤツはいる(というか印象的には限界左翼高齢者の話が目立ちすぎる)話だと白日のもとに晒されてきているところがある。

だから「理想」を言うなら、右も左も「政治闘争にからめて代理戦争化させない」という紳士協定をできるだけ実現していこうとすることが大事だと思います。

ある程度「冷静な検証」ができる環境にある事件は、時間がかかってもちゃんとそれなりに決着している例が多いように思えるからですね。

「性加害をするのは保守派だけ」と思われていた時には難しかった協定かもですが、ここまで「どっちもどっち」感が出てくると、ある程度感情的に納得感を持ってそういう「協定」を作ろうとしていくことも可能なのではないでしょうか。

2●もっと「本質的」な改善へ向けた動きはどういうものか。

とはいえ、人間社会がそんな理性的な配慮ができるようになってたら苦労はしないよという話でもあるので(笑)

まあ、個人レベルで考えるとできるだけ「政治と絡めない」を意識しておくとして、社会全体での感情レベルの罪のなすりつけあいは当然あるものとしつつ、より「メタ」なレベルでどういう配慮をしていくことが必要なのかを考えたいのですが。

それを考えるための例として、もうひとつ、どういう意味においても痛ましい事件があって、練馬区の中学の先生が男子生徒への「性加害」で逮捕された件で、自殺してしまったという話を取り上げたいんですがね。

この記事は、この先生がまあ凄く「いわゆる良い先生」で、古き良きヤンキーカルチャー的な、生徒と深く関わって影響を与えようとするような先生だったということが美談として語られているんですよね。葬儀にも沢山の人が生徒がかけつけていたらしい。

普段から男子生徒相手には肩を組んだりといったスキンシップが多い人で、今回の事も「そういうことの一環」だったんじゃないかという擁護の声なんかも紹介されています。

案の定この記事に対してSNSは真っ二つに割れているというか、もちろん「嫌がってる性被害者の方が大変なのに先生が自殺することで余計にダメージがあるじゃないか」っていう意見がある一方で、「良い先生だったのにマスコミ報道に巻き込まれて云々」という人も結構いる。

で!

大事なのは「嫌なことは嫌と言える社会」にしていくことなんですが、そういう「良識」を無無理に社会全体に押し広げていくためには、同時にこの「熱血先生成分」によって維持されている機能も社会の中に存在するのだということを理解することが必要になってくるんですよ。

それは「この先生本人の、男子生徒の股間を触ったりという要素を許容」するってことじゃないんですよね。

むしろちゃんと後腐れなく「そういうのは駄目です」と通用させていくためにこそ、「そういう文化」が持っていた機能を現代的にOKな形で再構築していく必要があるというか。

そういう「熱血先生のある意味おせっかい的な関わり」によって救われて、社会に包摂されて生きていくことが可能になる人が沢山いる一方で、じゃあそういう「おせっかい的に関わってくれる人が全然いない」人ばかりになったら社会の末端になるほど孤立無援にほったらかしにされる人が増えてしまうからなんですね。

はっきり言って自分は個人としては「人に触られるの嫌」なタイプだから、こういう先生は嫌いですよ。

でも、人間社会はそういう要素によってなんとか繋ぎ止められている人がいることは明らかなので、大事なのは「どうしても嫌な人が離れる権利」と「そういう文化圏によって有機的に保持されている人間社会の絆」を両方ちゃんと認めていくことでしか解決できないんですね。

こういう問題に関して語る人っていうのは、とにかく徹底的に個人主義的で、「他人に触られたりする事自体が大嫌い」みたいな人が多いので、改善提案が「やりすぎ」になりがちだから結局導入もされないことになってしまうんですよ。

単に「嫌な人が嫌だと言って逃れる権利」を認めさせる運動だけでなく、「社会の逆側にいる人たちが持っている文化自体を根絶させようとしてしまう(少なくともそう警戒されてしまう)」から話が前に進まない。

ここでこそ、「お互いのベタな正義」を両方認めた上で丁寧に作る「メタ正義的解決」が必要なんですね。

3●「過剰な潔癖主義”が持つ”暴力性」と「グレーゾーン的要素が持つ価値」

結局、「あらゆる課題に優先して、”尊厳”的な潔癖性を守ることが常に一番大事なのだ」という発想自体が、物凄く特権階級の無自覚的な横暴さを持っているものだというか、明日の食事に事欠く階層の人にやたらテーブルマナーについて人間として最重要なことのように講釈する的な傲慢さが発生している面があるんですよ。

恵まれた社会階層に育って、「普通の遵法精神」なんか無料で当たり前に手に入る環境で育ったら、別に「おせっかい熱血教師」とかいらないわけですよね。

しかし一方で、社会の末端にいくにつれて、「遵法精神が当然のように行き渡っているわけではない環境」とか「他人が自分にちゃんと関わってくれるなど考えられない不信感が蔓延する環境」においては、熱血先生が果たしている機能はやはりある。

で、その「以下の3つ」をちゃんと同時に全部実現できるように動かしていく必要があるんですよ。

・「熱血おせっかい先生」が持っている”社会の中での機能”が崩壊しないようにする。

・「熱血おせっかい先生」が苦手な人が距離をおける環境を整備する。

・「熱血おせっかい先生」が体罰とか性加害的に一線を超えないように調整する。

こういう社会の末端における「安定性」を、抽象的な正義概念のゴリ押しによる「潔癖主義の過剰」によって押しつぶそうとしてしまうのが、今の「アメリカ型リベラル」の最大の過ちなんですね。

そういう押し込み方をしていると、最終的に

・「社会の中心部において過剰に潔癖主義的マナーが普及して違反すれば一発アウトみたいなギスギスした社会になる」

・社会の末端においては、そういう「優しい配慮」とは全然違う、むしろ悪化した環境が放置されるようになってしまう

・・・という「いかにもアメリカ型社会の分断」にまっしぐらになってしまう。

「木の根っこが土壌を捕まえてくれているので水害に強い」みたいな要素が崩壊しないようにしながら、現地社会の「おせっかいの連鎖」みたいなものを破壊しないようにしながら、グレーゾーンを残しつつ丁寧に「新しい理想」を受け取ってもらえるようにしていく必要がある。

最近出した僕の本で述べた、「本来混ざるはずのない水と油を混ぜるように対処する」とはそういうことですね。

ここのところでの、「マクロに見た時の真っ二つに別れた分断」が、「まともなメタ正義的対話」に置き換えられていくことによってのみ、「個別の性加害事例」みたいなものがあった時に関係ないのにそこに注がれる可燃性の感情の量が減ってきて、やっと粛々と「個別事例」を解決できる環境も実現していくことになるでしょう。

最終的には、

・「嫌なことがあったら嫌だと言える環境整備が、社会の中心部だけでなく末端まで断絶なく共有されていく」

・「それでも社会の末端におけるナマの助け合いの連鎖が崩壊しない」

・「そういうベタベタした付き合いが徹底的に嫌な人が距離を置ける配慮もある」

・・・こういう環境を整備していくしかない。そのためには今の「正しさの押し付け」的な風潮を押し返していくことも必要になってくる。

4●だからこそ、日本発の「新しい着地点の提案」が必要になってくる。

今の状況を整理すると、「欧米的な理想」を崩壊させないためにこそ、その「理想を無理やり押し付け」るんではなく、ローカル社会側の自律性を十分尊重する配慮をしながら動かしていくことがこれから絶対必要になってきているんですね。

「思想運動」として、東浩紀氏の思想とかをベースに組み上げていく「誤配がもたらすメタ正義」ムーブメントみたいなのを提案しようとしているのもその部分です。

あと、凄い昔書いてかなりバズった記事ですが、やたらフェミニズムに入れあげて「断罪してみせる男」が本当に女性の味方かどうかが微妙だという話にも繋がる。

むしろ以下の記事に書いたように、「一緒になって断罪しまくる」のでなく、「両者の事情をすり合わせて丁寧に落とし所を提案していこうとする意志」を社会全体でエンパワーしていくことによってのみ、本当の意味で「異議申し立てが自由に気兼ねなくできる社会」は実現していくことになるはずです。

というわけで、今回は、結果として裁判で否定されることになった「告発」について、よく検証せずにシェアしてしまった事を反省しました。今後はもう少し注意するようにしたいと思っています。

とはいえ、「隠蔽された加害を告発」する時にはある程度センセーショナリズムも必要なのだ・・・っていう意見も否定できなくて悩ましいのですが。

個別事例については「もっと丁寧にやる」としか言えませんが、もっとより良い解決のために結局どうすればいいかというと、社会全体をマクロで見た時の「分断」が放置されていると、個別の事例を「冷静に」扱うなど不可能なのだという原点に立ち戻るしかないのだと思います。

そこでは、昨今のアメリカ型リベラルの「正義の押し付け」を、その「理想」を捨てないようにしつつそこに参加できる人数を増やしていくためにこそ、社会の末端に行けば行くほどグレーゾーンを大事にしながら丁寧に溶け合わせていくというムーブメントが必要なんですよね。

一個前の記事でも書いたように、「糾弾ごっこ」「論破ごっこ」「悲憤ごっこ」を超えて、本当に問題を解決できる動きをエンパワーしていくようにしましょう。

よろしければ、そういう「メタ正義」的解決についての提案について、以下の本を読んでいただければと思っています。

日本人のための議論と対話の教科書

書影

ここまでお読みいただきありがとうございました。

以下の部分は、月3回の会員向けコンテンツみたいなものです。(SNSシェアに対する反省を込めた文章にこういうのがくっついているのに批判的な人がいるかもしれませんが、定期的にこういう記事を出す仕事が自分にはあり、それと関連づけないとまとまった内容を発表する時間が取れなかったのだとご理解ください)

以下の部分では、結構ここまでの記事と同列の問題だなと思うんですが、スタンフォード大学に留学された松本杏奈さんという方が出した本に対して、批判的なレビューがついて炎上し、ご本人がツイッターをやめてしまった・・・という例の事件について、「一番悪いのは誰なのか?どうすればいいのか?」を考えるとともに、「ここにあるスレ違い」を超えていくことこそが、「アメリカ型リベラルの機能不全」を超える鍵であり、これからの日本にとって大事なチャレンジなのだという話をします。



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