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「わけがわからん」兵庫県知事選挙の真実は「わけわからなさ」に向き合うことが大事。

僕は神戸市出身で、両親や弟家族はまだ兵庫県に住んでいるので、今回の選挙が終わってからどんな感じやったん?って母親に聞いたら、

いやもうほんま、わけがわからへんわ。迷ったすえに私は稲村さんに入れたけど、おばちゃん友達の間でも割れてたよ。

…みたいな事を言ってました(笑)

ただそれ聞いて思ったのは、この「わけがわからへんわ」という感想自体がすごい重要なことなんじゃないかってことなんですよね。

「そう簡単にはわからないこと」を「単純にわかるはず」という前提で組み上げようとするから混乱が生まれてるんじゃないか、という事なんですよ。

そういう観点から、この「わけわからなさ」の背後に起きていることは何なのかについて考察する記事を書きます。

斎藤氏支持者の人も批判派の人も、一度冷静になって読んでいただいて、今回の選挙結果のことのみならず、この現象が日本社会に突きつけている変化は何なのかを一緒に考えてみる機会にできればと思います。


1●「わかりやすい答に飛びついた」のはSNSの前に既存メディア

8月ぐらいだったか、東京で行われた仕事のミーティングで

「倉本さん神戸市出身ですよね?あのサイトウとかいう無茶苦茶な知事はなんでまだ辞めないんですか?」

って雑談で聞かれた事があるんですが、僕は当時この問題についてほとんど知らなかったなりに、

そもそも高齢の前知事の時代が長かったところに急に若返って外から来たので路線対立が激しいという話は聞いているんで、あまりにも一方向的な情報が次々と出てくる今の流れは一旦保留して考えることが必要かもしれません。

…という風に答えたのを覚えています。

なんか直感的に「ここまで一方的な情報ばかり出てくるのは怪しいな」と感じてたんですよね。

結果として、

・百条委員会でも(少なくとも現時点では)パワハラは認定されていない
・”おねだり案件”の中にも慣習的にそこまで問題視されるべきものでもないものが多く含まれていそう

…という事は後々わかってきているわけですよね。

「当初のメディア報道(特にワイドショー)」があまりに一方的すぎた

…事がまずあって、それが余計に

猛烈なSNS界隈のバックラッシュを生んだ

…という現状はあるように思います。

ちなみに朝日新聞の調査でも「斎藤県政」は県民の7割以上から支持されてるので、今回の選挙結果が「SNSで有象無象が騒いだ事によって民意が騙されてしまった」事だけでひっくり返ったという見方も実態に即してないように思います。

じゃあ「実態としてあったのはどのようなレベルの事なのか」をまずは公文書などから掘り下げてみたいのですが…

2●一方で、「パワハラ」「おねだり」は事実無根かというと…

とはいえ一方で、今回の選挙結果を持っていきなり「パワハラなんかなかった!」「斎藤さんは清廉潔白だ!」みたいな話になるのも違うはずで…

兵庫県の文書問題調査特別委員会の報告書の、特に自由記述回答の部分を丁寧に見ていくと、「パワハラ事例の報告」がなんというか”物凄い具体的”かつ”多種多様”な例が報告されているので、このうちのたとえ半分が「ただの噂話で事実無根」だとしても、いわゆる「パワハラ的」な要素は斎藤氏には明らかにあったのだと思います。

そもそもあの世代の霞が関で叩き上げの役人が「自分がやってきた普通のモード」で接するだけで今の時代には「パワハラ」扱いされるのはよくあることですし、齋藤氏本人もその点は謝罪してましたよね。

「おねだり」の方も、かなり具体的な例(視察のときにカニを貰ったのを職員に分けず一人で持って帰ったとかw)が多種多様に報告されており、そのうちのいくつかは事実無根の可能性はあるにせよ、全部虚偽とも思えない感じではあります。

一方で、上記の「文書問題特別委員会報告書」については、今回既存メディアでは「4割もの人間がパワハラを見聞きした」とかよく報じられているんですが、その数字の内訳をよくよく見ると「実際に目撃した・経験した」率は1.3%だけなんですよね。

「4割が」ってメディアでよく言ってるけどその殆どは「伝聞」でしかなくて、だから時々直接接する職員側がパワハラだと感じる例はチラホラあったけど、四六時中あらゆるタイミングで「パワハラ的」だったという感じでもないんじゃないかと思います。

こんなに名指しで「パワハラ聞いたことある?」と職員アンケートしても経験者は1%、伝聞を全部入れても4割というのは、少なくとも今、斎藤知事に批判的なメディアでよくある「職員は全員サイトウなんかとやってられない!って言ってますよ」みたいな論調は言い過ぎである感じが予想できますね。

こういうときに「あったvsなかった」じゃなくて「どの程度深刻な問題なのか」をちゃんと丁寧に扱っていかないと、あらゆる人をレッテル貼りで排除できちゃう状態になってしまうわけですよね。

どんな人格者がリーダーになっていても「パワハラ」だと感じる人は当然ゼロにはならない可能性が高いのが今の世の中なので。

で、以下に述べるようにそもそも「前知事派との路線対立」というのが組織内にかなり強烈にある状態だったために、「実際にないわけではなかったパワハラやおねだり」が「実態以上に流布される」というような構造はあったように思われます。

3●「前知事派」との路線対立は明らかにあったと言えそう

「文書問題特別委員会報告書」を読んでいると印象的なのは、「前知事に近かった人間が冷遇されている!」という怨嗟の声がチラホラある事なんですよね。

そもそも斎藤氏は前知事の井戸敏三氏がイベントに出席するとかもかなり嫌がっていたらしく、彼からすると”自分が行う改革に対する抵抗勢力”に値するグループに対してはかなり厳しい態度を取っていたようです。

実際、今回の「元県民局長」の告発文書の実物がネットには流布しているんですが、それを読むと「想像よりかなり感情的な文章」だなと思います。

告発文の冒頭からかなりの部分を、

「ひょうご震災祈念21世紀研究機構」の理事長だった五百旗頭真氏が急性大動脈解離で亡くなったのは、直前にその機構の副理事長の学者二人を斎藤県政が解任したことのショックによるものだ

…という話が占めているんですよね。

これはさすがに、後の「文書問題特別委員会の県職員アンケート」でも「さすがにそれはこじつけすぎでは」と言われている事が多かったです。

「告発文」はこの話↑から始め、「五百旗頭先生の命を奪った斎藤は許せん!」という流れで次々と「斎藤の悪行」を並べていくという展開になっており、明らかに「党派的」な対立が原動力となっているのは間違いないと思われます。ちょっと文体が古風な感じというか、明治時代風の「檄文」みたいなモードで記述されている文章でしたね。

3●本題は「公益通報保護法」の問題だろ!?…はそうなんですが。

で、この問題についてある程度冷静に見れている人たちの間で一番の争点になっているのは「パワハラやおねだりの有無」ではなくて「公益通報者保護法」の問題だろう、というのは良く言われていることですね。

「告発」した人を特定して公用パソコンの中身まで調べたのが良いことなのかどうか。(結果としてプライベートな情報まで流出しかかってそれが自死の原因になったのではないかとも言われていますし)

これは、法律違反かどうかは別として、斎藤氏側がもう少し丁寧な対応を取るべきだったというのは間違いないと思います。結果として人が死んでるので…

一方で「公益通報者保護法」についての純粋な法律問題となると、斎藤氏側にも一応主張してる論拠はあるんですね。

ReHacQの候補者討論会で斎藤氏が話してるんですが(1時間17分〜)公的な「公益通報窓口」に出されて以後はちゃんと保護しているが、それ以前の「怪文書」的に流布されたものまで保護されるのは法律の主旨に反するという主張だそうです。

確かに、どんな組織にも「路線対立」みたいなものは当然あるんで、ある程度しっかりした「公益通報の手順」に則らない怪文書みたいなものまで全部保護されるべき、ということになると、あらゆる「難しい決断」ができない状態になっちゃうという可能性もある。

斎藤氏は「公益通報制度の濫用」という話をされていましたが、ここは結構法律家でも意見が分かれてるみたいですし、一応斎藤氏側の意見も全く無理筋とは言えないという感じなのかなと思います。

4●「路線対立」は感情問題だけか?

20年も前知事時代が続いて、しかも今まで兵庫県は「副知事」経験者が「内輪代表」として次の知事になるという事がずっと続いてきたそうなので、若くて外から来た斎藤知事はかなり「アウェイ」状態である事は明らかなのだと思います。

できれば「前知事派の人間も抱き込んで融和して物事を行えた方が良かった」というのは正論ですが、まあそうやって「ナアナアに」することで改革ができなくなるのだ、というのも一つの意見としては理解できる。

で、実際どういう事を斎藤県政はやってるかというと、

「県庁舎建て替えの凍結とそれで浮いたお金を若い世代の教育などに投資」

…っていう、これはこれでなんか、Twitterとかで左翼の人がよく言ってるような路線ではあるんですよね。「後で負債になる大きなハコモノ投資をやめて教育などに投資をしろ」という話なので。

「天下りの禁止」なども決めており、「表に出てこないけど不満はある」という層は結構いた事は予想できます。(それがどこまで今回の事件に反映しているかはわかりませんが)

その「改革路線への不満」「前知事とのエモーショナルな繋がりによる不満」が、「パワハラ・おねだり」系の「それ自体は事実」を実態以上に盛り上げて、「大きな流れ」を作ってしまった、という状況なのではないかと思われます。

ちょっと余談ですが、似た感じの問題として最近愛知県豊橋市の市長選挙も、「バスケアリーナ建設の凍結」を主張して40代の長坂尚登氏が高齢の前市長を破って当選したりしてるんですよね。

全国的に、40代の若い候補が「旧来型のハコモノ投資」的なものを批判して当選する例が徐々に増えているように思われ、その一例としての「大きな意味での党派対立」がここには現れているようにも思います。

5●「わからんことをわからんという」のが大事なのかも。

で!

ここまで「結局どの程度のことなのか」を公文書などから推測していく作業をしたわけですが、こうやって見ると、

・斎藤知事はパワハラなんて一切しない清廉潔白な人!というのは嘘(あるいは言い過ぎ)

…だし、一方で

・通報者側に”党派的な意図”がないわけでもない
・齋藤氏の「改革」は一部の職員や関係者の恨みを買いがちではあるが、県民からは結構支持されてもいる
・斎藤県政による通報者の扱いが「ただちに違法」というわけでもない

…という、ある意味で「当たり前に複雑な」な状況が見えてくるんじゃないかと思います。

冒頭で、私の母親にどんな感じだったのか聞いたときに母親が言ってたのは、

「ほんまわけわからんわ。斎藤さんが何も悪いことしてないとも思ってないけど、とはいえ長く続いた老人よりは若い人にやってもらいたい気持ちはあるし、まあまあ頑張ってくれてると思ってる人も多い。そのへんの状況をそのまま伝えてくれたらええのに、どっちかが絶対全部悪者や!みたいな話にするからわけわからんことになるんちゃうかな」

…っていう話なんですが、今「わけわからん」って言ってる有権者の人たちが知りたい情報ってこういうことなのでは?って思ったんですよね。

「わからんならわからんなりにそのまま伝えてくれたらいいのに」を、無理に「単純な勧善懲悪」にしようとするから不信感が増幅するのでは?

「誰かを悪者にして叩きまくらないと視聴者は理解できないだろう」というのがそもそも「視聴者のレベルを侮蔑」してるという事なのかも?

「次々とパワハラ報告」があったときに、「とはいえこれは党派的な理由もあって言われてることなのでは?」という部分も一緒に報じて、そこから徐々に「わからんことをちょっとずつ紐解いて行こう」という姿勢があっても良かったはず。

で、「視聴者はアホだから単純に勧善懲悪にしないとダメだろう」って思うかもしれないけど、丁寧にうまく表現すれば、この「わからんことを徐々にわかるように」知っていくのも「面白く」できるはずだと思います。

初動時にメディアがそのあたりを丁寧にフェアに報じていれば、ここまで「強烈なSNS的情報のバックラッシュ」も生まれなかったのではないでしょうか。

6●今後はどうなるのか。

百条委員会は続いてますし、「パワハラ」問題が認定される可能性も十分あります。あとオリックスの優勝パレードの件が問題視される可能性もある。

齋藤氏もさすがに反省していると思うので、今後言動に気をつければ、パワハラは収まって単に有能な知事として機能するようになるのかもしれません。

逆に、態度が改まらずにパワハラ的な接し方が続けば、日本中が注視してる状況ですからすぐに噂が広まって検証される流れに当然なるものと思われます。

そういう意味で「注視」する状況を続けていくことが大事なのかなと思います。結論に飛びつかずにね。

あと今、斎藤陣営の広報会社が主体的に関わっていた事が公職選挙法違反なのでは?という疑惑も出てきているんですが…

この系統の話としては、前江東区の区長の木村弥生氏がYouTubeの有料広告について公職選挙法違反に問われて、短期間で辞職を余儀なくされた事件があったので、今回の件もそうなる可能性はあります。

ただ、その江東区の事件とは色々と事情が違いますし、”線引き”が難しい問題ではあるので、これも「結論に飛び付かずに」注視していくことが大事なのだと思います。

どっちにしろ全体として日本の選挙は異様にルールが厳しすぎて余計に「やりたい放題のネット」との落差が大きくなりすぎている課題はあるわけで、これを機会に選挙のルールの見直しも必要だと思います。

政治学者の岡田憲治氏の著書「半径5メートルのフェイク論」を献本いただいて読んだのですが、この本の中に、

今の公職選挙法は戦前に初めてすべての成人(男性のみですが)に選挙権が与えられた時にできた法律(悪名高い治安維持法と同時に発布)がそのままほとんど残っているもので、基本的に「有権者とかいうのは信頼できない」からあまり積極的に政治に関与させないようにしたいという思惑でガンジガラメになっているそうです。

よく言われる「民はよらしむべし、知らしむべからず」の発想でできている法律らしい。

この本によると、公職選挙法は、応援したい候補の事務所にフラッと行ってお茶を出される時にペットボトルのフタは「開けられて」渡されないと賄賂になる(持って帰って売るから)とか、お茶は出してもいいがコーヒーは嗜好品だからダメというような規定もあるそうです。

さすがにコレ↑ほんとかな?って思うし実態上あまり厳密に運用されている感じはしませんが、さすがに現状と合ってないところは明らかにある。

以前から言われているように選挙前にはテレビなどが候補者の情報を一切報じられないので、選挙終わった瞬間に濁流のように情報が流れるのとか、さすがにオカシイとみんな思ってるわけですよね。

そして伝統メディアが規制されまくるほどに、「やりたい放題のネット」とのギャップがどんどん広がっていく問題がある。

諸外国では普通にありそうな選挙にコンサル的な会社がつくのが問題だ、という話も、そうすると「選挙のノウハウがある」伝統的な党の候補者が圧倒的に有利になるという話でもあるわけで、この事も含めて公職選挙法はどうあるべきか議論が深まるといいですね。

「普通はわからない細かいルールがたくさんある」っていうのは、それ自体良くない意味で参入障壁になってると思うので、適切な簡素化を行って、テレビ・メディアなんかもある程度はちゃんと情報を提供できるようになっていくことが必要だと思います。

7●「勧善懲悪」世界観の終わり

最後に、より巨視的な目線でこの問題を見ると、「勧善懲悪」型世界観の行き詰まりを象徴してるのかな、と私は思いました。

「旧来のメディア」と「SNS」のどっちが信頼できるか?みたいな話になってるけど、今の”SNS論壇”がやってることは「旧来メディア(特にワイドショー)」がやってた路線がそのまま拡張してるもの、みたいなところがありますよね。

一面的な情報を切り取って「悪者」を作り、単純化した構図で「叩きまくる」という態度

こういう↑態度が問題解決には役に立たないということは明らかですけど、ずっとテレビのワイドショーはこういう事ばかりやってきたという流れがまず先にあって、結果として「SNS論壇」もそういう感じが主流になってる面もあるはず。

なんか、齋藤氏を批判していた「ミヤネ屋」というワイドショーで紹介されてた街頭インタビューで、「私も昔はテレビのミヤネ屋さんみたいなワイドショー見てたけど、今はYouTube見てるからね」とか言ってたスクリーンショットが出回っていて笑っちゃいましたが。

「SNSは信用できない、テレビメディアは信用できる」とかテレビの人が言ってるのはどの口が言うてんねん、という感じはします。

で、「消費者はバカだからそういう風にしないとわからんのだよ」という話でもないと思ってて、さっきも書いたけどウチの母親みたいにガチのノンポリの普通のおばちゃんみたいな人ですら、

「何も斎藤さんが何も悪いことしてないとも思ってないけど、前の知事の影響力が残ってて難しいんちゃうかという感じもする」

って結構「複雑なことを複雑なまま」理解できてるわけですよね。

今までは、「一方的な悪者を作って叩く」のがテレビメディアの一強だったので好きにやりまくれたけど、今度はネットに「対抗言論」が生まれて「同じ手法で逆のこと」をやりまくってみると、はじめて

「わけわからんな。どうやら現実はもうちょっと複雑らしい」という事が白日の元に晒された

…というところがあるんだろうと思います。

「片側から押し切れて」いたときは好きに切り抜き報道して勧善懲悪してればよかったけど、「逆向き」にも同じ手法を使われる時代になってはじめて、「複雑な現象を複雑なままに」ちゃんと扱わないとダメだよね、という情勢にやっとなってきた、という事なのかなと。

つまり、これだけみんなが「一方的な勧善懲悪ストーリーを語りまくる」時代になった事で、逆に「わけわからん」が可視化されやすくなり、その先でちゃんと問題自体と向き合える論調を立ち上げやすくなるわけですね。

「毒を持って毒を制す」的な感じで、「一方的な勧善懲悪ストーリー」をあらゆるプレイヤーが吠えまくる時代になることで、その先でちゃんと「複雑な現実」と向き合える情勢に繋がっていくのではないかってことですね。

これはより深く考察すると、そもそも「自民党一強」時代には無責任に「批判」してるだけで良かったけど、どこも過半数取れない時代になったら、「批判者側も当事者意識を持ってどうすればいいのかを考える必要が出てきた」というような状況を意味しているように思います。

とりあえずこうやって「拮抗状態」になった事自体は良いことだと思っていいのではないでしょうか?

僕が8月ぐらいに「なんであのサイトウとか言うヤツは辞めないんですか?」って聞かれたときに、「ちょっとなんか一方的すぎる感じがして怪しいんですよねえ」と思ったような感じを多くの人が持ち始めたのは「良いこと」だと思います。

その上で、「党派的な敵と味方」ではなく「現実の難しさ」を理解した上でどっちに動かしていけばいいのかを、多くの人が自分の頭で考えるようになっていく時代になればいいのかなと思いました。

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

結局この問題も「20世紀型の党派性で善悪二元論的にすべてを考える」世界観の限界を表してるってことなのかもと思うんですね。

完璧な善も完璧な悪もいないけど、今現在のそのローカルな社会において「最適」な決断はどういう事なのか?についてそれぞれの視点で具体的に考えていくことが大事なのだ、ということなのだと思います。

ここ以後はそれに関連して、「普通に日本社会で働いている女性」の層が分厚くなってくる事で、「20世紀型の党派性による片側からの勧善懲悪」が通用しづらくなってきてるのではないか?という話をします。

最近、ある「伝統的なメディア企業」が新メディアを立ち上げるにあたって寄稿依頼をいただきまして、そのメディアの責任者である50代の女性部長さんに来ていただいて色々とお話したんですけど…

そうやって「普通に働いて普通に日本社会で出世してる女性」の層が、一世代前に比べてかなり分厚くなってきているので、それが世論形成上大きな変化を持っているのではないか、という話をしたんですよね。

要するに昔は女性は主婦層が多かったので、ある意味で「ワイドショー型の勧善懲悪世界観」にコロリと騙される傾向にあったかもしれないけど、普通に男と同じぐらい出世して働いてる女性からするとそういうのがバカバカしいって普通にわかるわけですよね。

かといって「女は家庭に入ってろ」とか言う人がまだ結構いる「ガチ保守派」層にも参加しようがないし、あるいは「社会問題はすべて”考えが古いアンシャン・レジームのせい”だ」と考えるような「woke」型の世界観にも乗っかりづらい。

そういう層が「新しい論調」を求めて動きだしているのではないか?という話になってそれがなかなか考えさせられました。

その女性は首都圏の進学校(女子校)出身らしいんですが、高校の同窓会LINEグループで僕の記事を紹介したら、「知ってる!読んでるよ!」っていう反応だったらしくて、

そういう「私達のリアルな問題意識」をちゃんと受け止めてくれる論客として、倉本さんの寄稿をお願いしたく

…みたいな感じでオファーされたのはなかなか嬉しいことだったんですよね。

僕は読者のうちのごく一部の希望者の人と「文通」をしながら人生を考えるという仕事もしていて(ご興味があればこちらから)、その「文通してる人」の人数はほぼ男女同数ぐらいなんですよね。

だから、僕の言説の読者の男女比はかなり男女同数に近いと考えられるんですが、SNSで目立つ「読者」の人は男の方がかなり多かった事もあって、「女性読者はどこにいるのかな?」と不思議に思っていたんですが。

その「首都圏の女子校出身で普通に働いている女性」のような層に「サイレント読者」としての良識派の皆さんがいることがわかってなかなか「発見」した気持ちになりました。

これは、先月の選挙の時に書いた以下の記事にもつながることですが…

ここ以後は、そういう「新しい女性主導の意志」が日本の政治状況に与える「静かな革命」について考察してみたいと思います。

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