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習慣と慣習

 このコラムもようやく50回に到達しました。習慣にハマり、習慣に恋をし、習慣に裏切られ、習慣にまた恋をする。そんな生活を繰り返して私自身も1年半が経過しました。今や習慣無しでは生きていけないほどの体になっております。そしてこれからも習慣を信じて、習慣を想い続けるのでしょう。今回は、そんな習慣依存症の私が、習慣について最近思ったことを書き綴りたいと思います。

 習慣をどうやったら世の中に広められるのか?を私は毎日考えています。「習慣、習慣、習慣…」と呟いている時すらあるほどです。ある時、「習慣、習慣…」と呟いていると、いつの間にか「慣習、慣習…」になっていました。習慣と慣習。似ているようで明確に違う言葉。何が違うのか?を考察してみました。

 慣習とは、自分の感覚で言うと、組織や集団、特に地元や田舎などに根付く、みんなで守らなきゃいけない約束事やルールで、それを破ると村八分に遭うとまでは言わないけれども、周りから「あそこの家はいつも…」と白い眼で見られて軽いいじめに遭ってしまうようなものと思っています。簡単に言うと組織として守らなきゃいけない習慣なのでしょうね。

 これを広げて考えてみると、宗教組織って慣習の塊みたいな組織ですよね。日曜日は礼拝に行く。お盆やお彼岸には墓参りに行く。クリスマスには家族で集まる。豚肉はダメ。牛肉はダメ。女性は肌を見せてはダメ。1日5回はお祈りする等々。例を挙げればきりがありません。逆に言えばこの慣習を守りさえすれば心穏やかに人生を送る事ができるという事なのでしょう。

 一方で、習慣というのは、自分自身に課した一定のルールであり約束事です。それを破っても誰からも何の文句も言われないので。村八分に遭ったり、イジメられたりすることはありません。でも、できなかった自分自身に対して自分自身が白い眼を向けるように、自分自身に落胆する事は、良くありますよね。

 そう考えると、習慣が「自分自身にとっての慣習」にまで昇華できれば、心穏やかに安心して自分自身という人生を過ごせることができるようになるのかもしれません。慣習というものは、代々引き継がれ守られて行って根付くものです。まだまだ未熟者の私にとっては、習慣が自分自身の慣習として根付くほどの強さを持っていません。自分自身が心穏やかにでも楽しく過ごすために、いつの日か慣習に進化する事を夢見て、今日も習慣を実行していこうと思います。50回目はけいぞうくんマジメバージョンでした。

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