人生を漫才のように生きる

人生を漫才のように生きる


 私の習慣のひとつに、「一日一行日記を書く」という習慣があります。その日起きたことで印象に残っている事、特に喜怒哀楽の感情が最も溢れた部分を取り上げて、日記に記しています。

「また、お酒の勢いを借りて、大きな口をたたいてしまった。。。」「ツイッターの“いいね”ボタンが少なくて凹んだ」「同僚に言わなくても良いことまで指摘してしまった。」など、見返してみると喜怒哀楽の“怒哀”が多くあるように思います。

 ちゃんと思い返してみたら、「今日食べた、カップラーメンが期待していた以上に旨かった!」とか、「車運転していて、10か所連続で青信号だった!」とか、どうでもよいのも含めて“喜楽”の出来事も多いと思うのですが、マイナス思考だからか、ストイックだからか、“怒哀”系コメントが多くなってしまいます。

 でも、一行日記を繰り返していくと分かったことがあります。もう一人の自分が誕生するのです。日記を書くときは、その一日の自分自身を斜め後ろから眺めるように回想するのです。

 そうすると、実はどうでも良い事で怒っていたり、自分で勝手に悲劇の主人公になっていたり、格好悪い自分を笑い飛ばせるように見つめられる自分がいるのです。

 そして、次に同じようなシーンになった時に、もうひとりの自分が「ちょっと落ち着こう。前もこういうシーンで勝手に凹んでたよ」とか、「いったん間をおいてみよう。相手の話にも意図があるよ」など、斜め後ろから心の声が聞こえるようになってくるのです。

 そうなると、怒哀の感情が過度に加速することなく落ちついて立ち振る舞えるようになります。

 自分自身を落ち着いて客観視する事で、偏屈な主観に囚われている自分を消すという、仏教でいうところの無我の境地に近づいているのかもしれません。

 邪な欲望が服着て歩いているくらい煩悩に溢れている自分なので、まだまだ悟りを開くには程遠くはありますが、一行日記を通じて「もうひとりの自分」の存在に助けられている事が多いと気づきます。

 このように書くといい感じになってしましますが、もう少し砕けた感じで言えば日記というのは、「自分自身に対するツッコミ」なのかもしれません。ボケとツッコミのツッコミです。

 ボケとは、日常の中での現実の常識とはズレている行動を指します。「このタイミングで怒るのはあまり無くない?」「自分の感情むき出しにする所?」などの状況を、冷静に振りかえり「なんでやねん!」と突っ込んでいる行為に近いでしょう。

 人生なんてしょせん漫才みたいなもの、「自分勝手な非常識」と「世間様の常識」の間で葛藤しながら、それを面白おかしく笑い飛ばせた者が勝ちなのかもしれません。

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