見出し画像

高校時代の思い出が蘇る!弘前高校『弘高ねぷた』の伝統と深い意味:一戸信哉の「のへメモ」 20241017

(写真は、2024年8月の弘前ねぷた)

9月20日放送の敬和キャンパスレポでは、高校生や保護者の皆さんにうかがった「高校生活の思い出」をお届けしました。オープンキャンパスの場で、お話ししてくださった皆さんありがとうございました。

保護者の皆さんのお話をうかがいながら、自分の高校時代も思い出そうとしましたが、勉強や通学など、これといった記憶は浮かんできません。しかし、弘前まで五能線というローカル列車で通学していたため、長い待ち時間があった土曜日には、弘前市内で昼ご飯を食べたり、本屋で本を眺めたりしていた日常を思い出します。

という、あまりパットしない高校生活の中で、弘前高校の伝統行事「弘高ねぷた」のことは思い出されます。これも自分では大した活躍していないのですが、ねぷた制作期間は、みんな朝早く高校にいって、朝も放課後も、制作に勤しんでいたような気がします。完成したねぷたは、高校文化祭の前夜祭として市内中心部、片側一車線を交通規制した上で行われています。

https://www.youtube.com/watch?v=n0Da-UAOuHE


この伝統行事、父が高校に通っていた時代にも行われたときいていますが、はたしていつから始まったものなのか。調べてみました。平成31年発行の弘前観光コンベンション協会・弘前ねぷた保存会「弘前ねぷた本」の中に、今泉吉朗「弘前高校のねぷた」というコラムがありました。それによると、最初の弘前高校自治会のねぷた運行は、昭和28年(1953年)、創立70周年の単発のイベントだったそうです。それが生徒から強い要望により昭和30年(1955年)に復活、徐々に発展して、現在のクラスごとのねぷた制作と運行になっていったと書かれています。父の年齢を考えると、父の時代が弘高ねぷたの草創期だったということになります(父からそんな話もあまり聞きませんが)。

このコラムの中で、かつて校長をつとめた小田桐孫一さんの書いた「ねぷた運行の意味」と題する文章がでてきます。小田桐先生については、以前にちょっと調べてみたことがありました。小田桐先生は、戦前文藝春秋の記者をつとめていましたが、応召して終戦を迎え、カザフスタンでの抑留生活を送り、その後故郷で先生になっています。こうした経歴から、生徒たちには「ダモイ」というあだ名で呼ばれていたといいます。「ダモイ」というのはロシア語で帰国・帰還を表す言葉で、抑留されていた人たちが待ち望んでいた言葉です。

さて、この格調高い文化人の小田桐校長は、弘高ねぷたの運行が過熱しすぎないように、どんな言葉を投げかけたのか。

「文明が進歩するにつれて人間は故郷喪失状態に陥る。この文明のさなかにあって自分をこの退廃から救い、再びいきいきした故郷感や風土感を蘇らせようとするところに、実はねぷた運行の深い意味があったように私は考える。・・・もしもねぷた運行の行事に何かしら頽落のかげりを感じるものがあったならばこの自分自身を引き上げようとする努力を惜しむべきではない。こうして奮い起こった精神が行事を奮い起こし、そうして奮い起こされた行事が私どもの精神を奮い起こさせてくれる。人間と行事はもともとこういう微妙な関係にあったのだ。ねぷたの太鼓一振りも粗末にしてはならない。」

立場も場所も異なりますが、教育に携わっている身として読むと、ねぷたの準備に熱中しすぎて学びが疎かになる生徒たちに向けて、校長先生がこうした言葉をかけたくなる気持ちがよく分かります。

弘前高校の多くの生徒たちは大学受験に挑み、卒業後に各地へと散っていきます。弘高ねぷたは、勉強一辺倒の高校生活からしばし解放される、貴重なイベントでもありました。同時に「故郷感や風土感を蘇らせる」機会でもありますが、その意味は、当時すぐに理解できるものではなく、卒業後、少しずつ理解されるものなのかもしれません。

私も含めて、結局故郷に戻ることがないまま、齢を重ねている同級生はたくさんいます(Facebookで様子がわかっている人達も多いです)。7月に行われる弘高ねぷたを、故郷を離れた人たちが見ることは、まずありません。ただ高校時代に、そのような行事を通じて、「故郷感や風土感を蘇らせ」ていたことを、ときに思い出し、そして再び故郷と自分との距離を確かめることはできているような気がします。

数年前、「全く聞き取れない」と話題になった吉幾三さんの「TSUGARU」は、私たちのように故郷を離れた人々に、強烈なメッセージを送っています。ねぷたとはまた異なる形で、青森県出身者に「故郷感や風土感」を呼び起こしているともいえるでしょう。


いいなと思ったら応援しよう!