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つい先日、
昔からの友人との会話で『 カエルの解剖 』という言葉が出てきた。
『 カエルの解剖 』は生物の授業で行う、あの『 カエルの解剖 』だ。
現在だったら動物愛護の観点で廃止されているのかもしれない。
その辺りの事情については詳しくないから解らない。
この世のあらゆる仕組みは時代の流れや環境によって常に変化していくから「今だと無くなっているのだろうか?」とふと思い浮かべただけだ。
ちなみに私は『 カエルの解剖 』は学園ものの創作物などでその光景を見た事はあるが通っていた学校で実際に経験した事はなかった。
代わりに『 牛の目の解剖 』が生物の授業で行われた。素手で。
その時に使われる『 牛の目 』は既に死骸だった牛のものだ。
先生が授業のためにあらかじめ用意した『 牛の目 』は出席番号順に数人で組んだ各班に一つずつ配られた。
『 カエルの解剖 』の話を友人と交わしながら心の中で『 牛の目の解剖 』の事を静かに思い出していたら目の前にいた友人もやはり同じ事を思い出したらしく、彼女の方からその事について触れて来た。
『 牛の目の解剖 』の事なんて正直今まですっかり忘れていたのだがお互いに『 解剖 』という単語で同じ思い出が火花のように脳内で蘇ったのだ。
上記で「 素手で 」と付け加えているのは、解剖が終わった後の自分の手がやたら臭かったのが強烈に印象に残っているためだ。
しかし薄手の手袋をつけていても臭いは素手に染み付いていた可能性もあるから断言はできない。ディテールが何とも曖昧だ。
どんな会話の流れで『 カエルの解剖 』という言葉が出てきたのかの経緯は割愛するとして、過去に同じ場所で同じ時間を過ごしていても【 何か 】を話題にした際に必ずしも同じ事を連想するとは限らないが『 解剖 』という単語で瞬時に私も友人も『 牛の目 』が記憶から掘り起こされたのである。
『 牛の目の解剖 』を実践した当時こそ辛かったものの何年も月日が経った後だと意外にもそういう授業の方が「あれ辛かったなぁ」「大変だった」と友人同士で盛り上がれたりするから一概に悪い思い出とは言い切れない。
その時、その地点に立っている最中は物事を俯瞰する余裕がなくても、通り過ぎて暫く経った頃に誰かと楽しく語れたりするから人生は本当に不思議だと感じた。