外国人が感情爆発する動画を見まくった話。

ここ二日くらい、ずーーーーっとYouTubeをみていました。


「海外の反応」という検索ワードは固定にして、その後に「アニメ」とか「ゲーム」とか、「翻訳」とかをつけて検索します。

すると、海外YouTuberの方々が日本のアニメをみたりゲームをプレイしながらその場で実況したり感想をいう、という動画に日本語字幕をつけて日本人向けに短く編集してくれているような動画がたくさん出てくるのです。


この二日間で私がみたのは、「君の名は。」「もののけ姫」「火垂るの墓」「ワンピース」「FF7R」「KH3」・・・他いろいろ。自分が触れたことのあるやつらですね。

特に「FF7R」は、長いシリーズ物の動画だったのでたっぷりみれました。


海の向こうでわたしたちの好きなアニメやゲームを同じように愛する彼らは、圧倒的に、わたしたちよりも感情をより開放して、受けとっているように見えます。人間の本質に迫るような作品が多いから、文化は違えど感じているものにそれほど違いはないのかもしれない。でも、その表し方や、コミュニケーションの感触はやっぱり違います。


ほとんどの人が(というかそういうリアクションの人を選んでそういう場面を繋げてるんだけど)すっごく大きなリアクションで、大粒の涙を流して、画面のキャラクターに問いかけたり励ましを送っていました。

特に驚いたのは、とあるキャラが死ぬ場面で、「これはゲームよ」と自分に言い聞かせながら、それでもゲームを中断するくらい悲しんでいたひと。そんな感覚ははじめて知った。ゲームだよアニメだよと思ったら冷めてしまうから、逆に現実に照らし合わせて、むしろリアルと重なるなにかを受け取ることがいいことだと思っていたのに。

実況動画だから自分がいま思っていることを喋ってくれます。映画をひとりで見ていても友達と見ていても、あんまりそういうことないですよね。

たくさん泣きました。泣かせてもらいました。この先1年は十分なくらい泣いたかも。


もらい泣き、というやつですが、ほんとに言葉通り!大切な感情をたっくさんもらいました。それがどうやら自分にかなり枯渇していたようで、時間も忘れて貪るように狂ったように動画をみ続けました。いま冷静になると、ちょっと浅ましい・・・

でも、ほんとにすごくいい時間でした。画面の向こうのすべての人にありがとうをいいたい。


欧米諸国の人たち、と括ってしまうと偏見ですが、わたしよりも、ピュアに、表裏もなく、そして感情を増幅させて、受けとっている感じがします。


ちょっと考えてみたいことがふたつ。
もらい泣きってなんだろうってこと。
「ピュアさ」が刺さる。ってこと。


◯もらい泣きってなんだろう。

今朝シャワーを浴びてて、あぁ、もらい泣きって、言葉通りだな!って気づきました。だって、自分でみた時は別に泣かなかったし「ふーんまぁよくある展開によくあるセリフかな」って思ったところも、彼らが泣いていると泣いちゃうんだもん。あぁ、「もらってる」ってこれかって。リボンのついた箱をもらうみたいに、嬉しいものなんだなって。今までそう感じなかったけど今はそう感じられてて嬉しい。

このもらい泣きって、あげた側は渡すつもりなんてないし、受けとる側もまさかもらうつもりなんてない。まぁ今回のわたしとか動画の趣旨は涙をもらいたいってことなのかもだけど、でも逆にいうとそうやって「もらいに行く」ことをしなくても、偶発的に受け渡しが成立してしまうことがもらい泣きの特徴とも言える。素敵なことだなぁと思う(陳腐な表現だー)。神さまが、その感情は大切なものだからかなり受け渡しできやすいものにしとこうと設計したのであるなら。もしくは進化の過程によって、その感情の伝播が種の生存に必要で、機能としてしぶとく受け継がれもしくは高められてきたものであるなら。それはわたしたちが持つ「共感」って力をもっと信用できる根拠になる。だって、悲しみや幸せはもらいやすいけど、怒りはもらいにくいもん。あ、幸せは渡す側との関係にもよるか。嫉妬になることも多い。でも、愉悦とか、猜疑心とかはあまりもらいにくい。共有することにトクのない感情ははなからフレームにかけられてる感じがいい。けど、幸せだけは、もらう際変換されないように気をつけよ、ということか。

そんで、もらい泣きしたり、そうやって受け渡しあった人との関係ってのが、ちょっとよくなるところがまた素晴らしい。わたしに「泣き」をくれた人をもれなく好きになったし、きっと自分の感情を受けとってくれた人がいたら、その人も好きになる。いいな。こんなにいい機能だったと知らなかった。
なんかRADWIMPSあたりがスウィートな歌詞にしてそうだな。


◯ピュアさが刺さる

これはもーなにやらなんでか、これが自分にブッ刺さるブッ刺さる。自分が作品で泣く時の8割くらいこれが刺さってる気がする。そして、わたしだけじゃない多くの人がきっと大好きだよね。動物モノに泣けるのも、おばあちゃんものに泣けるのも、そういうことなんじゃないかしらと思う。動物には打算がない。おばあちゃんも打算が少ない(イメージだけど)。それほどに、普段触れているコミュニケーション、仕事、情報の多くに、打算が含まれていることをわたしたちは無意識化で感じているのかもしれない。そしてたぶん、それを好ましからざる思っている、あるいは疲れてしまっているのかもしれない。計算打算に踊らされたくない、損をしたくない。溢れんばかりの広告、メディアニュース、そういうものが自分を騙さないか常に疑っていないといけないことに疲れているのかも。あるいは人間関係において、分かっちゃいながらそれでも自分をよく見せようとしたり相手を測ろうとしたりしてしまっているのかも。

いやいやまず「ピュアさ」=「打算のなさ」ではない。他にもたくさん側面あるだろ。うーん言語化できるかな。「ただ善なる」とかかな。「無欲さ」とかか?ただ相手のために何かをする、とか。「根源的かどうか」とかもあるかも。ただ生きたい、とかね。表面にあらわれた行動がどうかはともかく、その理由がシンプルで根源的であるほど、そして無欲で善であるほど感動するのかもしれない。なんか自分がバカ単純な気がしてきたぞ。そして、自分自身がそれに欠けているから欲してるってことじゃないか。自分はなんだ、やなやつか?
いやいや、まぁこの二日間の時間は、自分自身もすごくピュアな時間だった。シンプルに、自分をそうさせてくれるものだから嬉しいし好きなんだ、きっと。


と、こんなとこにしとこう。

とにかくいい時間が過ごせました。YouTubeありがとう。あの画面の向こうの人たち、というかそのコミュニケーションのあり方に、最近憧れます。



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