継子の発達障害を『理解する』ことに決めた(※ご紹介したい記事を追記しました)
ずっと私のnoteを読んでくださっているツムギ応援団のみなさんはおわかりになると思いますが、私のツムギに対する感情の波は恐ろしいほどに振り幅が激しい。
最近はそれが、夫や義父母の発言にも影響を受けるものですから、なんとも大人げのない、感情のコントロールもできない幼稚な人間に成り下がってしまっているように感じます。
『なんとかできるならなんとかしてあげたい』
これはたぶん、性分なのだと思います。
ツムギにとびきりの愛情があるわけでも、母親にならなきゃと肩肘張ってがんばっているわけでもなく、性分。
私だったらできるかも。という、なんの根拠もない自信というか、え?私にできることあります?それならやります!という世話焼き体質というか。
それだけ言うと、まるでギバーのような、慈愛に満ちた優しい素敵な人のようにも感じられるかもしれませんが、そんなことはなく、言ってみれば、お人好し、お節介。賢い人なら自分にできないことはできないと、自分の行動を判断することができるのですから、我ながら、馬鹿だなぁと反省するのです。
断れないのではなく、やれると思ってしまう。
頭、悪いのです。
それで、ステップマザーなどという、誰かに相談すれば「大変だよ?考え直したら?」と言われそうなことを、それも客観的にわかっているものだから、誰にも相談せずに決めてしまったりして、今があるのですけれど。
(前の結婚も、元旦那の親族との同居だったり、諸々癖のある一族で、私の叔母たちに「結婚式の日に大変そうだわって心配していたのだけれど、ケイトちゃんが決めたことだと思ったから言わなかったのよ」と、離婚して初めて聞かされたというのに、そこから学べなかったという訳です)
だから、ツムギに発達障害の診断がくだっても、それは根拠が示されただけで、私の心境にはあまり変化がありませんでした。
発達障害は明確になったとは言え、愛着障害やら、今までの生育環境やら、複合的な影響もあるでしょうから、ツムギはツムギとして、彼女特有の問題に向き合って、解決できるものは解決していった方がいいのではないかと考えていたのです。
対して、受診後から頻繁に聞くようになった夫の「ツムギは発達障害なんだから」の言葉が、免罪符のようにしか感じられず、段々と夫との間にも溝を深めお互いイライラを募らせていました。
私から見た夫は、ずっと不安に感じていた娘の言動が、発達障害によるものだった=ツムギ自身が悪い訳ではなかったと判明して、気持ちに区切りがついた風に映っていたのですけれど、今聞けば「ショックだったんだよ」と。
それはそうか。実の娘だもの。
きっと親ならば、そのような苦しみを感じるだろうということに、私は夫と近過ぎて、気づいてあげることができていませんでした。
「ツムギは発達障害なんだから」
私に言い放って聞こえたこの言葉を、夫は自分にも言い聞かせていたのかもしれないと思いました。
ずいぶんと前置きが長くなってしまいましたが、このような日々を経て、今辿り着いたところ。
一旦、夫の言葉そのものを理解しよう。
発達障害の人には、周りの人の『理解』が必要です。と言われると、どうしても私たちは、その人に対する『理解』を、発達障害とは何か?の『理解』をしようとしてしまいます。
発達障害の特性を自覚している大人、或いはこどもでも、自分の特性に気づいて困っているのであれば、対話を重ねることで、お互いの違いを『理解』することはできるかもしれないけれど、自分の気持ちさえうまく表現できないこども、更にはその特性の強いツムギを『理解』しようとすること自体が、時期尚早であり、非建設的であったと気づいたのです。
そこにきて、ステップファミリーなら尚更。
人間関係を築きたいのに築けない無力感。
私はその大きな海に飲み込まれて、潮の流れと共に、高波で青空を見上げたかと思えば、深い深い海の底に叩き落とされてを繰り返していたのです。
共感を求めてはいけない。
カサンドラ症候群を悩む人たちの声としては、夫婦間によるもの、または、子から親へ向けたものが多く聞こえてきます。
共感はできないと割り切るか、離れるか。
とても強い言葉が羅列されているように感じますが、それが現実なのだと思います。
決して、分断を意味しているのではありません。
こういうものだ。と、一回自分にわからせるのです。
赤ちゃんなら、言葉がしゃべれないんだな。と理解できる。
外国人だったら、言語も文化も違うんだな。と理解できる。
視力が不自由な人であれば、見えなくて困っているんだな。と理解できる。
背が低ければ、高いところに手が届かないと理解できるし、高ければ、頭がぶつかるね。と理解できる。
表に出ている違いは理解しやすいけれど、内なるものは理解しにくい。
脳は、そのものをハッキリ認識するわけではないから、理解しにくいのだと思います。
差別するとか、距離を置くとか、ネガティブな発想ではなく、ポジティブな一歩として、違うということを理解しようと決めました。
共感を期待しない。
心地良い人間関係を築こうとしない。
いちいち正そうとしない。
勝手な方向づけをしない。
中学校に上がって、対人関係に悩まないように武器を持たせようとすることは、失敗しないようにと先回りして何でも準備してあげてしまうこととなんら変わりがなかったのです。
私がステップマザーとして、まず最初にしなくてはいけなかったのは、ツムギのあるがままと適切な最初の距離感を持って人間関係を築くことだったのだと思います。
仲良くなれるか。家族になれるか。は、その先に存在する課題であって、最初に掲げる目標ではなかったのです。
とは言え、見えなかったので。
最初は。
だから、ここに到達するために費やした二年半は、無駄ではなかったし、間違ってもいなかったと思います。
「ツムギは発達障害なんだから」
そう私が『理解』して接する中で、ツムギはツムギで新たに何かを感じるかもしれないし、感じないかもしれないし。
他人と過去は変えられない。
変えられるのは、自分と未来。
自分が何かを変えれば、良くも悪くも周りが動く。
何かが動くのが見えたら、次の手を打てばいい。
振り切れた思考の先には、秋の青空が広がっています。
追記:
昨日、この記事をアップした直後に、こんな記事に出会いました。
『ADSは共感ができない』の大きな誤解について。
というタイトルは、私をハッとさせ、ちょっと血の気が引くのを感じるようなインパクトがありました。
私、失礼なことを発信していないだろうか?
ドキドキしながら読み進めました。
結論を言うと、ADS当事者に『共感力がないわけではない』、定型発達人との会話の中に『共感できることが見つけられない』、というお話だったので、私は自分の記事を修正することはしませんでした。
とてもわかりやすく、筆者美奈さんの特性を活かした仕事への向き合い方は、発達障害児を育てる私たちに希望を与えてくださると思いました。
それで、追記として、ご許可をいただき、ここにご紹介することにしました。
ぜひご一読ください。