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母親は選べるのか?

まだ私の中で明確な結論が出ていないことを、今日はnoteに書いてみようと思います。
結論が出ていないからこそ、文字にして整理してみたい。そんな感じです。

だから、間違ったことを言うかも知れないし、後になって考えが変わることもあるかも知れないけれど、今の頭の中、心の声を、思考の順番に綴っていきます。


昨日私は夫にいいました。

一年経ったけれど、私は今後もツムギの母になることはないと思う。

もちろん、まだ小学五年生の娘。
対外的には母親(保護者)の役割はしていくでしょうし、生活面でも母親のような支援は続けていくつもりです。
夫もそのことについて触れ、そんなことを言うけど、今でも母をやっているじゃないか。と言いましたが、私にとってそれは母ではありません。

ツムギの中でもまだ気持ちが揺れ動いているんだよ。

夫は当たり前のように言いましたが、一緒に暮らしてまだ一年とは言え、気持ちが揺れている時点で、それはもう、娘の中でも結論は出ていると思うのです。

こどもが母親を見定める。それは当たり前のことなのでしょうか?

人はみんな、生まれた時点で母親が決まっています。
昨今よく言われている親は選べない。と言うやつです。

養母だって父親が勝手に再婚したんだし、こどもには選ぶ権利がないじゃないか。もちろんそうです。
でも、こどもには、この人を母とみなすかみなさないかの選択権はあると思っています。

そんなすぐに他人を信頼して、自分の母親だと決められるこどもなんていないよ。と言われるでしょうか?

確かに、会った瞬間に決められるものではないのかも知れませんが、それが一週間なのか一ヵ月なのか、少なくとも一年もかかるとは思えないのです。私は逆に、直感的に決める、本能に近い判断なのではないかとさえ思っているからです。

ああ、ここまで書いて急に気づきました。
私のモヤモヤしていた気持ちの正体に。

私が再婚当初から言っていることを夫は未だに理解してくれていないのですけれど、私はどちらでもいいよ。と夫に伝えていますし、娘に対してもそのように接しているつもりです。

ツムギが私のことを母と思いたいなら母になるし、そうじゃなければただの家族でもいい。選ぶのは自分だよ。と、直接言葉で伝えたことはありませんけれど。

つまり、大人側には選ぶ権利はない。
立ち位置を示す必要もない。

それをどう表現したらよいのか、或いは、その考え方が正しいのか、それがよくわからずモヤモヤしていましたが、それが先ほどの自分の言葉で整理がつきました。

誤解を恐れずに言うと、養母は養子を本能的には必要としていないのです。

詳しくは後に追記するとして、こども側の目線に話を戻しますが、この人を自分の母にする。と言う決断は最初の一回で終わりだと思うのです。

だってそうではありませんか?
実の親と長い年月を暮らし、考え方の相違や人として尊敬できない。などの理由で、距離ができていったとして、親子であると言う事実は消えないのに、養子だけが親を見てからどうするか決めるだなんて、それなら、養子は親を選べているではありませんか。

もちろん、実の親子だって、絶縁と言う結末を迎えてしまう人たちもいるのはわかります。でもそれは、養父母であっても変わらないことです。

人と人との関係は変化するものよ。と思う人もいるでしょう。
確かに、例えば夫婦の場合、他人から知り合いを経て友人になり恋人になり夫婦になるのはわかります。
夫婦ではなくても、こう言ったケースもありますね。
兄弟のような親友であったり、寮母さんなどを第二の母だと思ったり。

父母兄弟姉妹などの所謂『続柄』と言われる言葉と、それ以外の間柄を示す言葉を混同して考えると難しくなってしまうのだと思います。

『続柄』は変化しないと言うことです。

友達親子と言ったって、それは親子であるし、母親のような存在は、あくまでも母親のような人であって母親ではないのです。

ではなぜ、養子は親を選ぶ権利があると思うのか。
それは、まだ未熟でひとりでは生きていけない存在であるこどもが、自分に母親が必要かどうかを本能的に嗅ぎ分けているからだと思うのです。

例えば我が家のように、実の母親の記憶がなく父親に育ててもらったこどもの場合、あくまでも実の母親が母であると潜在意識で思っていたり、父親だけがいればよくて母親を必要としていないとしたら、こどもは新しい母親を母としないと思います。
逆に、実母がいない環境で過ごした日々の中で、それでも母が欲しくて渇望していたならば、父親が連れて来た養母が自分のイメージ通りではなく失望したとしても、なんとか母になってくれないかと、本能的に訴えると思うのです。

私はツムギからそれを感じない。

生活のすべてを任せることに躊躇はないし、感情を隠すことなく露わにするような様子をみていると、一見私のことを母親として認めてくれているように思うけれど、それは嫌な言い方をすると、都合よく使われているだけ。私に対して、こどもが母親に感じるであろう、お母さんにはいつも笑っていてほしい。とか、嫌われたくない。とか、見捨てられたくない。とか、何があっても大好き。とか、そう言った感情を持っているようには思えないのです。

それが悪いこととは思いません。
ついこの間まで他人だったのですから。
他人に対して、ごく当たり前の反応だと思います。

それでは養母はやっぱり母にはなれないではないかと思うでしょう。

そこに例外が存在すると思うのです。

ふた通りあると思っていて、そのこどもがあまりにも幼く、自分の意思で選べていない場合と、自分の意思で選べる年齢になっていて、本気で母を欲していた場合です。

前者は言うまでもなく、他の幼児がそうであるように、生きていくために必要で、目の前に現れた人を母親だと信じて疑わないケース。後者の場合には、相手がどんな人であろうと、自分があなたのこどもであると必死にアピールして、試し行動に出るのか、優等生を装うのか、方法はその子によって違うと思うのですが、考え得る限りのやり方でこちらに向かってくると思うのです。

お父さんをケイトに取られたみたいで嫌なんだよ。

そんなことは口にしない。

なんでツムギは一生懸命がんばっているのに、ケイトは私のことを怒るの?

そんな感じでしょうか?

さて、私は児童心理学の専門家でもなんでもありません。
私の見解が絶対に正しいとも思っていません。
寧ろ、違うよ。と言うことがあれば、具体的に何がどう違うかを正して欲しいと思っています。

そうすれば、少しは娘への接し方の迷いが晴れていくのでしょうから。


養母は養子を本能的には必要としていない。

先ほど、こんな乱暴な言葉を発してしまったので、ここだけ掘り下げておきますね。

私はもちろんこどもが好きで、自分のこどもが欲しいと思っていたし、娘と暮らすことによって得られる経験を心から楽しんでいます。
それは、人間としての営みを考えてのことです。

人間の、と言うと大袈裟なので、ここでは日本人の、ぐらいの話にしておきますが、日本人の種族保存と言う意味合いで言えば、ツムギを育てていることは、ある意味、本能から来る行動に近いのかも知れません。

けれど、本当の意味で言えば、自分の血を引いていないツムギは、私の血族の種族保存ではないのです。
遺伝子レベルの話としては、どなたかもおっしゃっていましたが、遺伝子的な観点で言えば、自分の遺伝子は弱者としてこの世に残せず、強者として残された言わば勝ち組の遺伝子を負け組が育てている構造。

もちろん、そんな穿った考えを普段からしている訳ではありませんが、感情を抜きに物事を捉えるとしたら、あながち間違ってはいないと思います。

本能ではあり得ないことだけれど、私は人間であり理性があります。
理性があるからこそ、本能的に必要としていなくても、それでもこどもと過ごす幸せを感じることができるし、まだ判断力の乏しいツムギに対して、本能に従った結論でぶつかっておいで。と、選択を委ねられるのです。

それでも私はツムギに対して、さあ、本当のお母さんと思って何でも言ってちょうだいね。あなたのすべてを受け止めているわ!と言って、両手を広げて目の前に立ち続けなくてはいけないのでしょうか?
そうでないと、冷たい人間。それができないなら、養母になんかなるな。と言われてしまうのでしょうか?

あ、そ。
そりゃあ迷うよね。母親だなんて思えないよね。
オッケー。
じゃあ、そのつもりでいるけど、一緒に住んでる大人だし、社会的には責任ある立場だし、母親じゃなくても家族であることには変わりはないから、ツムギがちゃんとした大人になって社会に出て行けるように、気づいたことは言わせてもらうね。お家のルールもダメなことはダメって決めさせてもらうよ。
何か困ったり悩んだりしたら話してみてね。頼りないかも知れないけれど、あなたの身体と心を守ってあげたいとは思っているわ。

そんなスタンスで過ごしながら、結果として、母親のような存在になったとしたら、それはそれでひとつの在り方ではないかと思います。

父の再婚相手を、母のように慕っています。

この先私が築くことのできるツムギとの最上級の関係は、こんなところなのではないでしょうか。

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