なぜ北海道の寺の跡継ぎが森林学の博士になったか
人生に悩んでいたら、先輩にブログを勧められたので書いてみることにした。1つ目の話題は、「なぜ北海道の寺の跡継ぎが森林学の博士になったか」だ。
私は、北海道の地方都市のお寺の長男である。京大の農学部森林科学科に進み、そこで修士、博士課程を修了して博士号を取得し、今は化学の研究所でプロジェクト付き助教として働いている。
私は33,父は60代後半。継ぐことを考えると、そろそろ先を考えるべき時期だ。
そんな時期に、私は元いた学会と揉めて、心理的負担のあまり半ば廃人のような生活を送ってきた。
なぜそんなことになったのか。それを考えるために、なぜ林業と縁の薄い私が森林学の博士になったのか、から振り返るとよいと考えた。
私は、地方都市の進学校の出身である。定期テストは中の上、模試は上の中くらいの成績だった。中学のころから好きな科目は生物で、生物の起源を解き明かしてみたいと思っていた。
高1の時、化学の先生が京大出身で、京大に憧れを抱いた。高3の秋に河合の京大模試を受けて、数学で8/200点を取った。それで、京大受験を諦めた。
しかし、いざセンター試験を受けてみたら、これまで取ったことのないような点数を取れた。『生物と無生物の間』著者の福岡伸一先生が京大農学部出身だったことを思い出して、京大農学部を記念受験してみることにした。そうしたら、第二志望の森林科学科にほぼ最低点で受かった。森林科学科を第二志望に書いたのは、家族旅行で行った大雪山ロープウェイから森林の水平分布がきれいに見えたからだった。
森林科学科に入ってみたら、授業はなんかよくわからなかった。それに、森林科学科の研究と教育の対象は当然森林なので、「生命の起源」には接近できそうもなかった。そして、フィールド実習で覚えるべき樹種は見たことも聞いたこともなかったし、化学実習では滴定も満足にできなかった。
そんなわけで、私は京大の森林科学科で唯一の文系の研究室に進むことにした。
卒論のテーマ選びに悩んでいた時、ちょうど宗派の用事で京都に来ていた父にあって、ご本山の修理に必要な大きい木がないらしいという話を聞いた。
それを研究室のゼミでしたら、先生や先輩からのウケがよく、それを卒論のテーマにすることにした。
卒論は苦労の連続だった。お寺の木材に関する森林学の先行研究はなかった。そもそも、分野にまともな教科書はなかったし、自分の専門分野が「森林政策学」なのか「林業経済学」なのか「林政学」なのかもよくわからなかった。
この分野には「林業経済」と「林業経済研究」という2つの雑誌があるのだが、それらの違いもよくわからなかった。
卒論で醍醐寺さんに行った時、上醍醐から笠取に抜ける道で遭難寸前の経験をした。その時に、寺有林は明るくて活き活きとしていたが、国有林は暗いのを見た。森林の望ましい経営とは何だろうと思った。
それ以来、お寺や神社のような伝統木造建造物に必要な高品質大径材の確保策のことが寝ても醒めても忘れられなくなった。伝統木造建造物と伝統木造建築、長大高品質材と高品質大径材など、ワードチョイスにもずいぶん悩んだ。けれども、この問題は自分が取り組まなければならない、という使命感に燃えた。
そうこうして、色々もがいているうちに、博士学位も「伝統木造建造物の造営・修理に必要となる高品質な大径材の確保策に関する研究」という題目で書き上げた。
ここまで色々書いたが、私が森林学の博士になった理由の第一は、結局お寺の木材の持続可能性への興味が尽きなかったためである。第二は、醍醐寺で見た森林の対比が忘れられなかったためである。