続く社会と続かない社会
「サステナブル」「持続可能」「持続的」といった言葉を毎日目にするようになって久しい。
でも、どこか借りてきた言葉、自分の感性の外の言葉という印象がぬぐえない。一種のフレーズになってしまっている感がある。
理由の一つは、日本社会そのものがunsustainableであることだろう。図1に示されるように、日本の人口はこれから減少していく。おそらく、経済成長期に構築された公式・非公式の社会制度(法制度に加え慣習や価値観も含む)が私たちの重荷となって、人口が減少していくのだと解釈している。こういうunsustainableであることが明白な社会で、sustainabilityを自分のこととして考えるのは難しい。
もう一つの理由は、これらの言葉がどこか腹に落ちない、よそから来た言葉であるからではないだろうか。
sustainableというのは、要するに「続くことができる(続ける)」ということだ。
unsustainableというのは、要するに「続かない(続けない)」ということだ。
自然資源を使う文化、木の文化は、1000年以上続いた(平城京遷都は794年)。化石資源に依存する石油の文化は、おそらく1000年続くことはない。化石資源を燃焼させると大気中に温室効果ガスが放出されて気候変動の原因になるし、石油という資源自体が有限だからだ。
こう言いかえると、サステナビリティについての議論も、身近さが少し増すように思う。
私たちがいま生きている社会は、化石資源に依存しているから、遅かれ早かれ終末を迎える。長続きしない社会である。
その過程では、生物の多様性が下がり、人間の厚生が下がってしまう可能性が高い。
子々孫々や、地球に生きる動植物に責任を持つために、いま生きている社会を続くことのできる社会、続く社会に組み替えていく必要がある。