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3.11

「もう11年も前なのね」
母が電話越しでつぶやいた声は悲しみも憎しみもなく、ただ懐かしむような声色だった。3.11、忘れないとか、復興とか、いろんな声がある。TVで見る被災者の声をどのような気持ちで聞いたらいいのかわからないまま、11年もたってしまった。


2011年の3月11日、私は中学1年生だった。吹奏楽部に所属しており、翌日が卒業式であり演奏を控えていた。生徒会や係によって着々と準備される体育館、体育館のセッティングが終わったら吹奏楽部が体育館を使用していいことになっていた。

朝練習の時間に楽器を1階のパソコン準備室に移動し、授業が終わった生徒から音出しをする予定となっていた。私は部員である以前に学級委員でもあったため学級委員の仕事を終わらせてから部活へ行くつもりだった。渡り廊下で先生を待つ、遠くから楽器の音が聞こえてきた、ほかの部員は音出しを始めているんだ、私も早く部活に行きたいのに…そんな気持ちでいたときに地震が起きた。3.11の前も余震が何度かあり、わたしは「最近地震多いなあ」なんて、ぼんやり考えていた。その時、ぐらっと大きく揺れた、立っていられないほどの地震、「ふせろ!頭を守れ!!」他学年の先生の先生の声が響いた。渡り廊下には何もない、わたしはとりあえずしゃがんだ。近くにいた男子生徒が下敷きで頭を守っていて、そんなのじゃ意味ないでしょと私は笑った。地震が収まると校庭に出ろと指示があり小走りで校庭に出た。はっきりとは覚えていないが校舎には亀裂が入り、下駄箱が倒れていた。生徒を並ばせるように指示があり、泣き叫ぶ女子をなだめながら私はクラスの女子を並ばせ一番前に座った。
「津波が来るかもしれないから、」
校長先生がメガホンで叫んでいた。当時の校長先生はちょっとお茶目で、全校集会での話も面白く、いつもニコニコしていた。私は校長先生が大好きだった。真剣な声で声を張り上げる先生の姿を見て、非日常を感じ不安を覚えた。ようやく、普段と違うことが起こっていることを理解した。集団で下校することになり、いつも一緒に帰ってる女の子と帰路に就いた。私の家には親はいないようで、鍵がかかっていてピンポンを押しても応答がなかった。「お母さん、大丈夫かな」不安が自分を覆う、実家で買っていた猫も、きっとびっくりしただろうな。そんなことを考えたときに雪が降り始めた。心がこんなにざわついているのに、雪はびっくりするぐらい静かで、きれいだった。
数時間一緒に下校した女の子の家にお邪魔し、家に帰ると母がいた。「びっくりしたね」母はそう言いながら台所の割れた食器などを片付けていた。家の中はめちゃくちゃだった、本棚から本は全て落ちていたし、本棚自体も倒れていた。当時携帯を持っていなかった私であったが、この光景は何かに残さなきゃいけないように思い、DSのカメラで写真を撮って回った。
その日は電気も水もなく、余震も怖かったので近所の公民館に泊まることにした。母は猫が心配だから、と家にいるといった。(今思うと母と一緒にいればよかった)父と姉は当時姉の大学入学の準備とかで、関東にいたため不在であった。夕飯はわかめご飯や乾パンなどが配られたが、全員分確保されているはずもなく、私たちの分はなかった。見知らぬ大人は、子供を優先にと譲ってくれようとしたが、私や近所の同級生は家から持ち寄ったお菓子やジュースを飲み食いしていたので大丈夫ですと断った。近所の友達とDSで通信したりして過ごした。私は、のんきだった。続く余震に眠れずイライラしたりしたが、当分学校行かなくていいのかな、ラッキー、くらいにしか思っていなかった。


後日姉と父が帰ってきて、しばらく家で過ごす時間が増えた。トイレが流れない、お風呂に入れないことは不便を感じたが、苦痛だった記憶はない。繰り返される同じCM、青い背景のニュース、私は相変わらずのんきで、ずっと家族といられていいな、くらいにしか思っていなかった。津波のニュースもどこか他人事で、ボーっと眺めていた。
そんなある日、近所のスーパーが開いた、見たことないような行列ができた。我が家もさすがに食料が底をつきそうで、母が列に並んだ。私はその日は家にいて、母の帰りを待っていた。すると母から電話がかかってきて、急遽用事ができたから、少しの間列を代わってほしいと頼まれた。私は了承し近所のスーパーへ走った。列を代わって20分、急におなかの調子が悪い。トイレに行きたい、数分我慢したがどうしても我慢できずに、後ろの人に、「すみません、トイレに行きたいので少しあけててくれませんか」と頼んだ。高齢の男性は快く引き受けてくれて、私は家へと走った。母は驚いた顔で、「戻ってきちゃったの?」といった。私は母に事情を説明しトイレへ走った。出してしまうとすっきりし、小腹がすいたのでカップ麺にお湯を注いだ。すると母が帰ってきた。「どのひとかわからなかったよ」母はそう言ってその場で泣き崩れた。私は母が泣く姿を黙ってみていた。これまでも母が泣くところは見たことがあったが、自分が泣かせてしまったことは初めてで、私はその時やっと、事の重大さ、自分がいかにのんきにこの時を過ごしていたのかを頭を打たれたような衝撃で気付いたのだ。
その夜母が、私の部屋を訪れて「昼間はごめんね、悲しくなってしまって」と謝った。私は寝たふりをして何も言えなかった。その翌日から私はやっと、水汲みや家族の動きに協力できるようになった。


文字に起こしていて、11年たった今、当時の浅はかな自分を恥じると同時に、母の気持ちも以前より多方面の角度から見ることが出来るようになったと思う。もっとしんどい、つらい思いをした方がたくさんいて、家族を亡くした方もいて、その当時のことをTVで放送されているのを見ると、私は罪の意識を感じる。当時のんきであった私、泣いた母のことを思うと、自分を強く責めてしまい、いまだに自分の行いを許すことが出来ないのだ。
電話で震災の話が出ても、私たちはそのことには触れようとしない。母は母で、きっと思うことがあるのだろうと思う。私も私で、苦い思い出を早く忘れてしまいたい気持ちもある。でも思い出は消えない、色強く残り、これからも胸にしまって生きていくのだと思う。いつか、あの夜に言えなかったごめんねを、母に伝えられたらと思う。

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