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「嫌われ松子の一生」から見るキリスト教の疑問について
「嫌われ松子の一生」という小説に最後「キリスト教についての疑問」がテーマとして挙げられている。 この小説・映画には反社組織=ヤクザが登場するのだが「いくら神に懺悔したからといって散々悪さをしてきたものが赦されてしまったら、遺族はどうなるのか?」という疑問が提示されていた。
これについてはいまだに解けない謎ですね・・・
つまり、ずっと良心的に生きてきた人を差し置いて散々悪事を働いてきたそういう人種が神に懺悔さえすれば赦されるというのは逆に不公平ではないか?という至って当たり前の疑問・・・ それらにつては牧師さんでも答えらるのかどうか。
神学的には「最終的にはあらゆる人が赦されて天国に行かれる。」という学説もある。 しかし、もしそうならば「最初から善良な人間になろうと努力するのが報われない」ことになります。 必死に頑張って世のために尽くした人たちが逆に可哀そうになります。 それらについても、聖書は答えてない。
つまり、牧師さんレベルの人や聖書や神学をマスターした人たちですら、これらのことについては答えられないわけです。 それこそが人間の欺瞞だと思ったので、私はひたすら一人で哲学してたわけですね。 これらにことについてすらろくに答えられないで傲慢で欺瞞なクリスチャンが多いからです。
こういったことにまったく関係のない善良な人たちもたくさんいます・・・ でも、そういった平和主義の人たちはみんな大半はどっちつかずで自分のポリシーなんてものは何もない訳です。要は何が真実だろうがどうでもよくて、ただこの世のオピニオンリーダーに追従することしかしない。
何が真実だろうがどうでもよくて、多数派の信じるものに従っていれば間違いはないと、石橋をたたいて渡る人たちです。彼らは自分らには何の才能も特にないからそうするしか生きる術はないと述べますが、逆に言えばその時その時でオピニオンリーダーに都合よく従うだけですぐに裏切る人たちなの
です。
これこそがまさに人間の欺瞞と偽善でしょう・・・
人類の歴史がすべて証明してます。 傲慢なリーダーは革命と銘打って立ち上がるけど、結局エゴの血塗られた歴史を作ってきただけだし、大半の大衆はそれらを無責任に横目で見て何の責任も取ってこなかった訳でそれが人類の歴史。
そして、哲学者もみな傲慢な偽善者なので、人類は仲良く裁かれるべきだと思うのですが、ですが肝心の裁くキリスト教にも欺瞞が感じられるので、もはやこの世は意味不明ということでもあります。
多分、ニーチェもこういったことで、人類社会の欺瞞と傲慢さと、聖書の欺瞞の狭間に立たされてついに答えが分からなり頭がおかしくなり、最終的に発狂したのだと思えますね・・・
哲学し続けるとそうなると思います。
多くの人は、ニーチェは頭がおかしくなったのは脳梅毒で「私は神、ベートーベン、世間はバカばかり」というようになったのかと思ってるけど、それなりに理由があってそういう主張をしているのだと思います。 つまり、世間があまりにも身勝手で考え尽くさないで適当に生きてる人たちだらけだから。
それは、自らそういったことを哲学すると何となくでニーチェの発狂した心理にたどり着ける気がします・・・しかし、「たかが哲学しているだけで何が偉いの?」とプライドの高い人たちは言ってきます・・・
でも、そうなるとなぜニーチェが発狂したのかは永遠に理解できないと考えられる。