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音楽小説 - soulmate

自分がダメな奴だって思う事なんて簡単だ
でも人はいつだってそういう境遇から新しいものを創りだす事も出来るんだ
2008年 春

章 1

看護婦さんが頭の上から声をかけてくる
「スズキさん 終わりましたよ」
僕は自分に問いかける 「終わったって 何が???」

手術
そういえば今日の朝 僕は心臓の外科手術をうけるためにストレッチャーに横たわっていたんだ その数分前には言われたとおりに  最近 結構気に入ってた髭面を全部剃らされて(手術の際に口から何らかの管を入れる時に髭は邪魔らしい) ヘソのゴマを看護婦さんに掃除してもらって 全裸になってガウンを一枚だけ羽織った状態で待っている間 時間があったので病院に持ち込んだDVDでキース・リチャーズを観ていた
僕にとって お守りみたいなもんだった

彼も最近 椰子の木から落ちて頭を打って手術をしたんだな~ って思いながら観た一番新しい Rolling Stones の映像には本当に元気をもらった
ミック に名を呼ばれ キース がステージ前面に出てくる  テレキャスターのネックに白い粉が舞う Buddy Hollyのナンバー「Learning the Game」をキースが演奏し始める

「Hearts that are broken and love that’s untrue. That’s What’s called Learning the Game 」
って詞は心臓の手術を受ける直前に聴くには あまりに辛辣な内容だと思ったけど 自分の今の状況と比較して「これって 本当はそんな事ないって言いたいんだろうな」って勝手に思いながら変な覚悟ができた
キース・リチャーズ は僕にとって 神みたいな存在だ そして 良い人だ

何故か手術に向かう時 全然恐怖を感じなかった - この気の小さい僕が

これは「奇跡」と「運命」の物語である

麻酔
現代医学の麻酔という技術は凄い
ストレッチャーに乗せられたまま 注射針を何本かパッパッて同時に身体の何ヵ所かに注されたと思って5秒くらいしたら「麻酔導入しますよ」って声が聞こえて その声に反応して「あ~効いてきましたね~」って言ったのが最後の記憶 それから5分後に冒頭で書いた「スズキさん 終わりましたよ」って声を聞いた 
一体全体 “5分間” で何が出来るんだ?(手術失敗したんだ・・・)って思いながら身体を触ろうとしたが 身体中のあっちこっちに注射針が(どこにどう刺さっているのかも分からない)あって動けない かろうじて頭をかしげて壁の時計を見ると午後4時 手術室に入ったのが午前9時だったから  7時間経過している・・・ 
何だか不思議な温かさにつつまれて また眠りに落ちた

ここで Wikipedia による麻酔の定義を引用する
「麻酔とは 薬物などによって人為的に疼痛をはじめとする感覚をなくすことである これにより 手術を受けることができ また “耐え難い苦痛” を取り除くことができる 麻酔は通常 局所の感覚のみを失わせる局所麻酔と  全身に作用する全身麻酔がある
一般にはあまり知られていないが 上記 狭義の麻酔に加えて 手術中の  生命維持を行う医療も麻酔に含まれている このことは 麻酔医療 痛みや意識を取るという狭い意味での麻酔に加えて 生命維持に必要な 呼吸管理 循環管理 体液管理 中枢神経管理を手術中にリアルタイムで病態治療を  行ってゆく したがって 術前・術中・術後の生命維持の総合医学として  高度に専門的な知識と実践が要求される」  とある

麻酔の先生は何か とにかく凄いんである
僕は “耐え難い苦痛” など体験したら死んでしまうかも知れないって思うほど痛いの嫌いなので 本当にありがたい事だ
で 麻酔の先生とは手術前夜に明日僕がやられる事や 使う薬についての  打ち合わせをした それで “あんたが死んでも俺は関係ないからね” と 簡単に言うとそういう内容の書面にサインした  病院ではそういうしきたりになっているみたいだ                           で 先生とは何故かその時から気が合って 結構長い間「酒」の話をした この人は酒好きだなってのは “勘” で分かる 同類の人間なのか 僕が “痛み” に弱い事を看破していてICUにいる時「いいか 痛みは我慢しなくていいからな!いつでも鎮痛剤もらっていいんだぞ」って特別にヘタレの僕を励ましてくれたし 手術室に入る時にストレッチャーに乗せられてる僕に手術とは関係のない話をしてリラックスさせてくれたり 実際に手術で何が行われたかを事細かに後から教えてくれたのも外科の先生ではなくて 麻酔の先生だった 手術室に最初から最後までいて 手術の全行程を見守るのは実は      麻酔科医で ある意味でその手術の総合管理者なのだ

よく全身麻酔は後で副作用が出るって聞いていたから “5分間” しか手術していない僕にとっては その後の頭の中の爽快さはまさに手品を披露された  みたいだった 
ある夜 眠くないので談話室でひとりDVDの映画を観ていたら 後ろから誰かに肩を叩かれてビックリして振返ると 麻酔の先生が険しい顔で     「君  困るな~早く寝てくれなきゃ」と言う・・     「あっ すみませんもう寝ます ところで先生の麻酔凄かったですよ  僕たったの5分間くらいにしか感じなかったんですよ 手術」 すると                                                        「なに~5分? 普通は3分だけどな  それは俺のミスだ 悪かったな」 って笑顔で言った
カッコ良いー  素敵だ ! やっぱり手品師はこうでなくちゃ

ICU
心臓の病院では 体重の増減が術後の経過を診る上でとても重要な要素で 毎日体重計に乗せられる  手術が終わってICUで体重を測ったら 1日で 6kg増えていた
手術をしてたんだから もちろん何も食べてない・・ いったいあの “5分間 ” のあいだに僕の身体に何が起きたんだ? 多分あのたくさんのチューブから6kgの液体が余計に身体に入れられたはずだけど 別に鏡で自分の顔を見てもドラエモンみたいに膨らんでる訳でもない・・ 何だか気もちが悪くて初めのうちは食欲もさすがになかった
でも 実際に今回の入院生活で本当に辛かったのは唯一 ICUでの数日間くらいだった

ある晩の事  ICUの他の患者が夜中通し何か叫んでいる  それも凄い音量で・・  僕は痛みに耐えつつ 眠気に誘われながら思わず看護婦さんに聞いたものだ「あの人どこが悪いんですか?」って だって凄いでかい声で「俺はどこにいるんだ~ てめェこらぁ 家に帰せ~」って真夜中に・・ その時の僕にはとっても出来ない事だった
あれは手術後の譫妄状態なんだって医者が説明してくれたけど 僕には信じられなかった 仮にも身体を切られた人間が数時間後にあんなにでかい声が出せるなんて・・・ そういう患者さんと 一晩中看護婦さんが話しの相手をしているのを 夢見心地の間に何度も聞いていた・・ 本当に偉いな~って思う でも 基本的に看護婦という職業は無神経な人が多い っていうか そうでなければ務まる訳がない 術後にICUで看護婦さんと接した体験は 僕が   普通の意識でない時でのこともあって 何かストレンジなことばかりだった

さて ICUで数日過ごすうちに 身体中に注されている点滴の液体を眺めていて「あれ 一体小便はどうなっているんだろう?」って疑問が湧いてきた (6kgは2日くらいで何処かへ消えていたけど・・・) こんなに点滴されてるんだから おしっこしなくちゃと思って膀胱にいきみを入れても何も出ていく感覚がない・・ 30分くらい必死に頑張ってもダメだったので 看護婦さんに伝えると「無駄ですよ~ 膀胱から直接でてますから」って笑ってる 僕は恐るおそる自身のコンチに触れてみると なんとこんな処にもチューブが差し込まれている(全身麻酔してたんだから当たり前なんだけど) おまけに陰毛まで剃られていた  俺にことわり無しに何てことするんだ まったく  せめて先に言ってくれよ そうすれば無駄な力を使わなくて よかったのに・・ でも心臓の手術するのに何で陰毛剃るんだろう??? 

それからオムツだ 何年ぶりだろうこれを股間にあてがわれるのは? しかも看護婦さんに取り換えられるのだ その間 僕は赤ちゃんがイヤイヤするみたいな恰好でコンチにお湯をかけられて「ハァ~」とか息もらして・・  (まだ体力なかったので 反応しなくて良かった~ いや本当に)    しかしこんな屈辱(?)は本当に久しぶりだった

今考えると 元気になってくるのと同時に訳の分からない感情も湧いてくる
毎晩 変な患者さんの叫びと次第に増してくる術後の痛みに目を覚まされて 夜中に一度だけ 看護婦さんに駄々をこねた
「もうこれ以上ここに居たら 僕は気が変になりそうだから とにかく痛み止めでも鎮静剤でも何でもいいから打ってくれ!」って・・ そういう頼み事をすると彼女らは決まって「先生に訊いてから」と言う  「だから麻酔の先生がいつでももらっていいって 我慢だけはするなって言ったんですよ!」って訴えても 彼女らは変てこな笑みを浮かべて居なくなり そこには痛みと僕だけが仲良く残される・・・
そういえば手術前に「ICUでは患者をベッドに拘束しますがこの行為は虐待ではありません」という文書にもサインさせられたっけ

“痛み” と “身体の回復” は悲しいかな同時にやってくる 現実により近づくという事は痛みをともなうものなのだと 麻酔薬と鎮痛剤に感謝しながら何とか4日間でICUを卒業した

心臓病
ここで 心臓弁膜症という僕の病気に関して少し説明します
心臓には四つの部屋がありそれぞれが独自の弁で仕切られている  人間の全身を廻っている血液は静脈から右心房(三しん弁)に入り 右心室(肺動脈弁)を経て肺に向かう  そこで酸素をたっぷりもらった血液は今度は 左心房(僧帽弁)に還ってくる  そして全身に酸素を届ける為に左心室(大動脈弁)から力強く大動脈へと送り出される 人間はこの心臓のポンプとしての働き=拍動を 一日に約10万回繰り返しながら生きている  僕はこの4つある弁のうちのひとつ=僧帽弁が遺伝的に変な形をしていた為に  送り出される血液が常に逆流を起こしていた 医者が話してくれた たとえによると この状態は「鼻から息がもれた状態で口で風船を膨らませている ようなもの」らしい・・・

何年間こういう状態だったのかは分からない・・ が僕の心臓は常に無理な仕事をこんな僕の為に 長い間毎日してくれていたのだ
それを "1日で治してしまった"
心臓弁膜症の手術は心臓の内部を修復するので 現代の医学では心臓を一時停止させなくては不可能である(動いているものを、切ったり縫ったりするのはさぞかし難しいんだろうな)で 人工心肺装置という機械に血液の流れと 酸素の供給をまかせてから 心臓と肺を停止させる これは 一度死ぬということではないか? 手術の前の日なんか怖くて眠れないのではないか? と思うのは僕だけではないだろう・・・

一般病棟
さて たった “5分間” のうちに “1日で治してしまった” 心臓は僕に驚くべき変化を見せ始めた ICUを卒業した後 一般病棟に移ってからの事である

夜 眠っていると自分の心臓の拍動でベッドが揺れているのである    それで 自分の心臓の音がうるさくて目を覚ますのだ 当然 痛みもあるし不安でもあるし・・ 鎮痛剤をもらうのだが 病院側の看護婦はこんな事は当たり前の事としてとらえているので 簡単に“薬”を与えようとしない (あ~ 麻酔科の先生がここに居てくれたら って何回も思った)    そこで 元気になってくると 変な知恵も働くようになってくる つまり 融通のきかない看護婦の行動を先読みして 痛くない時に “鎮痛剤” をもらったりして貯金しておくのである まるで小学生だ・・ もちろん乱用なんてするつもりは無い でも ほしい時にすぐに欲しい  痛いのイヤだし   いずれにしても 看護婦という人種は冷酷だ 
何年間かずれていた心臓の弁を治し 血液の逆流をたった一日でもとに戻したのだから 元気になった新しい心臓の働きに 僕の身体がついていくのが大変だった 

一般病棟に移ってからは とにかく頭が冴える 朝はやたら早起きになる  食欲は凄くある 性欲もあるけど(心臓外科の病院の看護婦さんには美人がいない理由がわかった)これにはまいった・・・
それにしても 病院の食事というのは量が少ない 特に夕食が・・ 夜はこれといってすることも無いので 夕食は病院での一番の楽しみだ      それで 勇んでフタを開けると本当にガッカリする あまりにも量が少なくて 僕はあまり大食漢ではないが いくらなんでもこれは少なすぎる   特に手術の前夜の夕食は まるで精進料理のようなメニューでおまけに量が特に少なかった 明日は手術だ これでは体力がもたないのでは?? と思って 看護婦さんに「これ 間違ってませんか? 明日手術なんですけど」と聞いたら、「だから そういうメニューなんですよ」と笑顔で言われた 病院食というものはそういうものらしい

僕は今回の入院(手術)は もの心着いてからは初めての体験だったのでいろいろ勉強 になった事もある

病院では状態が良くなるたびに ベッドごと病棟を引っ越す事になっている 今回 4回引越したけれども まあ その間いろんな人に出会う訳だ
ある病棟で60歳くらいの患者さんがいて この人看護婦さんには本当に よく喋る人で まあ 患者同士知り合いになるのは悪い事ではないし この人話すのは嫌いではないなと 思ってある朝 「今日は良い天気ですねー」 って話しかけたら無視された・・・ プイッって感じで なんだ ”感じの悪いオッさん” だな~と思って それから話ししないでいたら そのうちに僕の方は身体中に差し込まれていたチューブが1本づつ抜けていき そのたびに少し自由になって病棟を引っ越す事になる そうすると看護婦さんや医者は
「スズキさん 調子良いですよー 順調ですよー」って言ってくれて 僕も嬉しくて はしゃいで引っ越す訳だ・・ そして新しい病棟に行くと また “感じの悪いオッさん”  が必ずいる

それで ある時に気がついた 病院のなかにいる人達は 僕みたいにうまく治ってる患者ばっかり じゃないんだって事に 自分が中々良くならない状態を抱えていて 隣りのベッドの若造が調子よく術後を送ってるのって見たくないかも知れない・・・ で それから 日々良くなる自分の身体の事は 病棟 のなかでは出来るだけ話さない事にした 何か 他人にちっとだけ優しくなれると思う 入院する事って 

章 2

クレイジー・ジョー
クレイジー・ジョーは僕の友達で 北海道出身のミュージシャン / Bar のマスター / 何かの職人で日本人だ(本名忘れた) 彼とはたまにバンドも一緒に演るけど 英語で Blues を唄わせたらかなりのものだ 日本人で彼くらい 上手人間はなかなかいない そのジョーと初めて知り会った頃聞かされた話に凄いエピソードがある
1990年 Rolling Stones が初来日した時 彼は英語のできる友人に頼んで次のような内容の手紙をかいてもらった 「Mr. Keith Richardsへ - 私はあなたの大ファンです Stonesが来日している間 毎日 六本木のここそこの場所(の説明があって)でギターの弾き語りをやります 時間があったら 是非見に来て下さい  -  クレイジー・ジョー」そしてその手紙を携えて北海道から東京にやってきて(友人はやめた方が良いと止めたらしいが)その手紙をあろうことか Stones の滞在していたホテル・ニュー****に持っていき Mr. Keith Richards に届けて欲しいと年配のホテルマンに手渡し そして本当に1週間-雨の日も風の日も六本木で路上ライブを演っていたという

そしてある日 何とキースのマネージャーという人物がわざわざ通訳をつれてジョーの路上ライブを観にきたというのである! その時にマネージャーの T氏からバックステージ・パスを貰い そのコンサートの日に楽屋を訪ねて来いと言われたらしい そしてコンサート当日 ジョーは本当に東京ドームのバックステージに招かれて Mick Jagger ,  Ronnie Wood そしてKeith Richardsに会ったという・・・ その時にジョーはプレゼントとしてギターをKeithに手渡し そのギターは1990年のある日のStonesの東京ドームのメイン・ステージに確かに置かれていたというのだ・・・
僕はこの話が本当に大好きだ! これではまるで現代版 “わらしべ長者” ではないか
横須賀のドブ板通り界隈ではこの話は有名ではあったが 本当に信じている人間が何人いたのかは解らない ちなみに僕は信じようとしていた・・・

秋雪
秋雪は僕の大学時代からの友人だ  僕は “親友” という言葉が好きでない 友達は友達なんだからその人間にランキングをするのは良い事ではないからだ  でも もし僕に “親友” がいるとしたら彼だと言える まだ20歳そこそこの頃に実にいろいろな事を話した 討論した 政治、宗教、哲学、酒 etc
坂口安吾もニーチェも彼の影響で読んだし Tom Waits も Elmore James も彼が教えてくれた  僕の頭の中身の50%は彼の影響で出来ている

1990年 Rolling Stones が初来日した時 僕はチケットを取り損ねてしまった
横浜西口のチケット・ピア 前から100人目くらいに並んでいたのに  チケットは ほんの数分で売り切れてしまった  途方に暮れた・・    重い足取りで家路についた
初来日時の Stones のコンサートのチケットは全く意表をついた方法(発売当日の新聞発表)を取っており 電話予約も何も出来ずに 横浜駅西口で チケット・ピアに並んだ人達は前からほんの数十人で売り切れという憂き目にあっている 後から知った事だが 東京や大阪のような大都市より地方の方がチケットは取りやすかったらしい・・ 当時トラックの運転手の仕事をしていた秋雪は その全国のトラック運転手連絡網を駆使して 北海道のトラッカーから何枚かチケットを譲りうけて そのうちの1枚を僕にくれた 

Rolling Stones は言わずと知れた不良バンドだ だが そこが彼らの大きな魅力でもある
本来は1973年に初来日する予定だったのだが Keith Richardsを筆頭とするメンバーの悪行が日本政府にバレて「お前ら来るな」という事になってしまった
僕はまだ子供だったので Rolling Stones なんて知らなかったけど 70年代は麻薬に絡んだアーティストの来日中止がかなりあったと思う
それから17年後 遂に Stones は日本の地を踏むことになったのだ
テレビで彼らが成田に着いた時の映像を見たのを憶えている Keith Richardsは本当に嬉しそうに「Where am I  ? 」って言っていた

初めて観るRolling Stones ! 
のっけから イントロのギターを弾きながら Keith がステージに飛び出してくる 続いて他のメンバー達が登場する これがカッコ良かったなー
この時は Bill Wyman もいたっけ・・
何を演奏したのかもよく覚えていない程 興奮したコンサートだった 
ラストの Satisfaction で僕は生れて初めて “腰が抜ける” という経験をした
コンサート終了後5分間くらい本当に立ちあがれなかった


秋雪-2003年
2003年の春 とある日に秋雪から滅多にこないメールが来た 奴は何ともあっさりと自分が食道がんになってしまった事を告げてきた それもかなり進んだ状態の・・ はっきり言ってショックだった 彼は俺より年下だし働き盛りだ 若い年齢のがんは進行が速いって嫌な事をついつい考えてしまう 食道がんの手術って凄い事やるらしい 身体の複数の箇所にメスを入れ 他の臓器を持ち上げたり 骨を切ったりして患部を取り除くという大手術でかなり体力がないと 失敗するケースがあるので 今はがんとの ”共存” という考え方が主流で放射線治療とか 抗ガン剤の投与とかいろいろなセコンド・オピニオンがあるらしいという事をその時調べた          

そして食道がんの外科手術の危険性を強調し ”共存” する治療法を勧める記事の載った 医療の特集を組んだ刊行誌をコピーして送った  でも後から考えてみると 僕なんかよりはるかに冷静で頭の良い彼がそんな事知らないはずがない  僕は結局 秋雪に見たくもない記事を送ってしまった事になる・・ もう彼はその時には外科手術の方向で決めていた 僕のやった事はこれから痛い事を経験する人間に それがいかに痛いかをいたずらに知らせただけの 完全に無神経な行為となってしまった

手術の日程が決まった  僕は会社の出張を利用して週末から大阪に入り 手術前の秋雪とワインを2人で飲んだ “手術前の人間に酒を飲ませてはいけない” という事をこの時の僕は知らなかった・・・ 病気の話は何もせずに まるで何もなかったかのような感じで ごく普通に数時間を過ごした 別れ際 秋雪から手をさし出してきた 力強く握手した
いやでも これが最後かも知れないって考えが 頭をよぎる
「俺 頑張るからよ またお前と飲みたいもんな」って笑顔で言う奴の顔をまっすぐ見ながら 涙をこらえるのが今の俺の最大の使命だって考えていた

かくして 長時間におよぶ秋雪の大手術は無事成功した 秋雪のお姉さんがリアル・タイムでメールを送ってくれて その吉報をうけて 僕は一人で祝杯をあげた  まるで自分の事のように嬉しかった 奴は強い 本当に強いって思った

大阪
僕は大阪で4年間大学生活を暮らした  だからかなり大阪の文化については知っているつもりだ 食べ物は本当に美味しいけど 大阪が好きか嫌いかと聞かれたら あんまり好きでない(なかった?) まだ20歳そこそこの若い僕はほとんど 大阪文化を知らない状態でそこに馴染もうとした    今でこそ インターネット等のメディアの急速な普及で東も西もあまり変わらないけど 1980年くらいの大阪は関東もんの僕にかなり意地悪だった
話し方ひとつで こうも人間は人間に対して冷たいものか? って思い知らされて 関西に行ってからしばらくは “なんちゃって関西弁” を喋っていたがバカバカしくなって半年くらいで止めた  友達はなかなか出来なかった  恋人なんて出来る訳がない

ある日学校の 休憩所みたいなところで皆といたら あるバカ学友が僕に 「お前 その喋り方やめェ 気色悪いんじゃ!」とぬかしやがった 周りにいる皆が黙っていると その中の一人が 「そんなこと言ったら スズキが可哀想や」って言った   それが秋雪だった
( ちなみにそのバカ学友(Kとしておく)とは今でも連絡を取り合う間柄にはなっているけど 彼の結婚式は招待されたけど行ってやらなかった 僕は結構 根が深いのだ )

大阪に行った理由のひとつは 関西ブルースへの憧れもあった ソー・バッド・レビュー、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、有山淳二、憂歌団あたりが大好きだった 実際にはもう解散してしまったバンドばっかりだったけど当時の憂歌団は絶頂期だったので何回も観にいった 終電が終わってもアンコールに応えるバンドなんて初めて見た

ある日 鶴橋にホルモン焼きを食べに行こうと秋雪に誘われた ホルモン焼きとは 関西弁で捨てるという意味の “放るもん” の事で牛や豚の内臓を焼いたもので インシュリンやエストロゲンとは全く関係ないし ましてそれを食べたってなにかが “成長する” ホルモンでは決してないんだよと教えてくれた
その店は強烈だった トイレに行くと落書きがいっぱいあって「体制を崩壊させよ!」とか「我々は今こそ国家を叩き潰すのだ!」とか恐ろしい言葉が陳列されていた 店にくる客のほとんどが泥酔しているが 決して店に迷惑をかけるような飲み方ではなかった まず店のガラス戸をガラっと両手で開ける(まるで西部劇の悪役の登場シーンみたいだ!) そのままの姿勢で「はぁ はぁ」って浅い息をしながら小銭をバンってカウンターに叩き置いて「酒っ」って静かに言う
それをぐいーと一気に飲み干すとくるっと踵を返して黙って出ていく 気になるので外を見るとやはりその人は「はぁ はぁ」って浅い息をしながら電柱に掴っていて しばらくするとまた 同じように別の店の引き戸をガラっと開けるのだ その日に同じような人を何人か見た

秋雪は僕の Blues の師匠で 京都では伝説のライブ・ハウス「磔磔」(古い蔵を改造したつくりになっている)に連れて行ってもらった
Otis Rush が日本人のバンド Break Down を従えて登場した  近藤房之助を初めて観て ブッ飛んだ! こいつEric Clapton より上手いんじゃないかって思った 当時はあまり有名でなかったけど のちに「踊るポンポコリン」で有名になった “ぱっぱぱらりら~” のおじさんである 大阪はあまり好きでないと書いたが 僕の第二の故郷だとも思っている 嫌な思いもたくさんしたけど 楽しい思いもたくさんさせてもらった - きっとそういう街なんだろうと思う

2003年の秋にはバンドを連れて大阪で念願の Live を演ることができた
かの有名な “ぼちぼちいこか” から「可愛い女と呼ばれたい」と「お金はやっぱりある方が良い」をカバーした 本当に楽しかった その夜は阪神タイガースの18年ぶりの優勝がかかっていた日だったので客足はさっぱりだったが 春に手術を終えた秋雪は前よりも逞しくなっていて ひとりで大騒ぎしてくれていた

英語 
まだ若かった頃の僕は 大阪での孤独な生活に耐えられなくなって 自分の将来についてもっと真剣に模索するべきだという理由で大学を休学するという作戦をとった  解ってもらえるだろうか? 日曜日の昼に「吉本新喜劇」を独りで見ていると何とも言えない寂しい気分になってくるのである 関東でいえば 日曜の夕方に「笑点」や「サザエさん」を見るときと同じ気分だ・・ いやあの10倍は暗くなる

とにかく横須賀に帰りたかった アルバイトしながら休学費稼いで 自分が本当にやりたい事は何なのか? を見つけたかった(結局見つからなかったけど・・・) そして 2年間大学を離れている間にB社というあの有名なテトリスのファミコン版を制作した会社でアルバイトしていた     (僕はテトリス / ファミコン版の開発メンバーの1人なのだ)
そこで ジョン・ウェッブというイギリス人と一緒に仕事をした ジョンは剣道の猛者で イギリスで剣道を通じて知り合った女性に一目惚れし 彼女を追いかけて日本にやってきて プログラマーとして生計を立てながら剣の道を極めつつ 女のケツをも追いかけていた               当然そういう理由で日本に来ているのでジョンは日本語を勉強していた  毎日ジョンとコミュニケーションをとっているうちに 僕も英語を習いたくなってきた
そしてこんな事をふっと考えた・・・

「もし・・ もし僕が将来・・ Keith Richardsに会うことができるような事があって・・ で・・ もしその時に話をしたりする機会があったりして それで・・ もし何も自分の意思を伝える事が出来なかったら 僕はその後の人生をそれは死ぬほど後悔しながら過ごす事になるだろう・・・」  って
“もし” ばっかりで ありえない話だけど・・ ふっとそんな事を ちっと本気で考えた 僕が22歳の時だ

次の日から僕はジョンには英語しか話さない事に決めた  もちろん英会話なんか出来なかったから 知ってるビートルズの歌詞を引用したりしながら何とか会話をしていた (というか、しているつもりだった・・・)その日から毎日 家に帰ると “いますぐ出来る英会話” みたいな本からいくつか例文を見つけては 次の日に仕事の内容とは関係なくても その “例文” を話した ジョンも頑固な奴で 僕に対しては初めから日本語しか話さない     僕のヘタな英語の質問 にジョンのヘタな日本語が答える といったストレンジな会話の日々が続いた・・・
休憩の時間には音楽の話を積極的にするようにしていた それが僕が一番話しやすい内容の会話だからだ イギリスのロックは当時の僕にとって もう人生そのものだったから・・ イギリス人にイギリスの音楽の話を “英語” でしている自分がとにかく嬉しくて 好きな音楽を片っ端から録音しては仕事しながら聴かせていた

The Beatles , Rolling Stones , The Who , The Kinks , Faces  その他    もう沢山

ジョンはどれも好きでないとあっさり言った イギリス人がビートルズ や  ストーンズを嫌いだなんて信じられなかった
そんなある日「本物のブリティシュ・ミュージックを聴かせてあげましょう」ってヘタくそな日本語で ジョンが聴かせてくれたのは Steeleye Span と The Pentangle だった  どちらも聞いた事のない名前だったけど  本当に素晴らしい音楽だった! 特に Steeleye Span の曲の作り方には凄い影響を受けた  まあ 何はともあれそんなストレンジな会話の日々が半年間続いた
ある日 何の話をしていたのかは忘れてしまったけれどジョンが突然僕に本物の英語で話しかけてくれた  僕は心のなかで「勝った!」って思った その日からジョンと僕の公用語は “英語” になった  その頃から僕の英語は本当に急速に上達していった                     何かをずっと続けていると “桶の底がぬけて 一気に水が流れ出す” ような時が人間にはあるような気がする・・・
ある日 突然自分の中でいろんな事が変わるんだ だから地味でもあきらめずに何かを信じ 続ける事は大切で “継続は力” なのだ バカボンのパパじゃないけど  “これでいいのだ!”

B社にはジョンの他にも変な外人がいっぱいいて 彼らの強烈な影響のせいでで20代の僕はそれまでの物の考え方が知らないうちに歪んでしまい  気が付いたら今の変な性格が出来上がっていた

章 3

自分を元気づけることもままならないのに 他人を元気づけようとするなんておこがましい事だ でも 出来るわけないって最初から決めてしまう人間にもなりたくない
だから・・ とりあえずやってみることだ やらないよりはずっとマシだ

秋雪-2004年
2004年の春に 再び秋雪から予期していなかったメールが届いた    今度は喉頭がんが見つかったという・・                半年前はあんなに逞しかったのに

「下喉頭部 ステージⅢの進行がん」「頸部リンパ節への転移」と現状を 正確に教えてくれるメールにはいつも「毎度!」ってタイトルがつけられていた・・
あらゆる可能性を模索した上で 秋雪はまたも難しい外科手術に挑戦するとメールで伝えてきた しかし今度は声帯をも取ってしまうので 術後は声が出せなくなってしまう
メールには手術の日 と 病室 と 電話番号 が書いてあった・・

僕は本当に悩んだ

あの悪運の強いバカ野郎の事だ 手術なんか成功するに決まってる
術後はインターネットの画像で筆談も出来るし 機械を使って話すこともできるけど「何かダースベーダーみたいだな」ってメールに書いてあった・・

悩んだ末 電話はかけないことにした
今は 術後の将来を考えていればいいではないか? ヘタレの俺がヘタに電話して彼にしみったれた声を聞かせたら 秋雪も手術に向かいづらいだろうって勝手に判断していた

だが 手術の前日 やっぱり僕は電話しちゃった 気がついたら 携帯から病院に電話していたって感じだった 初めに看護婦さんが出て 「誰それ  さんって 入院してますか?」って 訊いたら 「はい 失礼ですけど どちら様でしょうか?」と聞かれたので 「スズキといいます   いやっ また掛けます」って言って思わず切っちゃった  5分後 秋雪から携帯に電話があった!

奴の張りのある声が僕を安心させてくれた               まったくどっちが具合悪いんだよ・・
普通に話した・・ 何分間か・・                   今まで何度も聞いてきた声はいつもより本当に弾んでいた

電話のあとに 泣いてしまった・・                  必ず奴は還ってくる いつものように・・               でも彼の声をもう2度と聞くことはできない

再び かくして 秋雪は強靭な生命力で手術を乗り越えた  でも前回と違って僕は喜んでばかりいられなかった 今度 秋雪と会うとき 奴の言葉は筆談だ・・ 俺も筆談にした方がいいのか? とか思ったり 訳が分からなくなっていた

世の中って良いことばっかり起きるとは限らないんだって 神様を恨んだのは次に秋雪に会った時だった
“逞しい” どころか 痩せてしまっていて「食べるということが難しい」と  いう事を字で書いて教えてくれた 話すという機能を失ってしまった 秋雪  でもこのまま 彼にはそれなりの平和な生活がずーっと続いていくんだろうって信じていた

努力するちから
あの悪運の強い人間はあきらめるという事を決してしなかった 姿を変えて何度も襲いかかってくるがんという病魔に いつも勝利してきた秋雪は僕にいつだって「頑張れば 何とかなる」って伝えてくれていた  けれども 2004年 秋 三度目のがんは奴の頭蓋底を襲った 頭部の真ん中あたりに6cmくらいのがんがあるという・・   今度は外科手術は難しい      ガンマ・ナイフという放射線を使った切除方法があるけど それもこの大きさになると難しいと説明してくれた  こうも人間は淡々と物騒な話しができるものだと あらためて秋雪の人間としての強さと冷静さに驚きながら 僕はただ何かを喋っている事しか出来なかった 

奴のターミナル・ケアなんて考えたくもないし 考えられない       実際に何も理解ができないまま 見舞いに訪れたその夜に2人で再会を祝って 僕は焼酎を飲み 秋雪は舐めた というか鼻と口を手で塞いで息を送り込んで 含んだ酒を無理やり喉に流し込んでいた  何とも痛々しい光景だったけど 彼の生きようと努力する姿勢に胸をうたれた
その夜 僕は ただの酔っ払いだった   無力だった

そしてそれが 生きている秋雪との 最後の酒となってしまった 

別れ-それから・・・
2004年11月7日 秋雪のお姉さんから連絡が入った
とにかく 仕事から何から全部キャンセルして大阪へ向かった

新幹線は遅かった・・・
秋雪は9月に会って以降 僕がメールを書いても 郵便を送っても返事をくれなかった
僕にはそれが 彼の生きようとするプライドなんだと自分なりに勝手に解釈していたが 今考えると秋雪はゆっくりと自分の死にむかって準備をしていたんだろうと思う

人は元気なときには周りに自然と人が寄ってくる でも凹んでいるときは 自然とひとりぼっちになってしまうもんだ 
人が本当にダメな時 そんな時にこそ わざわざ傍にきてくれる人
秋雪はそういう人間だった

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他人の痛みは分からない  
友よ さぞかし辛かったろう? よく何度も頑張ったね?
俺はあなたの勇気と努力するちからに敬意を表します
あなたの事を見てきたから 俺は自分の手術に向かう事ができたんです
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秋雪の闘病をずっと傍で過ごした お姉さんから聴かせてもらった話だと 
彼の最期の時間は 側にいて 昏睡状態の彼にずっと音楽を聴かせてあげていたという
夜中に Rolling Stones の音楽を聴いて 眠りながら秋雪は涙を流したという 
そして その日の明け方に彼は旅立っていった

通夜の前日 バカ学友K や お姉さんと夜中まで徹底的に呑んだあくる日 お姉さんからいただいた最近の「秋雪の写真」を胸に入れて京都に行った 通夜までには随分時間がある 
行き先は決めていた 龍安寺だ  10月に一緒に行こうと誘ったけど彼の体調がすぐれず 実現しなかった約束だった  秋雪が好きだった京都は その日 紅葉が本当に綺麗で 最悪の気分にならないように 二日酔いの僕をなぐさめてくれているかのようだった  庭石を見ていて                        “彼がここに居るって”  感じていた

葬式の時 僕がいちばん辛いと思うのは お棺に花を入れて故人とお別れをする時だ  この時間がもっと続いていてほしいのか、早く過ぎてほしいのか分からなくなる
出棺の前にお酒を飲ませてあげようという事になって 綿に含ませた酒を 秋雪の口に吸い込ませていたら  お姉さんが「そんなのじゃ駄目!」って叫んで 一升瓶を手にとって棺桶の中にぶっ掛けた           それは 何とも素晴らしい光景だった

秋雪が霊柩車に運び込まれる時に Keith Richards の「 You should not take it so hard 」を流していた  「あんまり難しく考えるなよな」って奴らしいよな~って 思ってたら 曲が終わるのと同時に霊柩車の扉も閉められた

火葬が終わり 家に戻ってしばらく呆然と時間を浪費しているうちに   バカ学友Kと「秋雪の骨の一部を 海に撒きに行こうではないか」ということになった  秋雪は 海が好きで 最近はよくサーフィンやったりダイビングやったりしていた でも2回目の手術で喉の下あたりに気道の “穴” をあけていたので もう海は無理だった 
近くの湾まで行き 骨を取り出して眺めているうちに 自然と口から言葉がすべり出てきた         「おい 骨 食べようぜ」
学友は「イヤや お前食え 俺はええ もしお前が食わへんのやったら  俺が食う・・」
「じゃあ」と言って一口いただいた友の味は 苦くて 不味かった
学友は「お前   ヤクザが 仇打ち誓ってるみたいやんけ」って言って笑ってた 学友とは20年以上の付き合いだが このとき初めて “こいつ良いやつだな” って思った

秋の海風がここち良かった
海に骨を撒いたら 今まで静かだった湾のあちこちから 泡ボコ が出てきた 
不思議な光景だった


葬式の後 その日の夜行バスで大阪を発った
東京に戻った僕は すぐに仕事に復帰した 何もしたくなかったけど そうしたら頭が変になってしまいそうだった 今日からは お姉さん も 学友K も いない・・・  悲しみを共有する人がいるってありがたい事なんだ
仕事に復帰したのはいいが どうも気持ちが落ち着かない 何をやっていてもイライラする 仕事上の人とのお付き合いなのに 知らないうちに   「なんで秋雪みたいな良いやつが死んで お前みたいなのが生きてるんだよ」 って頭のなかで考えてしまう
悪い事だって分かっていながら  のべつまくなしに 他人に八つ当たりしていた  その人たちには本当に悪いことをしたって思う

そんな風に自暴自棄になっていた日々のある夜   不思議な事が起きた
夜中の3時に何かの “音” で目が覚めた 電気をつけて部屋を見まわすと部屋の隅に放ってあったコンビニの袋が ガサガサいっている・・・      虫でも入っているのかと思って中を覗いたけど何もはいっていない・・・ 部屋の真ん中に袋を持ってきて ベッドの上に座りながら音のする袋をずっと眺めていた  11月中旬のおだやかな気候での出来事 それは不思議と怖くはなかった そして10分ぐらい経ったろうか・・ 自然に音が止んだ

「さて 寝るか」と一人ごちて 眠った     そして  "凄い夢"  を見た

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秋雪が本当に穏やかな顔で 僕に話しかけている

「お前 仕事はちゃんとしないとダメだぞ 俺の事を考えてくれるのはあり                  がたいけど それで他人にあたるのはよくないだろ」

「見てくれ 今の俺は空も飛べるし 海にも潜れるし 大地も駆け巡れるん  だ 俺は今までで一番自由なんだよ」

「だから 普通に仕事をして 幸せな生活を送ってくれ - それが俺の望みだよ」
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その朝 目が覚めた時は何ともいえない温かい気持ちで 夢のことを想い出していた    あんなにリアルな夢は見たことがない

僕は天国にいる秋雪にむかって 声 に出して言った

「今日から俺は前向きに生きていく 頑張るよ 俺の身体の中にはお前の骨がある だから これから俺の人生で起きる いろんな事を 一緒に経験していこうな  何かスケベな事でもあったら  その時は一緒に楽しもう!    俺 それでいいんだよな?」

二日酔いではあったけど 実に清々しい朝だった



*****   音楽小説   -   heart beat   へ続く  *****


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