恋愛小説 - Coincidence
絶望に出会った
その絶望を受け入れ 乗り越えようと考えた
頑張って生きていたら 幸運に出会った
人生は何処でつまづき 何処で起き上がるか分からない
「お先真っ暗」と云うが だから面白いのだと思う
章 1
Madison Square Garden
2012年12月12日 僕はニューヨークのMSGに居た
「12・12・12」というハリケーン・サンディの被害を救済するべく
ミュージシャン達が集まったチャリティー・コンサートを観るために
ポール・マッカートニーはもう10年前に日本に来て以来観ていない
ストーンズは2006年にキースに逢えた時から6年観ていない
ブルース・スプリングスティーンは一度も観た事が無い
エリック・クラプトンはジョージ・ハリスンが1991年に来日した時以来だ
その他 ザ・フー / ロジャー・ウォーターズ 等 錚々たるメンバーが集ったイベントだ
ニューヨークも初めて そして憧れのMSGも初めて MSGと言えば 僕にとっては ボブ・バックランドだ! ニューヨークの帝王と称された 天才プロレスラー MSGの中には輪状の通路があって そこに過去の色々なイベントの写真が飾ってある プロレス も ロック も 全部僕の憧れが詰まった写真展を コンサートが始まる直前まで じっくりと観て回った
コンサートは午後7時ジャストに始まった
オープニングはブルース・スプリングスティーン
客電が落ちて 会場が真っ暗になり ブルースが「1・2・3・4」とカウントを取って曲が始まる この「1・2・3・4」の掛け声だけでMSGは地面から突き上げられるのだ これがブルース・スプリングスティーンの破壊力か と感じざるを得ない瞬間だった
エリック・クラプトンは スティーブ・ジョーダンとウイリー・ウィークスという手練れのリズム隊を引き連れて それは見事な ブルースを演奏してくれた
ジミー・ファーロン が登場した 「ずっとこのセリフを言ってみたかった」 と一言 「Ladies & Gentlemen - The Rolling Stones !」 この時 凄まじい歓声と共に 本当に MSGが ボワっと 膨れ上がった瞬間を観た ストーンズは 約6年のブランクを全く感じさせない 凄まじいパワーで 暴れまくって 2曲だけ演奏して 去って行った まさに強烈だった
「Jumpin’ Jack Flash」での チャーリー・ワッツ の バスドラムは MSGの天井が落ちて来るのではないかと 心配するくらい 激しいビートだった
さて コンサートも終わりに近いだろうと思われる深夜12時を過ぎた
まだ ポールが出て来ない
僕は 出演者全員も その順番も 把握していない
飛行機では 興奮してあまり寝てない 空港からMSGへのタクシーで1時間くらい寝ただけだ やばい 完全に 眠くなってきた・・・
きつめの酒を あおって 気合いを入れようと ウイスキーのストレート
を バーで頼んだら パスポートを見せろと言ってきた
「俺が19歳に見えるのか?」と言ったら 笑ってたけど ニューヨークは
深夜の酒には厳しいみたいだ・・
ポール・マッカートニーの演奏が始まって 眠気は吹っ飛んだ
「Helter Skelter」をいきなり かましてきた 「1985」は何度も 何度も聴いた WINGS 時代の名曲だ
そして 何と 亡きカート・コバーンの替わりにポールがギターを弾き
ニルヴァーナを再結成させたのだ でもこの時間帯になったら 客がパラパラ帰り始めて アリーナは半分ぐらいの人数になってしまった・・ 最終電車の事情なんだろうけど 勿体ないなぁ・・・ そして大好きな「I'vs Got a Feeling」も演奏してくれた もう涙で ぐしゃぐしゃ だ・・
最後の「Live and Let Die」 では花火は上げるは 炎は焚くは MSGは屋内なのにこんなのありか? って まさに度肝を抜かれた 煙まみれになったMSGでトリを アリシア・キーズ に任せた ポールには これまでに無く貫禄を感じた ポール・マッカートニー という音楽家の実力に 真に魅せられた 感激だった 本当に 来て良かった !
このコンサートを観るために わざわざニューヨークまで来たのには理由がある
前年の 2011年4月に 食道がんの手術を受けた
手術は上手くいった でも この “がん” という病気の厄介なところは
“再発” という恐怖が 術後いつまでも脳裏をかすめるという事だ
もし再発したら もう ストーンズ にも ポール にも逢えないかも知れない・・・
彼等も歳だし そのうち誰かが死んでしまうかも知れない
それなら こっちから会いに行こう! 奴らが死ぬか? 俺が死ぬか? だ
そして この時 僕は独りではなかった
前兆 よく他人から ”病気” の前兆はなかったか? と訊かれるけれど
強いて 思い出してみても 胸やけがあったくらいだった
あとひとつは飲食物の味だ
当時僕は毎週日曜日に居合の稽古をしていた 稽古の後で のどの渇きを我慢して帰って来て 家の近くの韓国料理屋で ゴクゴクッ と飲む 良く冷えた 梨サワーの味は本当に美味しかった 夏場となればまた格別だ
あの年の 夏の ある日の日曜日 稽古の帰りにいつものように飲んだ梨サワーは美味しくなかった・・・ 何か別物の味がした
闘病中に “がん” を経験したいろんな人物の本を 片っ端から読みまくった
そのうちの何名かが この飲食物の味の違いの事を書いていた
特に消化器系(極論すると口から肛門までの管)に発生するがんには この味の変化が感じられる場合があるように思う この事があってから僕は日頃から 好きなものの味には 関心を持つように心がけている
逆流性食道炎
2010年の秋頃 何か胸やけの痛みが強くて病院を受診した
以前勤めていた会社の近くに 新橋○○クリニックという とても変テコな病院があって ここは一度医師に診てもらい こういう薬を処方してくださいと言うと その通りに薬をくれて 次回からは診察券だけで 同じ薬を出してくれる ある意味危ないけれど 非常に便利だ
僕は以前 心療内科で処方してもらっていた「ソラナックス」という薬をずっと ここで買っていた
ちなみにこの病院は 午後4時くらいになると明らかに水商売風の女性たちで混み合う 彼女たちは皆「プラセンタ」とか「コラーゲン」とかいった美のエキスをここで点滴してから 夜の蝶に変貌をとげ 銀座界隈に出勤するのだ 中には全然効果が出てないと 一目でわかる人もいたが 僕は敢えて進言するようなことはしなかった(当たり前だ)
この病院の医師の診断は「逆流性食道炎」というもので 当時TVのCMでも聞き覚えのある病名だった 早速薬を処方してもらう プロトン・ポンプ・インヒビター(PPI)という 逆流する胃液を 水道の蛇口を締めるみたいに止める薬で効果は覿面だった 2週間ほど胸やけの無い生活を送る 薬が切れると胸やけが再開する そしてまた薬をもらいに行くといったことを 3回ほど繰り返したがどうも症状が 前より悪くなってる気がして再度同じ医師に診てもらった
医師は「胃カメラ検査をやってみて下さい」と言った 絶対にイヤだ! あんなオットセイをいじめているような格好で 唾液を垂らしながら拷問を受けるのはイヤだ
おまけに僕は迷走神経チャンピオンで 子供の頃からすぐにえずく ヨードチンキを喉に塗られただけで30分くらい泣いてたものだ 僕はこの時49歳でいままで胃カメラというものを経験したことがなかったその事を医師に伝えると「そうであれば絶対に検査を受けて下さい これは医者としてのお願いです」と言われた “お願い” という言葉をその医師は使った
その医師の知り合いの医師のいる病院では胃カメラ検査を鎮静剤を使ってやるという 大体は被検者は眠ってしまうので何の不快感もないという・・・
仕方なくその病院を受診予約して 胃カメラ検査を受けることにした
食道がん 果たして 胃カメラ検査は本当にキツかった 鎮静剤は酒飲みの僕には効きが弱く 顔にある耳以外の穴 口からはゲーゲーと唾液が 鼻からは鼻水が 目からは涙が溢れるように出た 苦しさにもがいている最中に胃カメラを 操作している医師が何かを「つまむ」という言葉を発したような気がした
検査が終わり後から効いてきた鎮静剤のだるさと検査後の疲労でとなりの部屋で30分くらい横になっていた 医師から呼ばれて診察室に戻ると パソコンのスクリーンにはある画像が映されていた
それは丸いコブのような肉塊で 画像の真ん中に堂々と居座っていた 「これは何ですか?」と訊くと医師はいともあっさりと 「癌ですね」と言った
あまりにあっさり言われたのでさほど驚けなかった 「ポリープとかではないのですか?」と聞き返すと医師は淡々と 「ポリープは もっと 何というか 可愛いものです このみてくれはまず間違いなく癌です 先程組織を取りましたから生検に廻します 1週間後にまた来てください その時に結果をお伝えします」と一気にまとめてきた そうか “つまむ” というのは生検 (バイオプシー)の事だったのか・・ 背中を丸めてトボトボと病院を出た
1週間は 何とも長く 面白くない日々だった
1週間後約束通り病院を訪れた 生検の結果は食道に出来た癌だった
医師は「これからいろいろと大変でしょうけど 気を落とさずに頑張って下さいね」とごく当たり前の事を すごく哀れみを込めた目つきで言った あの目は忘れない 僕は人生であんなに 他人に哀れみの目を向けられた事が無かった ひどく惨めで寂しい気持ちになった 会計を済ませて病院のドアを後ろ足で蹴って閉めた 街は週末のクリスマスモードで賑わいを見せていたが 僕の目には灰色の空しか入ってこなかった
高山 先生
話は約3ヶ月程前に遡る
30年ぶりとなる高校の同窓会が催される事になった 高校を出て30年だ当時19歳の同級生は49歳になってるわけだ 最初はこの同窓会には出席しないと心に決めていた そんな30年も前の事を懐かしんで酒を酌み交わす時間があったら 何か違うことをやっていたい 今が楽しいんだから今を生きるべきだ・・ などと生意気に独りで考えていた
友人 H という その頃でもたまに連絡をとる数少ない高校の旧友がいた その彼が何故か本当に熱心に僕を同窓会に誘うのであった 最初は断った 嘘を言って都合が合わないと断った それでも H は誘い続けてくれた しまいには高校の頃 好きだった女の子の当時の白黒写真を送ってきて誘って来た バカな僕はその写真を見た瞬間 何故か胸がキュンとしてしまって 結局同窓会に出席する事にした(本当にバカだ・・・)
いきなり同窓会に行くのは恥ずかしいので居酒屋で少し飲んでから行くことにした そこでまた H は何の脈略もなしに「スズキさー 高山 って覚えてる? あいつ今偉いんだぜ ** がん研究センターの医長やってるんだよ」と言って来た
僕らの高校は3年間クラスの変更が無く 1年生から3年生まで同じ連中が同級生なので覚えてない人物はまずいない でも 高山とは3年間で多分合計30分も会話をしていないと思う 僕は授業サボってばかりいたけど 高山 は全然反対の真面目な生徒だったから接点がほぼ全く無かった
「そうか~ そんな偉い先生になったんだ あいつ頭良かったし真面目だったからな」 何故 H がこの時 他の同窓生の事には何も触れずに 高山の現在の職業の話をしたのかは謎である が しかしこの事は後に僕にとって大きな意味を持つ事になる
同窓会は僕の予想に反してすごく楽しいものだった 当時好きだった “女の子” とも話したし ラグビー部の連中にも久しぶりに会えた 昔バンドを組んでた連中とも酒を酌み交わし当時の音楽の話で盛り上がった
すっかり酔っ払って一人大騒ぎしていた記憶があるけど どうやって家に帰ったかは覚えていない・・・ 「またバカやっちまったか~」と思いながら朝起きてポケットを探るとそこには名刺が一枚入っていた 「** がんセンター 医長 高山 」とあった そうか夕べ 高山 に名刺もらったんだ・・・
今までの自分と決別
灰色の空を見上げながらこれからどうするか考えた
いままで僕は “健常者” と “がん患者” の間にある大きな “壁” の安全な側の地域に住む人間だった それがほんの5分位の短い時間で “壁" を乗り越えて危険な側の地域に住む人間となってしまった この例えが当時の僕の気持ちを素直に表した言葉だと思う 現在の日本人(日本人のみに限らない事かも知れないが)はとりわけ “がん” という病気を特別視するように思う かつての僕もそうだったように “がん患者” に特別なレッテルを貼ってしまう “がん患者” と自分は違う人間だと考えてしまう しかし突然 “がん患者” になってみると今までの考え方を覆す必要が出て来る 僕が灰色の空を見ながら最初に考えたのはこの事だった “がん患者” とかつての僕は決して違う人間ではなく 安全な地域と危険な地域を隔てていると思っていた大きな “壁” など存在しない
僕はそこら辺に転がっていた小石にちょっと躓いて自分が “壁” だと思っていたものを簡単に乗り越えてしまっていただけだ
さてと 今から僕はがん患者だ 今何ができる?
取り敢えず 高山 に相談しよう
名刺の電話番号に電話すると 高山 が出た 先日の無礼を詫びた後 現状を説明したら休み明けの月曜日の朝にがんセンターの食道外科を訪ねてくるように言ってくれた ありがたかった 高校時代には殆ど会話もしなかった旧友に本当に感謝した さてと 取り敢えず今できることはやった あとはジタバタしても仕方がない
ふと思い出して 秋雪のお姉さんに電話して 今自分に起きている事を説明した
お姉さんはたいそう驚いていた 取り乱した口調で「あんたたちね~ いくら仲が良かったからって 何も同じ病気になる事ないじゃないのよ まったく」と嘆きつつも 同情の言葉を向けてくれた
そうだった
この時まで “がん” という言葉に捕らわれ過ぎていて自分が秋雪の命を奪った食道がんに罹患したのだという事実を考えないでいた
灰色の空を仰いで心の中で言った 「秋雪よ 俺はこの病気治すからな そっちからも力を貸してくれ 決して俺をそっちに呼ばないでくれ・・・ これだけは本当に頼んだぜ そっちに呼んだら もう口利かないからな」
冗談のようだが 本気で祈った
お姉さんが秋雪の闘病時の経過や 病院の情報などをメールでたくさん送り始めてくれた 僕にとってはありがたい作戦参謀だった
本屋で一番新しい「がんになったら読む本」のようなものを購入して家に帰った
週末はがんの勉強をして過ごそう
新出 先生
月曜日 朝早く目が覚めてがんセンターに向かった
この日の朝の事はよく覚えている 初めて見る「** がんセンター病院」は茶色を基調としたとても立派な病院で 当たり前だが “がん” に罹った人かその疑いのある人しか来ない病院だ それまで自分とは縁がないと思い込んでいた “がん” の検査や治療を専門とする病院の入り口は外から見ると重い扉がある修行道場の玄関のようだった 週末には考えないようにしていた - 本には書かれていない - 本物の現実が僕の両肩に重くのしかかった
暗い気持ちになった
食道外科に行くとそこには初対面の 新出 先生と 高山 先生 が待っていた
新出 先生は食道外科の医長で 呼吸器科の医長である 高山 先生 とは同列の医師だった 新出 先生はその場でいろいろな部署に電話をかけてまずは内視鏡検査をその日にアレンジしてくれた
またあのオットセイの拷問か~ と嘆きつつも検査を受けてみると事前の「鎮静剤」が良く効いてこれがあまり不快ではなかった 内視鏡も扱う人間が違うとこんなにも楽なものか?
新出 先生の部屋に呼ばれると内視鏡検査の映像を見せてくれた 2度目の出会いとなる僕の食道がん 大きさは直径2.8cmくらいだという それが大きいものなのか どうなのか僕には分からないが 小さくはないというのは素人の目にも明らかだった 高山 先生もやって来て2人の医師が僕の食道がんの映像を 何やら真剣な顔をしてのぞき込んでいた その2人の表情から事態がかなり深刻である事が分かる
後から調べて分かった事だが 人間の食道は他の臓器に比べ壁が薄く出来ている そのため他のがんに比べ壁を突き破ってがん細胞が体内へ侵入しやすい 壁の外にはリンパ液が流れているからそこを伝って体内に広がっていくこれを浸潤という がん細胞が浸潤して他の臓器に到達してそこで増殖し始めればがんの転移となる
僕の食道がんは臓器の外側(人間を口から肛門まで繋がった穴の開いた ちくわのような物体と考えると内視鏡で見える部分は身体の外側になる) に2.8cmもあるわけだから反対側にも2.8cm成長していたら確実にその時点でがん細胞は浸潤 → 他臓器への転移を果たしていることになる・・
この事を確認するために次の検査 CTスキャンをやはりその日のうちに受けた 結果 僕の食道がんはラッキーな事に体内に浸潤していないだろうという事になった 新出 先生は僕にこれなら手術で取り除けるだろうと言ってくれた そしてもうひとつビックリする事を言った
この日に受けた血液検査の結果 僕のガンマGTPの数値は1200を超え肝機能はかなり悪かった 思えばここ数ヶ月あまり良くない酒の飲み方をしていた
この事はまた書くが とにかく飲み過ぎてたし食道がんの原因の一つが飲酒である事も知っていた 酒はやめなくてはいけないなと思っていた
新出 先生は僕を正面から見て 力強い目をしながらこう言ったんだ
「スズキさんお酒やめなくていいからね」
「えっ マジですか?」
僕は思わず大きな声で訊いてしまった
普通医者という人種は患者を戒める これはダメ あれはダメと制限をかけたがる 僕が何も言ってないのに 唐突に先生は酒の話を(その事だけを)言って来たのだ 先生曰く僕のような酒バカ人間を長年診てきたという そして酒をやめた人間もたくさん見てきたという それで長年の経験からの先生の自論は 食道がんに罹患した患者は酒をやめても やめなくてもがんが再発する可能性は同じだと言うのである なる人はなる ならない人はならない だから酒をやめて元気が無くなるのだったら むしろ酒を飲んだ方が良いというのだ
これにはシビれた!
粋だ こんな医者にはなかなかお目にかかれない
今朝 暗い気持ちでうなだれながらくぐった修行道場の玄関を ガッツポーズの拳を服の下に隠して握りしめながら出た 夕暮れの空は綺麗だった
何故がんになったか?
新出 先生が言うには僕のがんが成長を始めたのはだいたい6カ月前くらいだという事だった がんのプロはその姿を観るだけでだいたいの年齢が判るらしい 6ヵ月前・・・ 2010年6月・・・
この頃僕はいろんな困難と直面していた
勤めていた会社の社長と揉めていた この社長は僕が心臓手術を受けた後 なかなか新しい仕事が見つからない時期に僕に声をかけてくれて雇ってくれた 言ってみれば恩人だ 僕の仕事の業界では有名な人で 僕も10年近くお世話になっていた人だ 何と言うか怖かった 会社に行くのが怖くて携帯電話を眺めながら会社の近くの公園でハトに餌をやって過ごす日が何日かあったりした そんな社長が突然会社を辞めた
すると 僕の仕事上での責任が一気に重くなった こういう突然の組織変更は外資系の会社には珍しい事では無いし いろんな会社を渡り歩いて来て変化に対する順応性には生意気な自信を持ってたけれど この変化のマグニチュードは凄まじいもので 僕の人生でも最大の揺れだった そしてこの揺れはストレスとなって内臓に向かってたんだと思う がんに罹患したと分かった時 あーこれでこの仕事から離れられると思ったのも事実だ それくらい この頃の僕の仕事は精神的にキツかった・・
それからこの頃の僕は 恋愛乞食状態になっていた
その年のバレンタインデーに4年間(も・・・)片思いしていた女性にガッツりフラれて身も心もボロボロになって今思うと誰でも良いから恋人が欲しかったんだな あれは・・・ なんとも悲しくて 寂しくて 空しくて
キャバクラのおねえちゃんに本気で入れ込んで同伴デートを繰り返したり
30歳も年下の娘を好きになり泥酔した挙句に「結婚してほしい」と言ったこともある もちろんキッチリと断られた
そして僕は命名するなら “恋愛不全症候群” とでもいう病気になっていた
実りもしない恋を繰り返し失敗し 大酒を飲んで どんどん不健康になっていった 恋愛の仕方が分からなくなっていた・・・
言ってみれば 行ってはいけない方向に舵を取っているのを 分かっていながら向きを変えられないジレンマに ある種の虚無感を感じてそれを紛らわすために大酒を飲んでいた
がんになる原因と言うと 遺伝 たばこや酒などの外因 などさまざまな要因が語られるがこと僕の場合に限って言えば 間違いなく ストレス と 酒 だ
がんに罹りたかったら大いにストレスを溜め込むことだ そしてそのストレスを誤魔化すために大酒を飲めばかなりの下準備が整うと思う 都合良くポジティブに考えれば あの頃のようには生きない事だ 運命をきちんと受け止めてそのプレッシャーを身体でまともに受けずに “ひょい” とかわせば良い
何事もあまり深刻に考えずに テキトーに生きることが大切だ そうすれば自ずと道は開けていくものだ - と今は思う
検査
最初のCT検査で大きながん細胞の転移が無い事は確認されたが それでも小さながん細胞のリンパ節等への転移に関してはまだ調べなくてはいけないこの年末の12月はがんセンターに通って小さな転移がんを見つけるためにいろんな検査を受けた
まずバリウム検査(あまり意味はない 医師も結果を重要視していない)
PET検査(がん細胞が普通の細胞よりブドウ糖を多く吸収する性質を利用してブドウ糖のような物質に放射性薬剤を取り込んだものを注射して全身をスキャンする するとブドウ糖薬剤を取り込んだがん細胞が他の細胞と違う色で映り出す)
このPET検査 じっとしているのが苦手な人間にはちっと拷問である 薬剤を注射してから全身に薬が行き届くまで1時間ほど居眠りしたり 本を読んだりして待機したあと 一見MRIやCTと同じような検査機に横たわる ここでMRIやCTと異なるのは手足を固定されることだ MRIもCTも基本は動いてはいけないが身体を拘束はしない・・・
PETは拘束する そしてその状態で約40分くらい身体を動かせない
「動くな」と言われるとつい動きたくなる僕みたいな人間はだいたいこういう時に鼻が痒くなる・・・ 検査前に技師さんに3回くらい鼻を掻いてもらってから検査は始まった
結果このPET検査も良く訊くと ある程度の大きさのがん細胞しか検知できない なので小さながんの転移細胞などは見逃す可能性があり 当時の僕の状況では役に立たなかった
しかし短期間の間に こういろんな検査を立て続けに受けているとそれだけで体力は消耗するし気力も萎えて来る・・・ でもこういう時にこそ頑張らなくてはいけないんだ 要は自分のために今出来ることは何か? そのことを常に自分に問いかけそして自分の出来るベストを尽くす それだけだと思う
次は超音波内視鏡(EUS)これは大きめの内視鏡を食道に入れた状態でそこから超音波を出して周辺組織の小さながん細胞の有無をエコー画像で捉えるものでこの検査によりリンパ節という全身を巡るリンパ管のところどころにある2-3mmの豆のような小体(非自己異物が血管系に入り込んで全身に循環してしまう前にチェックし免疫応答を発動して食い止める関所のような機能を持つ – Wikipedia)に小さながん細胞があるか判断できる
結果残念ながら僕の食道の外側のリンパ節に2カ所小さながんの転移が見つかった これはCTやPETでは発見できなかった小さなものだが 僕の食道がんは浸潤してリンパ管まで達していたことになり 原発巣(がんが最初に発生した場所の病巣)以外の場所に転移していた事になった ただ幸いリンパ節という関所に捕まっていた状態だった
これにより僕の食道がんのステージは最初は0-Ⅰと言われていたがここでⅠ-Ⅱという事になり治療方針が変わることになった
消化管内科
治療方針の変更とはどういう事かと言うと 最初の所見では外科手術だけでがんを除去するつもりだったのが この病院の治療方針でステージⅡレベルの転移が見つかった場合には外科手術を受ける前に抗がん剤治療や放射線治療を受けて 原発巣のがんと転移したがんを出来るだけ小さくしてから外科手術を行うという事になった
新出 先生は「桜の咲く時期にまたお会いしましょう」と言ってこの日から 僕は消化管内科での担当患者となった
この時点での僕の病気治療にはいくつか選択肢があって 外科手術の前に抗がん剤か放射線治療 もしくはその両方 もしくは外科手術をしない方針で抗がん剤と放射線治療を受ける このどれを選ぶかを今決めてほしいと言われた
現代の医療は医師任せではなく 全て自分で決めなくてはいけないのだという事をここで思い知った もちろん少し考える時間は頂けたと思うけど 考えても解決する問題でもないので 抗がん剤+放射線 → 外科手術の方針にすぐ決めた
秋雪のお姉さんにこの事を報告すると「全くあなたたち男の子は切った貼ったが好きよね」と言って電話口で苦笑いしていた
そのあと長いメールと 秋雪の2003年の治療方針(プロトコル)が送られてきた
原発巣のがんは秋雪の方が大きかったけれど 治療方針は僕のものとほぼ一緒だった
小澤征爾・桑田佳祐
2010年という年は僕の食道がんが見つかった年だったけど この年に食道がんに罹ったアーティストが2人いた
小澤征爾はその年の初めにがんが見つかり コンサート活動を一時休止 そして手術の後8月には活動を再開した この頃はまさか自分が同じ病気に罹患しているとは思いもしなかったが TVで復活した小澤征爾の姿を観て 老人だけど凄い逞しい人間だという印象を強く持った
桑田佳祐は7月にがんが見つかり8月に手術 そしてその年の大晦日の紅白歌合戦で元気な姿を見せた
抗がん剤+放射線 の治療開始を翌年の1月3日に控えた僕は強い期待を込めて紅白歌合戦の桑田佳祐を観た TVを食い入るように観た僕の眼に映った桑田佳祐は少し痩せて見えたけれどその歌声は相変わらず力強いものだった
とても とても 元気づけられた
あとから知ったことだけれど この紅白歌合戦はがんセンターの入院患者さん達が皆見ていたらしい あの放送は多くの食道がん患者 いや全てのがん患者を大いに元気づけたに違いない
章 2
抗がん剤 + 放射線治療
抗がん剤とはどういうものか? ナイトロジェンマスタードという戦争時にナチスが開発した化学兵器を抗がん剤として使用したのがその始まりらしい
人間や動物の細胞には アポトーシス(多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で 個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる 管理・調節された細胞の自殺 すなわちプログラムされた細胞死のこと – Wikipedia)という簡単に言うと自分の身体のために自分の細胞が自らで死んでいく性質がある
このアポトーシスが機能しなくなるのが “がん” という病気である
例えば植物の細胞には基本的にアポトーシスの機能が無い(例外はあるが)
なので動物や人間のようにある程度の大きさになるとその成長を止めて それ以上大きくならないということが 植物には起こらない
アポトーシスの機能がないので植物には “がん” という病気がない
そもそも植物は栄養が与えられ続けて 致命的な病気や災害に遭わなければ死なずにずっと生き続ける なので人間や動物も適切な栄養が与えられて病気や災害に遭わなければずっと生きられるはずらしい・・・ 僕の大学の時の先生がよく言っていたけれど「人間が必ず死ぬ」という事自体が大きな謎なのだそうだ でも もし 杉の大木のように3000年も生き続けていたらおそらく僕は頭がおかしくなるだろうと思う・・・
話が少しそれたが さて抗がん剤や放射線療法はこのアポトーシス機能を利用した人体全体作戦である ナイトロジェンマスタードは細胞を殺す化学兵器で放射線は熱も感じない目にも見えない 波長の短い光線で大きなエネルギーを持っていてやはり細胞を破壊する それらを正常な細胞とがん細胞に同時に与える がん細胞はそれらの能力が効けば死んでしまう でも同時に正常な細胞も死んでしまう ここでアポトーシス機能がものをいう
もともと自分から自滅するようにプログラムされている正常細胞達は死滅しても その仲間の細胞達によって再生できるようになる可能性がある
治療開始 2011年1月3日 いよいよ治療が開始された この時までは自分の身体の中にある “がん” が今どんな状態にあるのか? 前回の検査からかなり増殖しているのではないか? とかいろんな不安を抱えて過ごしていた
この日からは気分が違った やっと自分の身体のために前向きな事ができる
ただ膝を抱えてあーでもない こーでもないと考えなくてすむんだ
僕に処方された抗がん剤は5-フルオロウラシル(5-FU)とシスプラチン
この抗がん剤治療を約5日間連続で24時間点滴しながら病院で生活する 同時に放射線治療も開始した これは合計42グレイの放射線量を約5週間に分けてほぼ毎日浴びる 放射線は熱くも痛くもないが この42グレイを一度に浴びたら即死するらしい・・ 何か 毎日放射能温泉に通っているようで 自分がゴジラになったような気分だった
がんセンターにはたくさんの “がん” に関する書籍がある 入院中はヒマなので毎日本を読んだ 何かの本で人間の細胞分裂の周期に関することが書いてあって 胃腸の細胞は数日で入れ替わるという内容があった またがん細胞は通常の細胞より分裂・増殖のスピードが早いという事を聞かされていた ということはこの5日間の抗がん剤治療中に分裂するがん細胞はたくさんあるわけだ この事を知ってからは 毎日抗がん剤の点滴の管を見つめながら「がん細胞よー これを取り込めー これを取り込めー」と心の中で念じていた
抗がん剤の副作用は 吐き気 や 脱毛 が有名だが僕は不思議な事にどちらにも悩まされなかった 吐き気は一度も感じなかったし 脱毛も目立っては起こらなかった また抗がん剤にはある種のステロイドが入っているらしく治療中は妙に “ハイ” で午後になると ほぼ毎日来てくれる お見舞いの人達と楽しくお話が出来た 同じ部屋で抗がん剤治療を受けている人の中にはほぼ一日中横になってる人もいたので 自分の元気さが不思議で仕方がなかった
退院~2回目の抗がん剤治療
1回目の抗がん剤治療は1月の初旬に終わり 一時退院して比較的おとなしく生活していた というのは抗がん剤の影響で白血球の値が7000から1500くらいに落ちていてこの状態だと風邪などの感染症を起こしやすいので外出は控えろと内科の医師から言われたからだ
何日かはおとなしく家で映画を観たり本を読んだりしていたが どうも自分では元気なつもりなので動きたくなってくる
この頃放射線治療の副作用は徐々に出始めていて 何かが食道を通過すると痛い ある時寿司を何気なく食べたら 醤油が沁みて悶えるように痛む
医師曰く放射線が効き始めていてがん細胞がはがれ始めているという・・・
医師に鎮痛剤をお願いしたら 何とモルヒネ薬を処方してくれた
モルヒネだ ! ストーンズがやってたやつだ Sister Morphine って曲もあったな・・・ がん患者にだって楽しむ権利はある これを利用しない手はないぜ !
街へでかけた-
医師は「この薬は痛みのない時は絶対に服用しないで下さいね」と言ったが僕の場合は飲食をしない限り痛みはないので もちろん痛みのない時に服用した
渋谷 や 新宿 にこの状態でよく出かけた 陶酔感があって何か楽しい
普段はあまり行かないようなアクセサリーのお店で物を見てると 綺麗で楽しい
この時は自分が “がん” の治療中だなんて事を完全に忘れていた
ちょっとしたトリップだったな・・・ しかしふざけた患者だ
2回目の入院抗がん剤治療は2月の初旬から始まった
この時医師の判断で抗がん剤の量を前回の半分にされた 僕としては前回は副作用もなく特に苦しい治療では無いので 予定のプロトコル通りの量で治療してほしいと訴えたが 件の白血球の数値が上がって来てなく(数値が1000を切るととても危ないらしい)この状態で抗がん剤を前回と同量投与するのは危険だという事だった
5日間はすぐに過ぎた 2回目の入院も不思議なくらい苦痛が無く朝は早く起きて喫茶室で抗がん剤点滴を付けたままスクワットをやり 昼間はお見舞いの人達と楽しく話をして過ごした
この頃は放射線の副作用で 食道の痛みがピークで水を飲んでも痛かった
さて退院して昼間はトリップ散歩で楽しいが 夜が何とも暇だった
ある夜 ほんの思いつきで 焼酎を牛乳で割ったものにロックアイスを入れて飲んでみた これが美味い! それに全然痛くない 今まではどんな液体を飲んでも何かしらの痛みがあったのだけど このミルク焼酎は全然痛くなくておまけにすごく美味い! この頃の僕にとって 夜に飲むミルク焼酎は ほんの ささやかな幸せだった そして この物語を書いている今日まで 僕のミルク焼酎 習慣は続いている
Complete Remission
2回の抗がん剤入院治療と 約40日間の放射線治療をすべて終えてあとは3月に外科手術という予定になっていた僕は 3月の初めにがんセンターで久しぶりに内視鏡検査を受けた
結果を訊きにそれまで約2カ月間お世話になっていた 消化管内科の医師の部屋のドアを開けると 医師がものすごく嬉しそうな顔で 「スズキさん 結果CRですよ!」となかば 叫んだ CRの意味が分からず よく訪ねてみるとCRとはComplete Remission のことで日本語で言うと完全寛解-つまり “がん” が完全に無くなった状態だと言うのだ
正直に言って 抗がん剤の副作用が殆ど無かったのと 2回目の抗がん剤の量を半分に減らされた事で この抗がん剤・放射線治療はあまり効いていないのでは・・・ と思っていた 内科の医師も がんを根治する投与量ではないので がんが完全に消えているのは奇跡的だと言う 内視鏡の映像を自分でも見せてもらったが 3カ月前に2.8cmほどあった腫瘍が無くなっている コブのあった場所が平らになっている 数日後に原発巣あとの生検の結果も教えてもらったが これも陰性だった
今の状態だと僕は医学的に見て “がん患者” では無い事になる・・
外科の 新出 先生に約2カ月ぶりに会った 先生も結果に驚いていた
そして「手術しなくてもいいんじゃないの?」と言った
3月のどこかで手術をする予定になっていたが この時点で一度手術を保留にする事にした ところがその夜に 新出 先生から電話があった 先生曰く僕が手術を受けなくてもいいのでは という旨の事を医師間の会議で発言したところ他のグループ つまり 内科と放射線科の偉い人たちから怒られたというのである がんセンターとしてのプロトコルは あくまで抗がん剤+放射線→ 外科手術だ 抗がん剤も放射線も根治目的で施した量ではないから見た目にがんが治って見えてもあくまで外科手術は予定通り行うべし という事だ
翌日 新出 先生を訪ねた 「いやぁ~ 怒られちゃってさー」と髪をかき上げて照れながら先生は言った この人は実に子供のような時があって 大好きな人物である 先生としては手術は受けなくても良いのではないか という自論は変わらなかった 2カ所のリンパ節に転移している がんの現在の状況について尋ねると 恐らく確認する術がないだろうと・・ あるかないか多分分からないだろうという事だった 手術をしないで数カ月に一度の頻度でCT検査を受け続けるという選択肢もある しかしその数カ月の間にがんが再発する可能性もあるという あくまで決定するのは患者である自分だと・・・
参った
こんな難しい事すぐには決められない
当時(今でも)医師の 近藤誠 が抗がん剤は効かない という内容の本を出していたが 抗がん剤は効くのだ 少なくとも僕の身体にはものの見事に効いた
放射線の効果もあったのだろうが 僕は今でもが抗がん剤を見つめながら「がん細胞よー これを取り込めー これを取り込めー」と念じたのが功を奏したと信じている 人間信じることは大切なのだ
CRの事を秋雪のお姉さんに報告すると 本当に自分の事のように喜んでくれた
秋雪の場合 手術前の抗がん剤+放射線治療では がんはほんの少ししか縮小しなかったらしい そして最近の病院でのやりとりを報告すると やはり 手術はしない方向を勧めてきた
秋雪を2度の過酷な手術の末に失っているお姉さんにとっては外科手術自体があまり信用できるものではなかったのかも知れない・・
それに秋雪が手術のあとの後遺症でどれだけ苦しんだかも身近で見てきただけにその意見はとても重く響いた
どうしようか思案にくれていたある日 あの大惨事が起きた
3月11日
この日僕は故郷の横須賀に居て亡父の墓参りに来ていた 父の墓前で今自分に起きていることを報告して お寺から帰ろうと車のハンドルを回していたらお寺の釣鐘が揺れているのを見て あれっ と思い車を降りると地面が揺れていた ラジオを点けると東北で地震があったという 横須賀はそんなに揺れなかったので 事の重大さは暫くしてから分かった 横須賀は地震の被害はほとんど無かったけれど夜中まで停電になった なので地震の情報は全部車のラジオで聞いた 津波の被害が凄いとラジオが伝えた
いろんな被害が分かったのは翌日のTVを観てからだった たくさんの人が亡くなって 行方不明の人もたくさんいる 想像を絶する被害状況だった
たくさんの人が何も考える時間もないまま亡くなったのだろう さぞかし無念だったことだろう 近親者を失った人の悲しみは甚大だったろう
こんな未曽有の大惨事と自分の病気を比較しては不謹慎かも知れないが 僕は今 命の大切さを考える時期にある そして自分がどういう方向に進むか考えて選ぶ時間と権利がある そういうものを一切与えられずに亡くなっていった人達の無念さを考えると 今自分が置かれている状況は本当に幸せなんだと思った
そして手術を受けずに いつか後悔するのなら手術を受けようと決めた
やるか やらないか なら やる を選ぶ人間なんだ僕は
「恋愛小説」 - I love you へ続く
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