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【彼女が流産】亡くなった胎児を鉢植えに埋葬して学んだ3つの教訓




2019年6月20日、僕は婚約者のお腹に宿った胎児が亡くなったことを知った。


原因は、染色体異常。約8週間という、短い命だった。



彼女の妊娠が発覚



彼女の妊娠が発覚したのは、5月15日のこと。

計画した妊娠ではなかったので、本音を言うと驚いた。


ただ、もうすでに「結婚するならこの人しかいない」と思っていたし、何より僕は彼女のことを愛していた。

だから、子どもを産むことに対してはまったく抵抗がなかった。


むしろ「この子は天からの授かりもの。このような機会に恵まれた僕はなんて幸せ者なんだろう」と思えた。


彼女も同じ気持ちだったのが、何よりも嬉しかった。



僕はお父さんになる準備をした



僕の弟はすでに3人の子どもがいるし、僕には結婚・出産を経験した友だちが多くいるので、家族を持つことの意味をなんとなくわかった気でいた。時が来れば、自然と必要なことを学ぶのだろうと思っていた。


しかし、現実はまったく違った。


「お父さんになる」とは言っても、どうすればいいか、それが何を意味するかなんて毛ほども理解してなかったのだ。

ただ、僕が戸惑っている間も、赤ちゃんはお腹の中で成長している。


迷っているヒマなど無い。僕はお父さんになる準備を始めた。


国際結婚、そして相手はインドネシアのイスラム教徒ということもあり、様々な課題が立ちはだかった。

お互いの家族は(当然なことに)だいぶ慌てていたが、僕はなんてことなかった。


僕と彼女が一緒になれて、お腹の子どもが健康でいてくれれば、それで十分だったからだ。



彼女が出血する



2回目の定期検診も無事に終わり、すべてが順調に進んでいるように見えた。


しかし、診察後しばらくしてから、彼女が「お腹に何も感じないの。赤ちゃん、死んじゃったのかな」と言うようになった。


医者は問題ないと言っていたし、妊娠初期は胎児がお腹を蹴ることもないと本で読んでいた。だから、僕は「大丈夫だよ」とだけ言い、妊娠で不安定になっている彼女の気持ちをなるべく前向きに保てるよう努めた。


今振り返れば、あの時から彼女はなんとなく、お腹の中で起こっていることを察知していたのだろうと思う。



6月20日、仕事をしている時に彼女から連絡が来た。


出血しているとのことだった。僕は仕事を切り上げて、すぐ家に向かった。



「お腹が痛い」。



彼女は弱った顔をしてそう言った。出血も明らかに普通の量ではなかった。

そして、僕たちはすぐに病院に向かった。



胎児が亡くなったことを確認する



病院に着き、受付の看護婦に彼女の出血が止まらないことを伝えた。

看護婦は手際よく調整してくれて、僕たちは順番飛ばしで医師に診てもらうことができた。


大人げもなく、はやる気持ちを抑えられなかった僕には、その丁寧な対応がとてもありがたかった。

症状を伝えると、医師はすぐに超音波検査をしてくれた。



… 赤ちゃんの呼吸が止まっているようです」



言葉が出なかった。彼女の顔を見ることもできなかった。


彼女にかける言葉を、見つけられる自信がなかったからだ。




しばらくその場にたたずんだ後、医師が付け加えた。



「… まだ100%とは言えません。精密検査をしてみましょう」



僕らは診察室から出て、次の案内を待った。


彼女の目には涙があふれていた。僕は彼女の肩を抱き、ただ胎児の無事を祈った。



その時、母から電話がかかってきた。

病院に行く前、保健師である母に出血のことを尋ねたかったので数回電話していた。その電話への返事をしてくれたのだ。



「どうしたの? 何かあった?」



心配そうに母は言う。



「彼女が出血したんだ。今病院に来て検査したんだけど、赤ちゃんの呼吸が止まってるかもしれないって」



「あら… 何かあったんだろうと思ってたのよ…。でも、そんな時こそあなたがしっかりしないとね」



母は続けてこう言った。



「私があなたを妊娠していた時もね、仕事中、大量に出血したことがあったの。それでも、あなたは無事に生まれてきたのよ。辛いかもしれないけど、諦めないで。支えになってあげてね」




今、目の前で起きていることが変わったわけではないけど、母の声とその言葉を聴いて、僕は落ち着きを取り戻すことができた。



結果がどうであれ、彼女の支えになろうと僕は誓った。



小一時間ほど待っただろうか。おそらく、時間の感覚は狂っていただろうから、正確なことはわからない。


すると、看護師が車椅子を押してきた。彼女はその車椅子に乗り、僕らは地下の精密検査室へ向かった。


精密検査室で、彼女は液晶の付いた大きな機械の右にあるベッドに横になった。




担当医師が棒状の端末を持ち上げ、検査を始める。

僕はただ心の中で、何かの間違いであることを願った。



しかし、願いとは裏腹に、結果は同じだった。



原因は、おそらく染色体異常。赤ちゃんの成長は、8週目あたりですでに止まってしまったとのことだった。



「なんで? なんで僕たちがこんな目に? 何がいけなかった? 仕事のストレスか? それとも病院が異常を早く発見できなかったせいか?」



何かを責めたてたくなる想いが頭の中を巡った。

でも、そんなことをしても現実は変わらない。ただ、現実を受け止めるしかない。


検査室の外に出て、泣きじゃくる彼女を僕はただ抱きしめた。



胎児の亡骸をこの手に抱く



「お腹の中の胎児はこれから2〜3週間のあいだに自然と出てくるはずです。そうでなければ、施術を行って外に出す必要があります」



医師はそう言った。



まだ目の前の現実を消化できていない僕たちは、一旦落ち着いて考えたいと医師に告げ、病院を後にした。





帰宅してからしばらくした後、彼女の状態が急変した。



出血が多すぎたのか、トイレに座ったまま意識が朦朧としだした。



「ベッドに連れてって… 横になりたい」



そういって彼女は立ち上がる。だが、彼女は1メートルも歩けることなく失神してしまった。




僕は、すぐさま彼女の身体にまったく力が入っていないことに気づいた。失神して痙攣している彼女を支えながら、なんとかその場に寝かせ、彼女が意識を取り戻すのを待った。



1分以上は意識が飛んでいただろうと思う。幸いにも彼女は意識を取り戻し、なんとかカウチソファに寝かせることができた。彼女が歩いた後の床には、いくつかの血痕が残っていた。



その後2〜3時間、彼女は動くことができなかったが、歩ける程度には回復した。頭を打ったりして大事に至らなかっただけでも幸いだった。




身体の調子が良くなった彼女は、出血でダメになったナプキンを変えようとした。



その時、彼女が叫んだ。



僕は急いで振り向いた。



するとそこには、明らかに血ではない、肉の塊のようなものが付いていた。



彼女はその物体を直視することができなかった。



なので、僕はそれを手に取り、別部屋のキッチンに移ってそれをこの目で確かめた。





それは、亡くなった胎児だった。



そうだと、直感的にわかった。



「なぜこんなにも早く?」疑問が頭をよぎったが、胎児が6月初頭に亡くなったのであれば、体外に出てくるであろう期間ではあった。


その日、僕は手に抱えたその胎児を、それ以上直視することはできなかった。



胎児を埋葬する



翌日、朝一番で病院に行き、念のためそれが胎児であるかを確認した。

予想どおり、それは流産した胎児の亡骸だった。



「それでは、病院で処理をしておきます」



医師はそう言った。



「いえ、僕たちで預かります」



僕は丁重にお断りした。



僕らの赤ちゃんは、約8週間という命でこの世を去った。


それはまだ、命と呼ぶには早すぎる命だったけど、それでも僕たちはこの2か月ちょっとの時間を共にしたんだ。


僕は、時折彼女のお腹に手を当てて赤ちゃんに語りかけていたし、何よりその亡骸をこの手に抱き、この目で見た。



それを「処理」? そんなの任せられるわけないだろう。




ただ、どうすればいいかについては、皆目見当がつかなかった。


いろいろ調べてみたところ、(日本の)法律上、8週間の胎児は人としてみなされないらしく、またイスラム教においてもまだ人とは考慮されない年齢のようだった。


お互いの両親はもちろん、住んでいるタイの地元の人達にも相談して、様々な案を検討した。



いろいろと悩んだ結果、最終的に自然と観葉植物が大好きな彼女の意見を尊重し、白い布にくるんで植物の鉢に埋葬することにした。


近所のレストランのお姉さんも協力してくれて、近くのお寺のお坊さんからお祈りをいただくこともできた。本当にいろんな人たちのお世話になった。




僕は、亡骸を埋葬する前に、その片手に収まるほどの小さい体をじっと見つめた。


望まれたのに、生まれてくることができなかったその子を、じっと見つめた。



一緒に遊んだり、お話ししたりすることはできなかったけど、僕はもうその子に愛情を感じていた。


短い間だったけど、人の形すらしていないその子だったけど、その子は僕たちの子どもだったんだ。



僕はそっとその子を白い布にくるんで、鉢の中に入れた。


彼女は優しく土をかぶせ、その上に植物を植えた。


その後、二人でその子の冥福をお祈りした。




涙が自然とこぼれ落ちた。僕らは何も言わず、ただ抱き合って泣いた。





「この子の名前は『みどり』ちゃんにしようか」




僕は彼女にそう言った。



彼女は、嬉しそうにうなずいた。




「家族写真、撮ろうよ」




彼女はそう言った。



「家にある植物たちと一緒に家族写真撮りたいの」



これが僕らにとって、初めての家族写真となった。

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二人で抱えている鉢にみどりちゃんが眠っている




この流産を通して、僕は多くのことを学んだ。


普段は考えもしないようなことを、深く考えさせられる経験になった。



立ち直るのには少し時間がかかったけど、家族や友達、周囲の人たちの助けがあった。Kamal Ravikantの「Live Your Truth」という本にも巡り会え、今はこのような機会に恵まれて良かったと思えるまでに回復した。


この貴重な経験、そして「Live Your Truth」との出会いから学んだことを、ぜひ世の皆さんとシェアしたい。




「何が悪かったか」ではなく「何ができるか」に意識を向ける



流産直後、僕らは自分の過ちを責めた。


あら捜しはとても簡単だった。


過去を振り返れば、 流産の原因となった可能性があることなんて、思い当たる節が腐るほど出てくる。



「彼女は仕事で大きなストレスを抱えていた… 妊娠が発覚した後、大事を取って仕事を休ませておけば…」


「結婚の手続きや彼女の親からのプレッシャーが僕らの苦痛になっていた… ちゃんと計画して子作りをしておけば…」


「彼女はすでにお腹の異変に気づいていた… もっと頻繁に病院に検査をしに行っておけば…」




ほうっておくと、雑草のように脳内に現れる「たられば」の無限ループ。


これにハマっては抜け出せなくなる。過去の経験から、それだけは避けなくてはいけないことはわかっていたが、流産直後は危うい時期が続いた。


そんなときに出会ったのが、Kamal Ravikantの以下の言葉だった。


If you think about it, how much time do we spend in our heads wishing things were another way, beating ourselves up, beating others up, crafting a different past, wishing for a different future? All of that is resistance. All of that is pain.

考えてみれば、私たちは頭の中で、いったいどれだけの時間を、変わらない現実が変わることを願い、自分を責めたて、他人を責めたて、過去をねじ曲げ、今とは違う未来の訪れを願うことに費やしているのだろう? そのすべては抵抗であり、そのすべては痛みである。

(引用: Kamal Ravikant『Live Your Truth』| 翻訳: Keitaro Imoto)



Peace is saying to yourself, “it’s ok.” Peace is knowing that the maze the mind plays in is not the truth. Peace is knowing that life is. Just is. How we choose to react to it determines our reality.

平穏とは、自分に「大丈夫」と言ってあげること。平穏とは、思考の迷宮は真実ではないと知ること。平穏とは、人生を知ること。人生は、ただ人生なのだと。(出来事に対して)どう反応するかを選択することが、私たちの現実を決定づける。



… when I change my mind, my world changes. If you think about it, makes sense. When your sense of self and happiness comes from within and isn’t a roller coaster ride dependent on others or circumstances, you approach life differently. You make better choices. You draw to you the people and situations that matter. The others, they fall away.

… 私が考えを変えると、私の世界が変わる。考えてみれば、当然だ。自己意識と幸福が内側から生まれ、それが他人や状況に依存してジェットコースターのように振り回されるようなことがない時、人生に対する向き合い方が変わる。あなたはより良い選択をするようになり、重要な人たちや状況を引き寄せるようになる。その他は、あなたの元を離れ去る。




人種、宗教、社会的地位、生まれた国、生まれた時代。


そんなものは関係なく、結局のところ僕らは人間で。人間であれば、失敗は誰にでもある。



「私のせいだ」と自分を責めれば、あなたの痛みが増し、傷ついたあなたを見た周囲も傷つく。

「あなたのせいだ」と他人を責めれば、その相手の痛みが増し、傷ついた相手を見たあなたも傷つく。



誰であろうと失敗するのだから、それを咎め、自分や他人を傷つけても何もいいことは生まれない。



責めても、何も解決しない。残るのは、開いた傷口だけ。


開いてしまった傷口に塩をぬって、一体何になる?



「何が悪かったか」に意識を向けるのではなく、「その経験を活かして今から何ができるか」に集中したほうが、よっぽど前向きになれる。



人は一人では生きていけない



僕はなにかと独りよがりになりがちな性格で、妊娠も、出産も、国際結婚の手続きも、僕がしっかりしていれば、どうにかなると思っていた。


妊娠で心身ともに不安定な彼女を支えるため、病院の定期検診もすべて同伴したし、掃除・洗濯も毎日のようにこなした。


これもすべて、仕事と個人的なプロジェクトと並行してやっていたので、しんどいといえばしんどかった。でも、家族を持つというエキサイティングな未来が待っていたので、まったく苦にならなかった。




流産が発覚するまでは —




みどりちゃんを埋葬してからというもの、4〜5日は無気力な時間が続いた。何をするにも身が入らない。



こんな状態で仕事をしても仕方ないといさぎよく諦めて、僕はKindleのライブラリに埋もれていた「Live Your Truth」を開いた。



Sometimes, the only way to evolve is to open ourselves fully. Be raw, honest. Vulnerable.

時として、進化するためには、自分のすべてをさらけ出すことしか方法がないこともある。ありのままの、弱い自分を、正直にさらけ出すんだ。



I walk around, a man in this society, big strong adult mask on. Seeming to have it all together. Sometimes true. Sometimes far from it. There are times that even my best isn’t enough. I will stumble, I will fall. And those times, the best thing I can do is reach out to someone who truly loves me, ask them for help, to hold out their hand.

この社会の人間として、大きく、強い、大人の仮面を被り、すべてが順調であるかのように闊歩する私。そうである時もあれば、それとは程遠いこともある。最高の自分をもってしても、足りない時さえある。つまづき、転ぶこともある。そんな時、私に出来る最良のことは、私を心から愛してくれる誰かに連絡し、助けを求めることだ。手を差し伸べて欲しいと、尋ねることだ。



I think that each of us has our own personal evolution. I tend to figure things out by myself. So my evolution would be to involve others, grow with them. For someone who’s wired to figure things out with others, their evolution would be to go within alone. Either way, we evolve and meet in the middle. Comfortable in the silence within, comfortable with reaching out.

私たちそれぞれに、それぞれの進化があると私は思う。私は、自分で物事を解決する傾向がある。だから、私にとっての進化とは、他人を巻き込み、彼らと成長すること。他人と物事を解決する傾向がある人は、一人で自分の内側を見つめることが進化となるだろう。いずれにせよ、私たちは進化し、その中間で落ち合う。内なる静寂も心地よく、外なる援助も心地良い。




僕はこれを読んだあと、信頼する友だち数人に連絡した。


もちろん、弱っている自分を見せるのに抵抗がなかったと言えば嘘になる。「彼らの気分まで落としてしまったらどうしよう」という不安が、何度か頭をよぎった。


だが、心配は杞憂に終わった。連絡した全員が暖かい言葉をかけてくれた。



「いつでも連絡してこいよ」



心が挫けそうになっている時に、友だちのこの何気ない一言にどれだけ救われただろう。


「持つべきものは友」。使い古された言葉だけど、本質を捉えているからこそ使い古されているんだろう。


困った時に心の支えになってくれる友だちや家族ほど、大切なものはない。当たり前過ぎて忘れがちだけど、今回の件で、この当然の事実を深く心に刻むことができた。






僕らはみんな、赤ちゃんの時期があった。


この記事を読んでいるということは、あなたはすでに赤ちゃんを卒業しているのだろう。


だけど、そんなあなたにだって、誰かに頼ってでしか生きていけない時期があったんだ。



そして僕らはいつの日か、ヨボヨボのおじいさんやおばあさんになる。


赤ちゃんのときと同じように、また誰かに頼ることでしか生きられなくなる。




社会で生きていくと、大人の仮面を被って生きていかなくてはいけないことだらけ。


某大学出身で、某企業に務め、某役職をこなし、某ブランド愛用で、某外車を運転し。


年収はコレで、恋人はアレで、Twitterのフォロワーは***で、Facebookの友だちは###で、それで…あれで…これで…。





それはそれでいいんだけど、今日が人生最後の日だったとしたら、それは本当にあなたにとって大事なものかな?




たとえなにが起ころうとも、かけがえのない命を精一杯生きよう




みどりちゃんを手に抱いたあの日、僕は命について再考させられた。




僕らは、誠心誠意、みどりちゃんの誕生を願った。だけど、それは叶わなかった。



この世には、望まれても生まれてくることができない命がある。



医療従事者でもなければ、戦地に赴く必要もない僕のような一般人には、普段意識することがない残酷な現実だ。



みどりちゃんは約8週間の命で、意識が宿っていたかもわからない。そんなことは、確かめようもない。




ただ、僕が見たみどりちゃんの姿は、確かに命の始まりだった。





どんな生き物であろうと、地球上のあらゆる生物には、生まれつき生存本能がある。


どんな小さなアリでも、身の危険を察知すれば必死で逃げ出す。


ウミガメの赤ちゃんは、孵化してから3日から7日かけて地上に出る。生後まもない彼らは、捕食者の攻撃を避けながら必死で海を目指す。成熟期まで生き残るのは、たった1000匹に1匹だ。




それでも彼らは海を目指す。「生きたい」からだ。


理屈なんかじゃなく、本能がそうさせるんだ。





僕は、それについて想いを巡らせた時、みどりちゃんも生きたかったのかなと思う。



この世に生まれて、その命を謳歌したかったのかなと思う。



その目で、その耳で、その鼻で、その舌で、その指で、この世界を感じたかったのかなと思う。




Even if you are one of the lucky ones who gets to do a full tour on this planet. Plenty of time, right? Read up on the regrets of the dying, those in nursing homes. Same, throughout. Not loving enough, doing the shoulds instead of the wants. Cliché, yes. But clichés exist out of the human experience. Better to listen to them than risk becoming one ourselves.

あなたが、この惑星で一生を経験できる幸運な人たちの一人だったとする。すると、「時間は十分にある」と思うだろう? そう思うなら、介護施設で死にゆく人たちの後悔を読んでみるといい。内容は、一貫して同じ。もっと愛せばよかった。やるべきことより、やりたいことをやればよかった。ありがちな内容であることは、間違いない。しかし、言い古された教訓は、人間の経験から生まれる。先人と同じ後悔をするよりも、教訓から学ぶほうがいい。



Being born and gone, we have no control over. Eventually happens to the best of us. But knowing that one day we will cease, and not knowing whether that is today or a distant tomorrow, that realization is a key to living a fulfilling life. The trip you wanted to take, the one you wanted to love, the risk you wanted to risk, the movie you wanted to make, the phone call you wanted to dial, the sunrise you wanted to see… Look behind you. What are you waiting for?

生まれて、死んでいく。それは、私たちにはどうすることもできない。ゆくゆくは、誰の身にも起こることだ。しかし、いつかこの世からいなくなるということを心に留めておくこと、そしてそれが今日であるか、はたまた遠い未来であるかはわからないこと。この認識こそ、生きがいのある人生を送る鍵だ。行きたかった旅、愛したかった人、したかった賭け、撮りたかった映画、かけたかった電話、見たかった朝日…  振り返って見ろ。何をためらっている?



Life is long, a chain of intertwining moments, looping round and round. But life is short. Blinks. Memories. Connections. Then you’re gone. The truth: I live my days as if I will live forever. Putting off so much, expecting there to be more time, another chance. If I accepted my mortality to my core, never knowing when the chain snaps, then how would I live? More on my terms. A free man. I’d write more, I’d love more, I’d laugh more. Can I succeed at it, this way of living? I don’t know. But I will remind myself daily: I am mortal. I will feel gratitude for it. For another opportunity to be here, to live and love and hurt and play and create and make good and bad decisions. Life.

人生は長い。瞬間瞬間が絡み合い、鎖のように繋がり合う。しかし、人生は短い。目が覚め、思い出ができ、繋がりが生まれ、そして消えてなくなる。私は、永遠の命があるかのように過ごしている。それが真実だ。もっと時間があるだろう、次のチャンスがあるだろう、と先延ばしにしてばかり。もし私が、死ぬべき運命にあることを、鎖がいつちぎれるかわからないことを、心の奥底で受け入れたなら、私はどのように生きるだろう? きっと、もっと自分の思うがままに、自由に、生きるだろう。もっと物を書くだろう。もっと愛するだろう。もっと笑うだろう。そのような生き方を、うまくできるだろうか? それはわからない。だが、私は毎日自分に言い聞かせるだろう。私は、いつか死ぬ。私は、その事実に感謝する。もう一日、この世界にいられることに。生き、愛し、傷つけ、遊び、創り、良い決断も悪い決断も下すことに。それが、人生。



Whether accidental or designed or a cosmic joke between green aliens, the human experience is an unbelievably amazing one. Our ability to love and create — that alone makes this entire experiment worthwhile. Moments like this, I feel the rhythm of my life. The ups and downs, the intense beauty of it all. My life is a piece of music, and if I look at it that way, knowing that pitch is a crucial component, it naturally calms the mind down. And I can’t help but be grateful for it — for this crazy ride that I somehow signed up for. I may not be able to change someone. I may not be able to change a circumstance. But I can change myself, how I respond, who I am being. That is where all the power resides. Inside.

偶然であろうと、計画であろうと、緑色のエイリアンによる宇宙規模の悪ふざけであろうと、人間として生きるという経験は、驚くほど素晴らしいものだ。私たちが持つ、愛し、創造する力 — それだけでも、この体験すべてにやりがいが生まれる。このような瞬間、私は人生のリズムを感じる。浮き沈み、そのすべてが強烈に美しい。私の人生は、楽曲だ。人生をそう捉えた時、浮き沈みのある音調は、大切な要素であることがわかる。それを心に留めることで、自然と心が落ち着く。そして、感謝せずにはいられなくなる。どういうわけか参加することになった、この最高の旅に。私には、人を変えることはできないかもしれない。私には、状況を変えることはできないかもしれない。だが、私は私自身を変えられる。反応の仕方を変えられる。私という人間を変えられる。それが、すべての力が備わっている場所 — 内面 — だ。





僕らは皆、死ぬ運命にある。違いは、それが遅いか早いかだけだ。




ただ、僕らは果たして、どれだけその事実を意識して生きているだろう?




自分が、いつか死ぬということを。


親も兄弟も友達も、いつか死ぬということを。


最愛の人も、あるいはお腹にいる赤ちゃんも、いつか死ぬということを。




僕らはいつか、その命を終え、地球に還る。


それは、地球上の誰にとっても同じだということを。





僕は、この真理について想いを巡らせた時、この命を精一杯生きようと思える。


いつ終わるかもわからない、かけがえのないこの命を、もっと精一杯生きようと思える。





いつ終わるかさえもわからない命だから、もっと人に優しくしようと思える。


いつ終わるかさえもわからない命だから、もっと人と楽しく遊ぼうと思える。


いつ終わるかさえもわからない命だから、もっと人を恥じらいなく愛そうと思える。







「お父さん、私の代わりに精一杯生きてね」







みどりちゃんは、そう僕に伝えたかったんじゃないかなと、今なら思える。






だから僕は今日も、精一杯生きる。


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