競技歴の振り返り(前半)

2001年にタッチフットボールを始めてから、かれこれ19年目となりました。
コロナ自粛でちょこちょこ時間ができたので、もはや終盤を迎えている選手生活を時系列で振り返ってみました。長いので前半ということで。

2001年~2005年
タッチフットボール @バトルアルマジローズ
タッチフットボール第1章。
脚だけは速い人にありがちな、WR/CBをやりました。
当時のチーム戦績としては関東オープンで3~4位で、シュガーボウルはリベンジャーズとレーザービームが出場、ファイナルタッチは関東3枠あったため滑り込みで出場できた、というくらいのレベルでした。
2002年冬の全国大会@西宮でオールスターに選出され、「あれ?結構やれんじゃん」という気になり、選手として本腰入れたのが2003年からでした。
オールスター選出やBEST6、MVPなど、選手モチベーションになる称号はマイナー競技界にこそ必要だと思ってます。
★個人的に印象に残っているチーム:リベ、スレイズ

2005年~2007年
フラッグフットボール @広島タイニーラクーンズ
仕事の都合で広島へ。タッチフットのチームがなかったため現地のフラッグフットボールチームに入れてもらいました。当時はまだ後藤完夫さん主催のフラッグフットボール大会が全国規模であり、中四国大会でお会いした際に「あれ?タッチフットやってたよね?」と声をかけていただいたのを覚えています。懐かし。

2006年~2009年
タッチフットボール @広島オイスターズ
タッチフットやりたい!パスプロしたい!熱は一向に冷めず、「無いなら作ってしまえ」精神で、広島オイスターズを立ち上げました。タッチフットボール第2章の幕開けです。
当時の広島は企業の支店が多いこともあり転勤者が多く、隠れアメフト経験者が意外と多くいました。そういった人を捕まえるべく、mixi(懐かしの)などで勧誘を続け、少人数ながら定期練習をおこない・・・を繰り返していくうちに、なんとかチーム登録できる8人が揃い、中四国連盟に新規チームとして登録できたのでした。当時の中四国連盟には、全国大会ではおなじみの「米子シグナス」と、若さ溢れる大学生チーム「鳴門教育大学ビッグエディ」の2チームがいました。
チームメンバーの方では、スラッカーズ(関東のチーム)出身者や立命館や龍谷大学アメフト部OB、地元高校生など多様なメンバーが揃ってきたこともあり、登録した翌シーズンには地元広島で中四国予選をおこないました(今思えば相当無謀でした笑)。奮闘むなしく、最初のシーズンに続いて2シーズン連続して予選敗退。
練習内容を見直したり、チームMTGを重ねたりしながら、その翌シーズン遂に米子シグナスに勝つことができ、初めて全国大会に駒を進めました。松本ピークスや芸工大ビバーチャーズには白星をあげるも、関東関西チームの壁は越えられず。
広島でチームビルド・運営の立場を経験したことで、すべてを自分ゴト化して競技に向き合うことができました。「環境は人を変える」まさにその言葉どおりの約4年間でした。
★個人的に印象に残っているチーム:オヤンズ、ライズ

2009年~2012年
タッチフットボール @バトルアルマジローズ
仕事で東京に戻り、古巣アルマジに戻りました。この時代の特筆すべきは、ポジションコンバートですね。「強いチームには速いラインが必要」と確信していたので、志願してCをやることにしました。
相変わらずのmixi勧誘で、神戸大QBだった大西さんを捕まえて、そこから右田さん・赤尾さん・・・とアメフトOBメンバーが増えていくと同時に、アメフトの考え方をタッチフットに置き換えてみる風土ができあがりました。それぞれの良いところを取り入れて、プレーに落とし込むのは楽しかったですね。
当時のチームレベルは、全国大会出場は堅いが、勝ち上がれないレベル。この頃になると、それまでの経験も相まって「全国大会で勝ち上がるために足りないもの」が明確になっていました。それは・・・

 ①QBの機動力
 ②それを活かすためのパスプレー精度
 ③そのための堅固なパスプロ

前述した「速いライン」がいることで、ラッシュが思い切り入りにくくなる→パスプロの駆け引きが有利になって③→パスプロが持つことで②→カバーが広がることで①が機能するといった考え方です。
このアルマジ時代には実現までできず・・・2013年に大きな変化が起こりました。
★個人的に印象に残っているチーム:ブルームーン

(後半へ続く)

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