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18世紀におけるヴァイオリンの一般

ヴァイオリンの演奏技法はまず18世紀にイタリアを中心に発展し、今日まで多くの楽曲や書物が 残されている。特にアルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)からアントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741) やジュゼッペ・タルティーニ(1692-1770)に至る偉大な作曲家・ヴァイオリン奏者によって形成された主要なヴァイオリン音楽の流れは、その後のヴァイオリンの歴史の確固とした土台を築き上げた。そしてイタリアで醸成されたこの豊かなヴァイオリン演奏文化がジョヴァンニ・バティスタ・ヴィオッティ(1755-1824)によってついにフランスに伝えられ、その意志を継いだルドルフ・クロイツェル (1766-1831)やピエール・ロード(1774-1830)らが初代教授を務めたパリ音楽院ヴァイオリン科(1795)の教育体系をもって、近代ヴァイオリン奏法の確立が完了することとなった。その伝統は現代まで脈々と続いており、例えば前述の最後の2人、クロイツェルやロードによる練習曲は、ヨーロッパではもちろん日本においてもヴァイオリンを学ぶ際の練習課題として必修のものとなっている。また、ヴィヴァルディの協奏曲集『四季』やタルティーニのソナタ『悪魔のトリル』が、ヴァイオリン の代表的な名曲として今日まで広く愛好されていることは周知の通りである。

では、具体的に当時のヴァイオリン演奏とはどのようなものだったのか、そしてそれは現代のものとどのように違ったのだろうか。録音技術が発明されたのは 19 世紀末のことであり、それ以前の時代の演奏における様式、つまり音色やテンポ、ヴィブラート等の多くの点について、私たちは残された文献や教則本、楽譜等から推測していくほかない。

まず参考になるのは、当時の演奏家の実演に触れた人々による手紙などに残された証言の類である。これには、新聞の演奏批評等も含まれるだろう。「魔法のような演奏」「上品に洗練された」といった抽象的なものから、「正確な音程と細かいヴィブラート」「グリッサンドを多用」などの具体的な奏法の特徴を示す言葉まで様々残されており、中には演奏家を盲目的に崇拝したり、逆に感情的に攻撃するような発言もみられる。

そして、ヴァイオリンのために書かれた作品、特に演奏家兼作曲家による曲そのものから、そこに 想定されてる演奏法の特徴を推し量ることができることもある。これはもっぱら、ヴァイオリンの演奏技術の発展が作曲家たちに与えた影響を知るために必須のアプローチであろう。
そのような中で、ここで特に焦点を当てたいのは教則本の存在である。楽器の演奏法を音を伴わずに文章や図解で示すのは非常に煩雑かつ不確実であることを踏まえ、古くから多くの試みがなされてきた。18世紀のヴァイオリン演奏の様式を知る大きな手掛かりとなるのは、とりわけフランチェスコ・ジェミニアーニ(1687-1762)、タルティーニ(前述、『悪魔のトリル』の作曲者)、レオポルド・ モーツァルト(1719-1787、W.A.モーツァルトの父)による教則本である。

これらについて一つずつ触れていきたい。ジェミニアーニはその著作の中で、彼自身の言葉を借 りて言えば演奏に「良い趣味」を求める姿勢を一貫して見せている。これについてはいくつかの観点から説明が必要になるだろう。まず演奏における「良い趣味」すなわち正しい作法というものがある程度存在したことがわかる。しかし何よりここで注目すべきは、それを学ぶことの必要性を強調しなければならないほどに、作法が欠如した演奏が多く行われていたということである。当然かと思われるかも知れないが、このことは強調しておかなければならない。何故なら、現代の私たちが当時の音楽を学び演奏や鑑賞をしようと考えるとき、18 世紀の音楽家及び愛好家には自然に備わっていた感性を、時代の隔たりゆえにさかのぼって身につけなければならないと考えがちだが、 この正しい作法と様式感を持って音楽を理解し、表現しなくてはならないという考え方はすでに当時から存在していたことがここで示唆されているからである。ジェミニアーニが特にヴァイオリン演奏分野において、楽曲の性格を把握し、適切な強弱の抑揚や装飾の技法を用いてそれを表現することの重要性を説くために、並々ならぬ努力を重ねていた。その成果は数々の著作として残され ており、現代の音楽家にとって大切な資料となっている。

続いてタルティーニが自身の音楽学校の指導書として著した『ヴァイオリン奏法』に重要な当時の音楽に対する理念を見ることができる。タルティーニは運弓法の技術を用いて速い快活な音楽とゆったりと歌う音楽の性格の違いをいかに描き分けるかを明確に示しているほか、装飾法についても、単純なメロディへの装飾と終止型に用いる装飾に分けて論じている。ジェミニアーニのものより少し後(20 年弱。諸説あり)に書かれたこの著作では、時代の変遷を感じさせるとともにタルティーニの音楽理論家としてのかなり先進的な内容が含まれており、例えば「差音」と呼ばれる現象、すなわち振動数の異なる二つの音が発されたときに、その振動数の差分の高さの音も人間が同時に知覚することにも言及されている。またイタリアの古い民謡を採取しその自然な装飾法に注目したりと、タルティーニの実証研究的な態度を垣間見ることができ、その姿勢は科学技術が急速に前進していた 18世紀のヨーロッパの風潮を伝えるものでもある。

最後にレオポルド・モーツァルトの著作『ヴァイオリン奏法』について述べていく。周知の通りレオポルド・モーツァルトは偉大なるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)の父であり、息子への惜しみない教育と後ろ盾なくして人類の文化遺産たる音楽は生まれなかったという点だけでもレオポルドの功績は後世まで讃えられているが、その点を抜きにしても彼の『ヴァイオリン奏法』が後世に与えた影響は特筆すべきものである。1756年、息子が生まれた年に上梓されたこの教則本は、主にオーケストラ奏者をはじめとする多くのヴァイオリン奏者の基本的な演奏水準の底上げを目的として書かれた。内容としてはヴァイオリンの楽器としての歴史と発音原理などの構造、さらに音楽の起源や歴史、そして基本的な音符の読み方やリズムの分割法、楽語の解説などの音楽の基礎知識といったものがかなりの割合を占める。もちろん具体的なヴァイオリンの構え方や左手のポジションの解説も含まれてはいるが、本全体の趣旨として多分に啓蒙的であり、単なる楽器演奏の指導書としてのみならず職業演奏家としての礎を説く指南書としての価値が高い。ヴァイオリン奏法の解説に関しては同時期に出版されタルティーニの著作からの引用も多く含まれており真新しい部分は少ないが、それは新しいヴァイオリン技巧の開発がレオポルドの目的ではないため当然のことであろう。この時代の音楽書の多くは知識階級向けにラテン語で書かれていたが、一般市民をターゲットにした彼の『ヴァイオリン奏法』はまずドイツ語で書かれ、ほどなく英語、フランス語、オランダ語に翻訳された。この本はベストセラーとなり、18世紀いっぱいの間、あるいは19世紀にはいっても、標準的な教則本として広く利用されたのである。日本語版は、塚原晢夫氏の訳で1974年に全音楽譜出版社から出版されたものが知られていたが、2017年に久保田慶一氏の訳で新たにこちらも全音楽譜出版社から出版され、どちらも現在入手可能なのでぜひご参照をお勧めしたい。

以上、19世紀以降のヴァイオリン奏法の急速な発展の土台となったこれらの資料の紹介をもって、 18世紀のヴァイオリン演奏の一般の解説と代えさせていただく。

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