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選挙と魔族についての序章

魔族の投票権がついにこの国に実現するかもしれない。吸血鬼のイーサンはSNSを通じた友人である『ねむたいこぐま』を誘って、数百年ぶりに町に下りることにした。



東大通りから外れた細道を曲がって少し行くと、吸血鬼の棲家があるという。

十月の終わり、一人の影がその噂の細道に長く伸びていた。

肩より少し下ほどの長さだろうか、黒髪を無造作に後ろでまとめている。顎はほそく、切れ長の目は柳のように弧を描いて、穏やかそうにも油断ならないようにも見える。全国展開のアパレルブランドで見かけるような無地のワイドパンツを白シャツに組み合わせ、ゆるやかなS字を描くシルエットでその人物は佇んでいた。通勤電車で探せばひとつの号車に十人はいるような印象を受ける。実際、時折その横を通り過ぎる人や自転車は立ち止まるどころか、視線を寄越す気配すらない。

人物が立ち止まっている細道の西側には一軒家が立ち並び、東側には廃墟となった元官舎の敷地が続いている。すっかり汚れ、寂れたアパートは腰の位置まで生い茂る草むらに覆われ、マツの林冠によって暗い影を落とされていた。雑草や低木は道に沿って張られた鉄線によってその侵襲を押し留められ、地割れの目立つアスファルトの細道の端には落葉や腐った木の実が転がったままだ。今は西陽によって照らされているが、街灯のないこの細道を夜一人で歩くのは非常に心もとないだろうと想像がつく。廃墟と道を隔てる鉄線の前で、その人物は立ちすくんでいた。

そのとき風が吹いて、人物が持っているチラシのようなものが激しくはためいた。その手に握られた濃い青色の印刷物は一見めずらしく、興味をそそられる。だがよく見れば、多くの人が納得した声を出して身を引くだろう。十八歳以上の人間であれば誰でも、そこに心躍る情報はないと知っているからだ。

しかし、その人物は、手にしたチラシを食い入るように見つめている。そこに書かれている文字を一字一句記憶するかのように、西陽の向きが変わったことにも気づかないほどに、その目は文章を追い上げる。チラシを握る指のそばの印字はかすかに滲み始めていて、指の圧力で紙は歪んでいた。何度も、何度も表面が読み返され、やがて裏返される。時間が経つと、また表面に戻って、再び同じ動作が繰り返された。

その人物は、廃墟で暮らす吸血鬼だった。


吸血鬼は自分の名前を忘れかけていた。自身の記号を名乗る機会がなければ、それを呼ぶための機能は退縮していく。

しかし、名を知る手立てがないわけではなかった。町全体が宵闇に包まれた頃、吸血鬼は鉄線を跨いで廃墟跡へ侵入する。吸血鬼は夜目が利くため、暗闇が枷にならない。次々に草本を踏み倒し、吸血鬼はアパートの入り口に辿り着いた。屈んでよく目を凝らせば、蔦の巻きついたアパートの郵便受けにマジックで書かれた文字は、かろうじてイーサン=エイジと読める。イーサンは自分の名前を舌の上で転がした。イーサン。イーサン=エイジは吸血鬼。そして、廃墟跡に住んでいる。

名前という言語の主機能のひとつについてイーサンが思い出したのは、とある印刷物がきっかけだった。廃墟跡の草むらに捨てられていた、小選挙区選挙運動用のビラ。イーサンの住む小選挙区における立候補者の名前、自己紹介、公約が目立つフォントで綴られている。その立候補者の名前をイーサンは繰り返した。サトウ、サトウ。ビラの面積の多くを占めるサトウの顔写真をまじまじと見つめながら、イーサンは階段を上がり、扉を押し開けた。

そして、ビラを握りしめたまま、その意識は眠りに落ちていたらしい。瞼に染みる光で、イーサンは目覚めた。薄くひらいた目に、睫毛をこぼれ落ちたのは橙の光のひとひら。夜が明けて、また夜が来るのだ。枕に顔をうずめた状態で何度か瞬きをして、左手を探ると包装らしき感触に当たる。見ずに破いて中のものを口に放り込めば、プロテインバーがほろほろと崩れた。同じような包装がいくつも転がった広い寝台の中央で、イーサンは次にポケットを探る。布団に倒れ込んだ形のまましっかりと皺のついたワイドパンツ。そのポケットの片方に、栄養補助ゼリーが仕舞われていた。イーサンは唇の端だけで微笑み、「一日分の鉄分」と銘打たれたパッケージを絞って飲み干した。もう残っていないかと思っていたが、運がよかった。幸運は、今日の自分にとっては特に重要なことだ。

イーサンは今日、数百年ぶりに駅まで出かける。サトウという立候補者の街頭演説を聞くために。顔を洗い、トイレから戻ったイーサンはクローゼットを開けた途端に、黴の匂いにむせた。もうずっと前から、同じ服を洗濯して暮らしてきたのだ。奥の方に畳み込まれた服たちはどれも窮屈そうな顔をしている。申し訳ない気持ちで畳み跡を伸ばしながら、熱に浮かされたような頭で考えた。

イーサンに国籍はない。戸籍もなければ、住所もない。人権が叫ばれて早千年、未だに吸血鬼権が整えられていないとはなんたることか。しかし、そんなある日、少数魔族の権利保護を唱える者が現れたと小耳に挟んだ。廃墟跡に捨てられていたビラの公約リストには、少数魔族の権利を明記するよう民法改正を目指すと確かに記されていた。

「選挙か……」

イーサンの呟きには、苦々しい諦観の響きがこもっていた。この国で生きる少数魔族に、選挙権はない。五百年ほど前にエルフと人間の共存法が可決されて久しいが、それはエルフの見目や生態を含めた特徴が人間にとって不愉快ではなかったからだ。ドワーフや吸血鬼といった細々と生きる魔族は隅に追いやられ、存在を無かったものにされ、今もどこかに隠れ住んでいる。

(期待したって、意味がない。誰も私たちの幸福になんて興味がない。なら、私もどうでもいい。どうにもしてくれない社会のことなんて、どうでもいい)

イーサンは机に向かい、ノートパソコンを開いた。ログイン画面でアカウントIDとパスワードを打ち込み、SNSアカウントのホーム画面を開いたところで、メニューバーのベルマークに灯る青い印に目が留まる。数日前のイーサンの投稿に対し、一件の通知が来ていた。

「『自分も、今週の〇〇区で行われる街頭演説を、聞きに行きます』……ねむたいこぐま」

アイスバーを咥えてちょこんと座る、見慣れたホッキョクグマのアイコン。イーサンがフォローしているアカウントのうちのひとつで、長年コメントや通話の交流がある『ねむたいこぐま』が近辺に住んでいたとは。数百年交流が続いていることやその自画像から『ねむたいこぐま』が同じ少数魔族であることはわかっていたが、そのことを知ったのは初めてだった。イーサンは瞬きをして、いくらか考え込む。そして、充分に時間が経ってから、キーボードを叩き始めた。

『もしよければ、現地で会いませんか?』


普段は飼い猫と毎食の写真だけを上げている『ねむたいこぐま』のことは、声とテキストベースの会話でのみ知っていた。イーサンがその場に到着したとき、演説カーの周囲にはすでに支援者らの人だかりができ始めていたが、イーサンは直感的にある人影に歩み寄った。

「あの……もしかして『ねむたいこぐま』さんですか?」

声をかけられた人影が顔を上げる。はい、と通る声が響いた。

「『礼儀正しいアカ・マナフ三世』さんですよね。はじめまして。『ねむたいこぐま』です」

『ねむたいこぐま』は着膨れた姿で振り返ると、イーサンに向かってお辞儀をした。秋の初めにしては着込みすぎともいえるダウンジャケットの下、背中の部分はかすかに盛り上がっている。イーサンは、さりげなく人混みからその背中を隠すように立ち位置を変えた。その背中には折り畳まれた羽と、それを支えるために盛り上がった筋肉があることをイーサンは知っていた。それが露見すれば選挙カーの周りに集まった群衆の目が集まる可能性があり、そうなれば自分たちが楽しいとはいえない思いをすることはほぼ間違いない。

若草色のカーディガンを着た『ねむたいこぐま』は、肩まで伸びた茶髪を揺らし、イーサンの視線の先にある選挙カーをちらりと見た。

「思っていたよりも、人が来ているんですね」

イーサンはうなずいた。すでに駅前に止まった選挙カーを囲むように、人が集まりつつある。ベンチに座っている人、立ってスマホを構えている人、プラカードを掲げている人、足早にそこを通り過ぎる人。遠い昔、身分を偽り人間社会の中で暮らしていた頃はこんな光景をよく見ていた。廃墟に隠れ住むようになってからは、人の多い場所をことごとく避けてきたため、すでに人酔いが始まりそうだ。

「今日はお誘いいただきありがとうございます。人里に降りるのは本当に久しぶりだから、けっこう緊張していて」

「私も同じです。それと、いきなり誘ってしまって、怖い思いをされたのではないかってずっと悩んでいました」

「そうなんですか?」

『ねむたいこぐま』が、瞼を持ち上げてやや驚いた顔をした。その表情がふっと緩んで、足元のブーツへと落ちる。華奢な身柄から想像される足のサイズよりも二回り以上大きい、特注のサイズ。猛禽類の足を隠すのに最適なデザイン。

「そうですね……人間の、特に女性は、やっぱり怖いでしょうね。私たちのこと」

『ねむたいこぐま』の言葉に、イーサンも黙って首肯した。『ねむたいこぐま』は半人半鳥の外見を持つハーピーであり、その筋力は人間のそれとは比較にならない。それはハーピーに限らず、人間以外の大方の種族がそうだ。非力なエルフなどを除いて、大体の魔族は人間よりも著しく力が強い。少数魔族による暴行事件や強姦事件のニュースを新聞やテレビで見たことも、一度や二度ではなかった。

「……今日のこと、楽しみでしたか?」

選挙カーの上に、立候補者が登る。ハッチを開けてサトウが顔を出すと、待ち構えていた支持者からは歓声の声が上がった。

「どうでしょう……」

自分の喉を、自分のものではない声が通り抜けていくように響いた。イーサンはぼんやりと選挙カーに視線を向けたまま、マイク越しに発されるサトウの声を聞く。挨拶から始まり、現在の政権与党の批判へと。腐敗した政治への改革を訴え、公約のアピールへと。上流から下流へ川が流れていくように、その様式は崩れない。イーサンは、サトウが着こなす糊のきいたスーツから目を離し、ふと自分の装いに視線を落とした。慌ててクローゼットから引っ張り出したせいで、皺のとれていないシャツ。流行を過ぎたトレンチコート。家を出る前に粉とブラシでせいいっぱい磨いたはずの革靴は、これ以上ないほどみすぼらしく見えた。途端に、逃げ出したい気持ちに駆られた。

隣を見ると、『ねむたいこぐま』も同じような表情で選挙カーを見上げている。その向こうに群がる人々は、会社帰りだろうか。偶然通りがかった人もいるだろう。演説を目当てに来た人も。その中に、自分のような格好の人間はいない。髪をきちんとセットし、垢のついていない服を着て、同じ首の角度で演説をする候補者を見上げている。ますます声を張り上げる演説の声。その声を人だかりの隅々にまで届けるマイク。年金、外国人、といった単語が時折耳に入ってくる。その光景が視界いっぱいに広がる。それと同時に、先ほどまで確かに抱いていたかすかな期待が、針でつついたように、しぼんでいく。始まってから何分経ったのだろうか、相変わらず、サトウから魔族の権利という言葉は出てこない。民法改正の言葉も、尊重や共存という言葉も、出てこない。脳裏に、何度も読み返したビラの中の、公約の台詞がちかちかと明滅した。虐げられている魔族に、当たり前の権利を。誰もが幸福に暮らせる未来を。平等の実現を。
本当は期待したかった。何も、何ひとつ、どうでもいいことなんてなかった。

「あれ、そこの方」

しばらくの間、イーサンはサトウの目が自分たちの方に向いていることに気がつかなかった。流れるように民衆に訴えていたサトウがいつの間にか、こちらをじっと見つめている。その口が谷のようにぽっかりと開いて、親しみに満ちた声音がマイクを通じて一瞬で拡散された。
「そこのお姉さん!もしかして、ハーピーの方じゃないですか?」

反射的に、肌が粟立った。

「え……?」

隣に立っている『ねむたいこぐま』が、小さく戸惑いの声を漏らす。その声が聞こえたのは、すぐそばにいた自分だけだった。『ねむたいこぐま』が後退りをする。おそらくサトウの見開かれた目から逃げるために、その頭がばっと俯いた。

「皆さん、ご覧ください!彼女は少数魔族の一員です!」

サトウは唐突に声を張り上げた。彼が手のひらで指し示す先に、一斉に注目が集まる。そして『ねむたいこぐま』が反応するよりも先に、その背中の盛り上がりや靴のサイズが不躾な視線に撫でられる。舐めるような視線、視線、視線。

イーサンは、呆気にとられていた。今目の前で始まったことが、理解できなかったのだ。

サトウは『ねむたいこぐま』に目をつけた。その立ち居振る舞い、発言、状況、全てがサトウの主張の材料になる。小さな声も弱々しい抵抗も、その喉の奥に、飲み込まれていく。

「彼女のような方々が、ハーピーであるというだけで差別されています!今もこうして人目を避けて来てくれているのです!」

円ができる。

「我々は彼女のような方々の権利を守りたい!どうか革命党に投票を!」

人混みの中の影のひとつだった私たちから、徐々に、人が離れていく。

「一緒に社会を変えていきましょう!みんなが幸せに暮らせる社会へ!」

「彼女じゃない」

呟いた声は、サトウの声量にかき消された。

「彼女じゃない」

もう一度、イーサンが腹に力を込めて言う。ほとんど叫ぶような声量に一瞬サトウの動きが止まり、振り向いた目がイーサンを捉えた。吸血鬼の並外れた視力は、数メートル以上先のサトウの表情を鮮明に映す。黒い目の奥がイーサンには見える。その黒さに呼吸が止まりそうになるのを抑え、丹田に力を込めて深く息を吸う。

「私たちは性別で同胞を区別しない。彼女という代名詞も存在しない。そのように呼ぶことはやめていただけるか。私たちの文化も知らないくせに、私たちの権利を守ってやろうなどと口にするのか」

静寂の隙間に針金をねじ込み、こじ開ける勢いで、イーサンは声を叩きつけた。途端鼻白んだように、サトウが顎を引く気配。周囲の視線がすっと冷えて、鉄が固まるように足元ががんじがらめにされる強い恐怖。それらのざらついた手触りは、なめらかで捉えどころのない公約の文章と比べてひどく鮮明だ。「せっかく自分が権利を守ってやろうと言っているのに」だろうか。「馬鹿なことを」と思っているだろうか。

馬鹿はどっちだ、と思う。くたびれた革靴で一歩前に出る。

「行こう」

声をかければ、『ねむたいこぐま』はうなずき、しかしほんの刹那サトウの方を振り向いたあとにその場を離れた。二人が人だかりを出てまもなく、サトウの声が背を追いかける。その口からは罵倒の言葉も、謝罪の言葉も出てこない。抑揚のついた台詞がいつまでも耳の奥にこびりついている感覚が拭えず、何度も指で中を掻いた。


「私たちの他にも、あの場に少数魔族はいたんでしょうか」

駅で別れる際に、『ねむたいこぐま』が呟いた。

「ネットではあんなに同じ思いをしている仲間がいることに励まされるのに、現実ではああいう思いをしてばっかり。ずっと変わらない。時々、自分はひとりぼっちで戦っているみたいな錯覚になります」

イーサンは通行人から目を外す。『ねむたいこぐま』は首を振って続ける。

「ハーピーはいつも決断を迫られてる。安月給でドローン代わりに死ぬまで働かされ続けるか、もしくは仲間のハーピーに嫌われてでも声を上げるか。やっと受かった運送の職を捨てたくなくて、一部のハーピーは選挙権を主張するハーピーを攻撃するの。私たち、分断される必要なんてないのに」

変えていこうね、と最後に告げて『ねむたいこぐま』は列車に乗り込んだ。その笑顔が車内の椅子に浅く腰かけた途端に崩れるのを見て、イーサンの足元で骨の軋む音がした。

いつまで呪いにかかっているつもりだ?

動画の中で、当時のエルフ連合の代表がそう口にする。首都圏から帰宅する会社員や学生で、下り方面の列車は満員だ。背後のドアに寄りかかりながら、イーサンは動画を再生する。

君はいつまで偏見のシャワーにその身を晒し続け、風邪を治さないでいるつもりだ?

政治は君が声をかけなければ振り向いてくれないよ。

連合代表のエルフは、翡翠色の大きな瞳をまっすぐにこちらへ向けて、語りかける。美しいウェーブを描いて流れるブロンドの髪、やや伏せがちになった長い睫毛。目を惹く薄い紅色の唇に、みずみずしく内側から輝かんばかりの肌。自信溢れる豊かな声量が、画面越しに耳を傾ける人々の意識を固定する。人間とエルフの共存に関する国際条約にこの国が加盟した際、このエルフが先頭に立って旗を掲げていたのだ。一時停止をタップし、イーサンは天井を仰いだ。拳を上げよう、と声は訴える。見えるまで掲げろ、それでもなお相手が目を瞑るのならその手を外させよう。

促されるままに拳を握ってみる。その拳を開く。白い手だった。イーサンは再び、手のひらを隠す。

私たちは皆見たいものしか見ていない。

目を閉じる。


あまりに遠いので、とうとう天国に着いたのかとイーサンが疑り出した頃、列車が動きを止めた。

「終点、△△駅、△△駅」

イーサンは鞄を手に、ホームへ降り立つ。人の群れについて改札を通り過ぎ、地上に出る階段を登り切る。地上に出てすぐ目の前に現れる横断歩道を渡ろうとして、足を止めた。

NO VOTE, NO LIFE。

自分のことを自分で決める権利を全員に。

魔族に選挙権を。

白いプラカードに、黒いゴシック体の手描き文字。どんな場所でも、それこそ横断歩道でも見るカラーリングのメッセージが、目の前に彗星のごとく光って現れたから驚いた。目を凝らせばその光は消えたけれど、文字はまだ同じ場所に残っている。思わず足を止めていた。

イーサンの家に選挙はがきはまだ届かない。住む場所もまだ認められない。まだ、とそう言えるだけの光に似た何かは、ポケットの中に自分自身で握っている。

「あの」

近づいたとき、喉の奥が収縮するのがわかった。駅から吐き出される人々が素通りしていく中、逆行して向かうことには勇気が要った。異常者だと思われたくない、社会から弾かれたくない。でも黙っていられるわけではない、自分の生きる世界を明るくしたい。両立する感情が焚き付けられてぐらぐらと足元が煮えたつ。マグマの中をイーサンは歩いた。それでも伝えなくてはならない。見ないことにされるそのメッセージを、自分は受け取った。あなたは透明じゃない。

そして、私も透明ではない。

「私もそれ、持ってもいいですか」

どうぞ、と言われて手渡されたバトンを目の前に掲げる。胸のそばに引き寄せて持つと、ふらついていた重心が定まった。

視線の合わない人々が前を通り過ぎていく。知らぬ前に眉間に寄っていた皺を、意識的にほぐす。肩甲骨を寄せて、息を吸う。そして吐き出す。

明るい怒りを携えて、この細道を立っている。


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