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25歳になった今、小3で父親を、高3で母親を亡くした当時を振り返る。続き
こんばんは!けいしょーです。
本日も粛々と更新していきます。
途中になってしまったお話の続きです。
前回は小3の頃、父親が亡くなった時のことを思い出して書きました。
今回は父親が亡くなったその後になります。
私の母について
父親が亡くなってからは母が私と兄を女手一つで育ててくれました。
25歳になった今だからわかることですが、夫という大きな後ろ盾が亡くなってからの子育てはかなりの不安を伴うことだと思います。
それなのになに一つ弱いところを見せずに仕事をこなし、家事をこなし、夜は学校から帰って来た私たち兄弟の世話をしてくれました。
私が小学校5年生の時でした。
母は突然入院しました。癌を患っていたのです。
母は不安にさせたくないのか"退院したら元気になるから安心して!"とだけ言っていました。
当時の私は癌についての知識がなく、母からの言葉があったので不安ではありましたが、深刻な事態とは捉えていませんでした。
今となっては癌ってどういうものだかわかりますからね。"知らない"がどれほど無力なことだと思います。
その後も母は入退院を繰り返しましたが、私が中学生の時は抗がん剤を打った後は自宅で安静にするような治療方法になりました。
私は"状態が良くなったからこのような治療の仕方ができる"とだけ思っていました。
当時の私は中学生になり、サッカー部に入り忙しい日々を送っていました。指導者に恵まれ私は県選抜にも選ばれていました。そこそこ厳しい部活だったこと、選抜の都合で遠征も多く、その度に朝3時に起きて家を4時に出発する、ようなことが少なくはなかったです。
母は上記のように癌治療をしながらも、私が遠征の時には体調が良くなっており、朝早くに起きてお弁当を作り私を送り出してくれました。選抜の遠征の時は保護者の送り迎えが基本だったので母に送り迎えをしてもらっていました。
中学を卒業してから私は受験に成功し、県内有数の進学校に入学しました。合格発表の時、嬉しそうに泣いていた母の顔はなんだか忘れられないんですよね。
私が入った高校は文武両道を掲げるところで部活も強豪でありながらそこそこの偏差値だったので部活・勉強に忙しい日々を送っていました。中学の時と同様に早朝に起床し準備をするようなことも良くありました。母は同様に私にお弁当を作り続けてくれました。
私の高校生活はというと、部活ではスランプに陥り、中学の時のような輝きは色褪せてしまいレギュラー落ちをしてしまいました。そんな時の話をいつも母は聞いてくれました。クラスの同期、部活の同期、先生に言えないような愚痴を全部母が聞いてくれていました。
母は自分が一番辛いはずなのに、私の悩みを全部聞いてくれました。
そんなだから私は逆境にも耐え抜くことができたのです。
そんな母がちょっと変わってしまった
高校3年になるあたりからです。
母の体調が良くない日が続きました。癌が進行してしまったのです。
お弁当が作れない日が増えました。
当時の私はある選択に迫られていました。
高校生のサッカーと言えば、冬の全国高校サッカー選手権です。
進学校の生徒の場合、高校3年生の冬はセンター試験という人生がかかったイベントがあります。私の高校では毎年3年生が冬まで部活を続けるか春のインターハイで引退をするのか答えを出さなければなりませんでした。
私は冬の選手権までサッカーをするためにこの高校に入りました。しかしながら、レギュラー落ちをしているため冬の選手権予選までレギュラーになれる可能性は低かったのです。だから迷っていました。
母に冬まで残るかどうか相談しました。その時はこう言われました。
"正直言うと、レギュラーじゃないから残らなくてもいいんじゃないかって言う思いはあるよ。もっと家のことをやってほしい。けれども最後に決めるのはけいしょーだよ"
"残りなよ"と言われるとばかり思っていたので少し驚きました。今となってはあの時本当に母は限界に近づいていたんだな、とわかります。
母も自分で"良くない"ってところを悟っていたのでしょう。
私は結局、その高校に入った理由に立ち返り部活を続けました。朝7時に家を出て、授業を受け、部活をこなし、塾に通い23時に帰宅し、その後も勉強するという生活を送っていました。
そんな生活を送っていたので母と顔を合わせるタイミングが朝くらいになってしまいました。寂しい思いをさせてしまっていました。癌の進行具合が進んだことや孤独感を味あわせてしまったことが起因したのか母の容体はどんどん悪くなっていきました。
当時の私は本当にどうすれば良いのか分かりませんでした。部活、勉強を優先すれば母が取り残されてしまう、母を優先すれば他のことがおろそかになってしまいます。
今となっては人の命を優先するべき、と分かりますが、高校生の私は混乱するしかありませんでした。兄はいましたが、大学で下宿しておりこちらの状況は分かりません。状況を把握しているのは私だけでしたが、誰に話すこともできずにいました。
そのような状況が8月まで続きました。母も限界、私も限界でした。
さすがに担任の先生には相談した方が良いのかな?と思っていた矢先、母が入院しました。
入院しても母の容体が良くはならない、私から見ても分かりました。
その時にやっと分かったのです。これは本当に良くならない。
母が急変、余命宣告
母は入院しました。が容体が良くなっていないのにも関わらず退院しました。常々母は入院が嫌いと言っていましたが、この退院が良い方向に向かわないことは明白に感じられました。
私は家でも辛そうにしている母をみていたたまれない気持ちでした。
それでもどうしていいか分からないのです。
母については叔母が来てくれたので任せていました。だから思うことはありましたが、学校・部活に行っていました。
9月ごろ部活の公式戦で久々の先発での出場がありました。
私としてはこれまでのサッカー生活の集大成の気持ちでのぞみ、久々に自分の納得のいくプレーができました。部活について、母に良い話ができていなかったので報告するのが楽しみでした。
しかし、その日に帰ると母は家にいませんでした。
電話してみると母の実家にいることが判明しました。
その時に"けいしょーは大切なことを忘れているよ"と言われました。悪気がない言葉だとは分かっていました。それほど母は限界だったのだと思います。
私は翌日、母の実家に向かいました。
そこで母の変わり果てた姿に驚きました。
もう自分で立つことができないほど弱っていたのです。
私が手を貸そうとすると"辞めて、自分で動けるからほっといて"と言われました。母なりに弱っている自分に抗おうとしていたことは分かりました。私もやっと理解しました。"ここまで悪化していたのか"気づいた頃には遅かったのです。
その翌日でした。叔母と祖母が母の様子をみかねて、知り合いの医師を紹介する、といい知人の看護師に招かれその看護師の病院にいきました。
しかしながら、元々母は別の病院にいた患者です。さらに状態はかなり悪く、この状態で病院を移すことは厳しいと言われてしまいました。病院からしたら当然の判断です。
その感にも母の容体は私からみても悪化しているのが分かりました。
車に揺られる母はずっと"けいちゃんごめんね、ごめんね"とかすれた声で言うのです。そんなこと言わないでくれよ。ここまで無理させてごめん。
そしてかかりつけの病院に移動しました。即入院です。
その時に担当のお医者さんから説明がありました。
"もうもっても1週間です"
私は頭が真っ白になると同時にそれまでの自分のしてきたことを恨みました。
母が亡くなるまでの5日間
もう残された時間に限りがあるので学校を午前中で切り上げできるだけ母の隣にいました。
母は自分の仕事の心配をしはじめたり、私に"ご飯食べたの?早く食べなさい"とこんな状況で呂律が回らなくなっても私の心配をするのです。
父が亡くなった後、辛い気持ちを抑えながらも私と兄を第一優先に考えてくれて、息抜きしている姿も無い母でしたが、最後の最後まで私たちの心配をしているのです。母親の強さを感じました。
後から叔母から聞いた話ですが、叔母がいるときは辛い顔をするのに、私が駆けつけると少し様子が良くなっていたようでした。子どもを不安にさせたく無い母の気持ちを感じられますね。
入院して5日目でした。
私は母が入院してから学校に行く前に病院によっていました。
その日もいつも通り、"行ってくるね"と母に言い残して去りました。
母は非常に苦しそうにしていましたが"行ってらっしゃい"そう言っていました。
これが母がこの世を去る前に最後に発した言葉でした。
これも後から叔母から聞いた話で、"行ってらっしゃい"と言って僕が去った後も"行ってらっしゃい"と言い続け手を振っていたみたいです。そしてある程度続けた後に眠りについてしまったみたいです。
私はこの日、午後に母の病室に戻りました。
声をかけても返ってきません。
私は眠っているだけだと思っていましたが、2時間ほど経過した後にお医者さんが来ました。
お医者さんは脈を触った後にこう言いました。
"不整脈を起こしています"
"今日が最後になると思ってください"
そう言われ、私は母の手をずっと握っていました。
もう最期の時間。そのときは突然訪れます。
人間で最後に死ぬ部分は"耳"って聞いたことがあります。
だからこそ最後まで声をかけてあげました。
これまでの感謝の気持ち、言いたいことは全部言えなかったけれど気持ちは伝わったかなって思ってます。最期だからこそ伝えたいことが多すぎて・・なにを言えば良いか分かりませんでしたが、言うだけ言いました。ぼろぼろ泣きながら。
そのとき母の目はかすかに動くんです。
動いたように見えた、かもしれませんが確かに私には動いたように見えました。
私は体が動かなくなっても声をかけることで気持ちは伝わると思っています。
人の最後がどうなのか、父のときは立ち会えなかったのでこれが初めてです。
とてつもなく弱い炎が徐々に、徐々に弱まり、少しずつ、ほんの少しずつ消えていくようなんです。その炎のごとく息を吸う力が徐々に弱まり、息を吸うペースが遅くなり、息が浅くなっていくのです。
母が危篤になった後は、続々と親戚が訪れて来ました。
そして親戚ほぼ全員が到着した直後でした。
母は深く、深く、息を吐いた後に吸うことはありませんでした。
心電図が止まり、お医者さんが駆けつけ死亡が伝えられました。
母は亡くなったのです。
正直、心の中にぽっかりと穴が空いた感じがしました。
本当にかけがえのない人が亡くなり、涙は出ましたが、心が浄化されない涙。実感がなさすぎて"死んだ"という事実が実感できないのです。
兄と私だけ母の病室に残された時に自分で取り乱したのを覚えています。
"信じられねえよ"と叫んでしまいました。
兄から思い切り背中を叩かれ、"しっかりしろ"と言われたのを覚えています。冷静でいましたが本当は兄が一番不安だったと思っています。母を不安にさせないためにしっかりしなければならない、そのときは思っていました。
記憶に残ったお医者さんの話
その後お医者さんからお話を受けたことを覚えています。
"こんな結果になってしまったけど、君たちのお母さんをどうか讃えてあげて欲しい。癌を発症してから7年。普通だったらこんなに持たない。君たちという存在が原動力になっていたに違いないんだ。そんなお母さんの気持ちを汲み取って力強く生きてくれ"
今思い起こすと非常に突き刺さる言葉です。母が私と兄をどれだけ大切に思って来たかが分かります。
確かに普通じゃないです。
本当はもっと生きて欲しかったのですが、これだけ頑張ってもらってたら何も言えません。母はどんなに辛い状況でも私たちを第一に思ってくれました。母親でありながら父親の役目も果たしていました。一番頼りになり誰よりも優しい人で、私たちを導いてくれました。
本当にありがとうございました。
今後について
ただ、亡くなってからしばらくはうまく悲しめずに苦しく苦しく生きていました。
亡くなって初めてわかることです。父の時も同様です。
一番話したいはずの親がいなくなってしまった。誰に相談すれば良いのか、親戚に頼っても悪いし・・友達にも言いづらいし・・
すっきりしない心の穴にあの当時は悩まされていました。
今後はnoteにどうやって埋めてきたのかも含めて内容を更新していこうと思っています。
また、まとまってないですね笑
今後もよろしくおねがいします。
けいしょー