東日本大震災の時にmixiをやっていて人生が変わった話
昨日2月13日夜23時過ぎに福島で大きな地震がありました。
福島県の中通りと浜通り、宮城県南部で震度6強が観測されています。
もうすぐ東日本大震災から丸10年というタイミングだったため、当時のことを思い出した人も多いようです。
私自身も311の時は茨城県北部に住んでおり被災したため、当時住んでいた場所の今回の地震の被害状況を調べましたが、大きな被害はないようで一安心しました。
まだしばらくは余震が続く可能性があるので、東北や北関東にお住まいの方は、用心が必要かと思います。
また、個人的な話ですが昨日ちょうど、最近流行りのClubhouseに招待していただく機会があり、始めてみました。
昨日の地震の後にClubhouseを見てみると、さっそく地震の状況について話しているルームがあり、10年前にはmixiやtwitterでの情報発信が盛んだったことを思い出しました。
10年前を振り返ってみると、東日本大震災の時にmixiをやっていたことで、その後の人生が大きく変わったと改めて思ったので、当時の記憶を覚えているうちに記録してみたいと思います。
長文になってしまったので、ご注意ください。
地震の当日
2011年3月11日、私は茨城県北茨城市の工場で働いていました。
工場といっても、職種は原価管理をやっており製造現場にはいなかったので、地震の際は、着の身着のままで建物を飛び出しました。
最初、揺れがあった時には少し大きいと感じたものの、その揺れが収まらず、次第に大きくなってきたため、職場の人たちと顔を見合わせて、誰かが職場から外へ飛び出したのに続いてみんな避難したのを覚えています。
建物の外へ出たものの、まだ情報が錯綜しており、どこが震源かも分かっていませんでした。地震直後は予備電源で電波塔が生きているために、その時はまだネットも使えており、真っ先に飛んできたニュースが千葉のコンビナートが炎上しているニュースだったので、震源は東京ではないかという憶測もありました。
働いていた工場自体は、高台にあり地盤がしっかりしていたため、大きな被害はありませんでした。
その時はまだ外が明るかったため気づかなかったのですが、電気は使えなくなっており、事務所は暗く、当然パソコンも使える状態ではなくなっていました。
そのような状態では、私のような間接部門の人間はできることもなく、とりあえず帰宅するように指示が出ました。
当時は会社の寮に住んでおり、寮から工場へは車で通勤していましたが、停電のためもちろん信号機もすべて止まっており、慎重に運転しながら帰ったのを覚えています。
ちなみに、私が住んでいた地域の海側はこの時には既に津波の被害が出ていましたが、幸いにして私の勤める工場や住んでいる寮は山側にあったため、津波の被害に遭うことはなく、津波があったことを知ったのも翌日になってからでした。
多少身バレを覚悟して分かりやすく地域の状況を書くと、JR常磐線が通っている地域であり、線路を挟んで海側は床下浸水レベルのものも含めて水害があり、線路から山側は水害はほぼありませんでした。
寮の自分の部屋に帰ると、本棚が倒れていました。他にも物が散らばっていたり、壁にひびが入っていたりはしましたが、それくらいの被害で済んだのは不幸中の幸いでした。
電気も水道も止まっていたため、どうしようかと思いましたが、これも幸いなことに寮に住んでいたため、同じ寮の人たちと食料やコンロ、ろうそく、酒などを出し合って、夜は鍋パーティーをすることができました。
この大変な時に一人だと本当に辛いので、協力できる人たちが近くにいたことは幸運でした。
この時点で、電気がなくテレビは点かないものの、ネットから断片的に情報を拾ったり、東京などほかの地域の人からの連絡で、なんとなく地震の全貌が分かってきていました。
寮には固定電話があったので、東北地方に実家がある人は、固定電話から電話をかけて家族の安否を確認している人もいました。
また、手回し式のラジオがあったので、手動で充電したラジオをずっと点けて情報収集はしていました。
ラジオの情報も錯綜しており、私の住んでいた地域の最大震度は、最初は震度6強と聞いていたのですが、その後に震度6弱に修正されていました。同じ県内でも、震源からの距離だけではなく、地盤の強弱によって震度には大きな違いがあったようです。
寮の建物は築30年以上経っており、震度4前後の余震が絶えなかったため、その日は用心して部屋ではなく車で寝ました。倒れた本棚と散らばった本も、きちんと片付けきれていなかったこともあります。
地震の翌日から週明けにかけて
翌朝には、携帯の電波がほぼなくなっており、その日の昼から翌日くらいにかけて電波は弱まり、それ以降しばらく、インターネットはまったく使えない状態になりました。
この頃から、福島原発が爆発して放射能が飛んできているから窓を開けてはいけないとか、どこそこで火事が起きたなど、噂話に尾ひれはひれがついて広まるようになってきたように思います。噂の真偽も分からないため、とりあえず用心するにこしたことはない、くらいの感じでしたが。
電気も水道も使えず、復旧もいつになるか分からなかったため、直近の課題として食料の調達がありました。
これまた寮のメリットがあり、手分けして朝から近所のスーパーへ行き、必要なものを必要な分だけ買いました。個人や地域の普通の家族の方々の迷惑にならないように、買い占めにはならないように注意はしました。
スーパーも、どのスーパーが営業しているか分からなかったため、現地・現場での情報収集が必要でした。
結果として、ほとんどのスーパーは営業していました。
冷凍食品や冷蔵品は投げ売り状態になっていましたが、寮で人数がいるため、投げ売りになっているものを優先して購入しました。
電気がなくレジが使えないので、店員の方たちが勘で百円単位で精算しているのは珍しい経験でした。
大地震の翌日にも関わらず働いてくださっていた方々には、本当に感謝です。
ちなみにこの時、停電時は電子マネーやクレジットカードは使えず、銀行やコンビニのATMも使えなくなるので、普段から現金を多めに持っておくとよいという教訓が得られました。
週末は、そんな感じで買い出しに行ったくらいで、あとはなるべく体力も食料も消費しないように、おとなしく過ごしました。
週が明けて平日になりましたが、相変わらず電気も水も使えず、会社から寮に待機命令もあったため、大人しく過ごしていました。
茨城の田舎だったため、この頃になるとガソリン不足が大きな問題になってきました。
食料、水、電気、ガソリンというライフラインがすべて使えない状態です。
あと衛生問題も大きな問題でしたが、これも幸いにして寮の近くに川があったため、川の水を汲んできてトイレを流していました。
そうこうしているうちに、会社から少なくとも2週間は出勤しなくてよいという連絡があり、時間ができたものの、食料もガソリンもない中で、何もできない日々が続きました。
少しづつの復旧、そしてmixiの開始
そして1週間経った頃、ようやく電気が復旧。インターネットも使えるようになりました。
電気が使えるようになったのは地域によって時差があり、隣町は電気がついて明るいのに、こっち側は真っ暗というのは、なかなかできない体験かもしれません。
その後、水道も復旧し使えるようになりましたが、物流はまだ回復しておらず、食料やガソリンはいつ入ってくるか分からない状況が続きました。
そんな先が見えない状況で、なおかつ仕事はまだできず時間だけはあったので、当時まだ流行っていたmixiでコミュニティを作り、情報収集発信を行うことにしました。
↓当時立ち上げたコミュニティです。まだ残っていました。
茨城県北支援【東日本大震災】
https://mixi.jp/view_community.pl?id=5531659
mixiコミュニティの管理人も初めてだったので、何もわからないところからのスタートでしたが、情報発信しているうちに助けてくれる人も出てきて、何とかコミュニティとして情報収集・発信のハブとなったと思います。
今もコミュニティページが残っていますが、登録を残してくれている方が603名もいらっしゃることに驚きました。
渦中の最盛期の時は1,000人近くの方が入っていただいていたと記憶していますが、被害が落ち着き復興された今でも、多くの方が、単純に忘れていたりmixiをやっていないだけであったとしても、そこに痕跡を残していただいているということに、感謝をさせていただきます。
ちなみに、後日ですが、ダイヤモンド・オンラインの記事でもコミュニティのことを取り上げていただいていました。
「ツイッターだけじゃない! 実名至上主義ではない国産SNS「ミクシィ」が 震災時に示した公共情報インフラとしての可能性|コンテンツ業界キャッチアップ|ダイヤモンド・オンライン」
http://diamond.jp/articles/-/12390?page=4
現地ボランティアの活動など
こうして、しばらくはmixiやtwitterによる情報発信を続けていましたが、食料やガソリンのある程度の目途がついた段階で、私自身は現地ボランティアにも参加しました。
当時、常磐道など高速道路はすぐに復旧しましたが、常磐線など電車はしばらくは不通でした。国道も通じており、自動車による交通インフラの復旧は比較的早かったため、私が住んでいる地域には支援物資が多く届けられていました。
しかし、その支援物資を仕分けるための人手が足りない。また、その仕分けた支援物資を必要な人に届けるための仕組みもない。支援物資のマッチングが大きな課題でした。
とりあえず人手が不足している支援物資の仕分けを私もボランティアで手伝いました。
当時は、とりあえずできることをやる感じでしたが、今思えば、支援物資のマッチングをひとつのプロジェクトとして見て、プロジェクトマネジメント的な動きができる人がいれば、もっとスムーズだったのかもしれません。
実際にあった出来事として、私がいた茨城の某市役所は支援物資を置くための場所が狭くなり、実際に物資も充足してきたので、支援物資を積んで入ってきたトラックをそのまま、他の市町村に行ってもらうということをしていました。
ただ、情報連携は完全ではなかったので、どこそこではまだ物資が足りていない「らしい」という伝聞情報を元にしていました。
ある程度広域範囲で、物資のマッチングができるようになるとよいのかもしれません。
普通の暮らしに戻った中での決断
そのようにしてオンラインや現地でのボランティアなど、できることを続けていましたが、しばらくすると会社も復旧し、仕事も通常業務に戻りました。
そうなってくると、まだ普通の生活ができていない人たちがいる中で、自分が普通の生活をしていることに対しての葛藤や罪悪感が生まれてきました。
ある意味では仕方ないことですし、普通の生活をできる人から普通の生活に戻っていかないと、震災前の社会には戻らないことは頭では理解できていても、感情との乖離がある状態でした。
色々と悩んだ結果、その時勤めていた会社を辞めて、東京でITコンサルタントに転職する決断をしました。
中途半端な決断に見えるかもしれないですが、mxiでITの力が強いことを実感しましたし、大企業や官公庁に働きかけて社会を良い方向に変えていけるのではないかという青臭い考えから、未経験から異業種に挑戦するという当時の自分としては本当に思い切った決断でした。
その後の転職活動や、転職してからのITコンサルタントとしての仕事については、また別の機会があれば語らせていただくこととして、今回は割愛させていただきます。
その後
そこから現在に至る経緯をざっくり記載しておくと、最初に転職したITコンサル会社からまた別の大手ファームへ転職したのも含めてITコンサルとして東京で4年ほど働いた後に、出身地の北海道にUターン移住し、農業向けの経営コンサルを経た後に再度また別のITコンサルに転職し、現在も札幌でITコンサルの仕事を続けています。
ちなみに、2018年には北海道胆振東部地震を札幌で経験しました。
北海道胆振東部地震の時は、停電と、停電に伴うマンションの断水に遭いましたが、東日本大震災の時の経験が生きて、家にカセットコンロや手回しラジオ、懐中電灯、現金等を常備していたので、あまり困ることなく過ごすことができました。
人生は選択の連続といいますが、東日本大震災の時にmixiをやっていなければ、ITコンサルに転職することも、北海道にUターンすることもなかったかもしれないと思うと、人生はいつどこでどう変わるか、本当に分からないと思います。
その後も色々なことがありましたが、ITコンサルの本業とは別に、妖怪関係やSDGsだったり色々な仕事の幅を広げる機会もあり、キャリアや人生の選択は、偶然の積み重ねが本当に大きいと感じています。
自分の意志で選択したように思えることも、そのきっかけは偶然の産物であることもあり、流されつつも自分がどこに向かいたいのかは考えていきたいと思います。
自分の次の10年後がどうなっていくのか、怖くもあり、楽しみでもあったりします。
長くなってしまいましたが、一人の人間の人生が東日本大震災とmixiをきっかけに、大きく変わったお話でした。