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小倉先生について
20年くらい前になると思う。 穴が空くほどこの動画に没頭した。 今見れば画質の荒さが時代を感じさせるが 今も熱を帯びている。 唐突に、小倉先生の事を書きたいと思う。 自分のルーツだからだ。 小倉先生の存在は、大学時代 友人から聞かされた。 友人が主催する「Team des shabary」という よさこいチームに所属していた自分は、 高知でやばいチーム、やばい人がいるんだ。 と聞いていた。 それが よさこいチーム「セントラル」 振付師の小倉卓浩氏である。 2003年のセントラルの作品。 通称「03」。 高知で初めてその演舞を目の当たりにした時、作品はもちろんのこと、小倉先生の演舞そのものに度肝を抜かれたのを覚えている。 高知城での演舞の際、小倉先生が鳴子ごと地面を叩き、バーンッ!と破裂した鳴子が空高く舞い上がった。それがあまりにも凄まじくて、それさえも演出かのように完璧だった。 (感動でめっちゃ泣いた。) 喜怒哀楽の四方向に剥き出す踊り。 自分の知っているよさこいとは明らかに違う。 こんなよさこいがあるのか。 それからはよさこいというより 小倉先生の踊り、作品の虜になった。 初めてお会いしたのも緊張した。 桜木町駅で、遠くから「おーい!」と笑顔で軽快に歩いてくる小倉先生。 色暗めのタンクトップ、短パン、サンダルという一見地味な出で立ちが逆に達人的威圧感を醸し出し、明らかに周囲と違う雰囲気を纏って迫ってきた。(めっちゃ怖かった。緊張した。) この時はもちろん作品を共に作れる関係など想像していなかった。 小倉先生の踊りの魅力は一言では語れない。 楽しそうでもどこか儚い。 悲しそうでも希望が見出せる。 ある人が、「ガラスの様に壊れそう」 と言っていたことが当てはまる。 繊細で、絶妙にアンバランスなのだ。 それは進化を続ける身体性も相まって 毎年深さが増していく。 作曲する立場から見ると、 楽曲に対するアプローチが面白い。 独特の「間」がある。 ただ楽曲の拍に寄り添ったりはしない。 先ず身体の方向性があり、 始まりから終わりまで 物語があり、密度がある。 そして独自の身体のメロディがある。 楽曲とは別に 踊りという主旋律が生まれる。 (そう、メインメロディになる。) 「頭の中で別の曲が流れている。」 「僕にはこう聞こえて。」 楽曲と完全に一致する動きではなく ここでも身体を主体とした 楽曲に対するアンバランスさを絶妙に加えている。 よって曲への要望も凄まじい。 初め無知な自分はヒーヒー言っていたが、 この妥協しない姿勢無くしては自分も成長しなかった。 そもそも、お客さんにどれだけ届くかが指標になっているのだ。お客さんの琴線に触れるにはという思い。そして、ただ大衆に合致する優しいものではなく、自身の想いとバランスを取りながらアンバランスに、攻める。そのために妥協しない。 小倉先生の元で 作曲させて頂くことになりもう10年。 様々な環境の変化の中 いつまでこの方の曲を作ることができるのか。 とつくづく思う次第である。 作曲に至った経緯などを書こうと思ったが 敢えて我が師 小倉先生について書きたいと 唐突に思った。