「クウェインの石は一人じゃ上がらない」(三輪颯太 短距離・107代副将)
こんにちは、107代副将の三輪颯太です。
去年と一昨年のこの時期は、卒部ムービーの作成に追われていた頃なので、先輩方の引退ブログは大抵ALL KEIO後に一気見していたのですが、今年はついにムービーも作られる側になりました。
(今年はダブル西尾が作ってくれました。まだ見てないけどありがとう!)
一気に見るのではなく、1日ずつ更新されていくのをゆっくり味わうのは初めてで、みんな本当に良いこと書くなぁ〜と、毎日本当に感動しています。
ほんと、ちょっとは終盤に書く僕たちのことも考えて欲しいです。
この先みんなを感動させられるようなことを書けるか全く自信が無いながらも、一生懸命書くのでぜひ最後まで読んでってください。
4年間を振り返る
大1 挫折/絶望
僕は全国二冠の称号を背負ってこの競走部に来ました。
記録はすでに全カレ標準を切っていて、入部と同時に短短ブロックでトップの座を得ました。(自慢じゃ無いです。このあとちゃんと挫折するのでご安心を。)
1年生ながら、六大、関カレ、U20日本選手権、慶同戦、全カレに出場しましたが、みなさんご存知の通り結果は散々でした。
六大4継ではコーナーで膝を痛めて不甲斐ない走りをして4位。
関カレは個人2種目予選落ち。リレーは僕の区間でバトンミスをして失格。
失格後のゴール地点にて、4年の先輩方の涙を見ました。そこでようやく、先輩たちのラスト関カレを終わらせてしまったことに気づき、申し訳ない気持ちと自分への怒り、そして公式戦の重みを理解しました。
悔しさを胸に臨んだU20も結局予選落ち。
他校の同期が活躍するのを見て、「1年前は全員に勝っていたはずなのに…」と、絶望感に打ちひしがれました。
今までなんとなく、環境が変わったせいだとか、心のどこかで言い訳していた部分が、同じように環境が変わったはずの同期たちにどんどん置いていかれることで、ついに言い訳が効かなくなってきました。
当然です。環境が変わっても一番結果を出し続けていた同期が一番近くにいたのに、そんな言い訳通じるわけないですね。
全カレも100mで予選落ちし、4継は力及ばず組3着で予選落ち。
後半の日程には200mが控えていましたが、「出ても勝てないなら意味なくね?」と思い、膝の痛みを理由に棄権。(膝の痛みは嘘ではなく実際痛かったのだが、メンタルのほうがやられていた)
埼玉という地元開催だったこともあり、実家から通っていたので、後半2日は応援にも行かずに実家で過ごしていた気がします。(嫌な記憶すぎてあんまり覚えてない)
豊田が居るマイルチームは入賞を果たしたという事実すら、当時の僕にとってはあまり耳に入れたく無いニュースだったので、そのときの感動を僕は知りません。
ごめんなさい。それくらい腐ってました。
そんな挫折と絶望ばかりの1年でしたが、ちょっとだけ良いこともありました。
それは慶同戦の8継です。
最終種目の8継前、男子対校得点は慶應30.5点,同志社29.5点で、8継が勝ったほうが優勝という、部の勝利がかかっているレースに出場しました。
結果は、なんと着差アリ同タイムで僕たちが勝ったのです。
判定までどっちが勝ったか分からないあの緊迫した空気の中、結果が出て喜びが爆発した瞬間は、決して忘れられるものではありません。
この勝利のおかげで、公式戦で勝利するとはどういうことかを知れた気がします。
大2 悲観/貪欲
大2の春は、関カレの標準を切るという目標から始まりました。
というのも、資格記録の有効期限は1年なので、大1の記録だと100も200もB標準しか切れていない状況だったのです。
B標は各大学から1人までと出場できる人数が決まっていたので、僕がその枠を使ってしまうと、慶應でB標突破した人が出れないということになってしまうのです。
チームの誰かの機会を奪いたく無い、迷惑をかけたく無いという気持ち、ある意味短短ブロック内トップの責任感として、A標だけは切らなくてはと思い、春先の記録会にたくさん出場しました。
1年前までは自分で勝手に腐っていても、誰かの機会を奪うことはありませんでしたが「今年からは誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない…」という気持ちから、自分を無理やり奮い立たせました。
責任感で自分のお尻を叩き、全国二冠という過去の栄光やプライドは捨て去り、がむしゃらに練習をした結果、高野さんやかずささんのお力添えもあり、なんとか100mでA標準を突破しました。
そして臨んだ関カレにて、100mは準決勝出場,200mは8位入賞を果たしました。
明らかに去年とは異なる手応えを感じると同時に、高野さんやかずささん,サポートに応援の力という、周囲の人に恵まれた結果であると実感しました。
準決を着で通過したときの応援席の「みわー!」という雄叫び(たしか池田さん笑)すごく嬉しかったなぁ(コロナで応援制限かかってたから注意されたらしいけど笑)
関カレ後、県選でも100と200で準優勝して、段々と出る杭になってきました。
そう、出る杭です。出る杭は打たれるものです。
なんだかんだ大学陸上もうまくいきそうだと楽観的になってた僕を打ちのめしてくれた男がいます。そう、我らが主将、豊田兼です。
7月に行われた慶大競技会の200mに、僕たちは同じ組で出場しました。
午前中に兼は400mで46秒6で走った疲労も残る中、僕は彼に惨敗しました。
仮にも関カレ入賞者なので、勝って当然だと思っていた僕の自尊心は、粉々に砕け散りました。
あまりにも悔しすぎて、レース後トレ室に篭ってずっと鏡を見ながら、フォームを確認しては嘆き、確認しては嘆きを繰り返していました。
この程度じゃ大学陸上では戦っていけないぞと、鞭を打ってくれた気がしました。おかげで、楽観的ではなく悲観的になることで自分を追い込むようになりました。
悲観的とは、常に現状に対して問題意識を持ち続け、足りないものを模索する姿勢という意味です。良い言葉で言い換えればハングリー精神ですね。
そうして、兼が貪欲な姿勢を僕に思い出させてくれたおかげで、全カレでは100mで自己ベストタイ記録をマークできました。
公認ギリギリ風だったし、ハムも肉離れしたけど、過去の自分に並べたことで、ようやく大学陸上が始まった気がしました。
と、一瞬思いましたが、並んだというより、全く新しい自分として同じ土俵まで上がって来れたという表現の方が正しいと思い直しました。
この2年の中で身体も走りもすごく変わっていて、まだまだ現状に満足していない状態でベストタイまで来れたというのは、やはり並んだと表現するのではなく、生まれ変わったと表現するほうが近いでしょう。
まだまだ伸びしろを感じられるように生まれ変わらせてくれた高野さんには、篠宮同様、僕も頭が上がりません。生まれ変わったと表現するなら高野さんは僕の走りの生みの親みたいなものですね。
大2の全カレを語るなら、リレーの話も欠かせません。
関カレでまたしてもやってしまったバトンミスのリベンジや、休学してまで全カレ4継のために賭けてきた富山さんの想い、そして1年の関カレで見た先輩方の涙を晴らすためにも、本気で決勝を目指していました。
だからこそ、100でハムが怖くなったけど気持ちで走りました。
予選を組1着でゴールした時は流石に行けたと思いましたが、全体9番の記録で拾われず、あと一歩のところで決勝を逃しました。
自分があともう少し足が早ければと、自分の無力さでまた先輩たちのレースが終わっていくことがとても悔しかったのを覚えています。
来年こそは必ずリレーで結果を出すと心に決めた瞬間でもありました。
大3 仲間/成長
大3は、本当にいろいろありました。
六大学優勝
学生個人の絶不調
関カレでの焦り
全カレと日本選手権リレー
エコパで自己ベスト
【六大学優勝】
六大学については過去の幹部ブログにて触れているので、そちらを併せて読んでいただければと思います。
簡単にまとめると、僕が人生で一番チームのことを想って走ったレースでした。
国立での開催に漕ぎ着けるために奔走してくれた主務系(詳しくは竹内のブログを読んでね)
場所取りで早朝から働き、練習では選手よりもずっと日向で動画撮影をしてくれるマネージャー
自分のことのように親身にケアをしてくれ、選手より選手の体のことを知っているであろうトレーナー
走りで僕を生まれ変わらせてくれて、いつも勝利を信じて送り出してくれるコーチ
喉が潰れるほどの声援をくれる応援席のみんな
そういった方々に感謝を伝えることができた最高の試合でした。
決勝スタート前の竹内の激励と、ゴール後に横田と昆布が一緒に喜んでくれたこと、ゲンジがインタビューで最高に盛り上げてくれたこと、涼方が駆けつけてきてくれて撮ったツーショット、どれも最高の思い出で宝物です。
【学生個人での絶不調】
2023年の学生個人は、ユニバーシアードの代表権がかかっていて、非常に重要な試合でした。
大学入学時に定めた一番の目標が、ユニバーシアードで日本代表を目指すというものだったので、それほどこの試合に対する思い入れは強いものでした。
にもかかわらず、結果は2種目準決落ち。六大では勝つことができた早稲田の稲毛さんは3位で代表に繰り上がり。
あんなに良かった六大の直後になぜ急に調子を落としたのか。
今思えば、六大はチームのためを想ったからこそ発揮できた力で、本人の実力以上のパフォーマンスが出せていただけだったかもしれません。
チームというものは自分が思っているよりもパワーを分けてくれる存在であり、自分一人だと案外大したことないのだと知りました。
【関カレでの焦り】
2023年の関東インカレは、200mで3位入賞、4継は悲願の決勝進出という結果で、焦りという言葉に頭に?が浮かんだ人がいるのでは無いでしょうか。
事が起こったのは、2日目の朝でした。
なんと、100mの準決勝を走った廣木さんに自己ベストを抜かされたのです。
度肝を抜きました。まさか在学中に自分より速い人が同じ部活に現れるとは思ってもいなかったからです。しかも先輩が。(大変失礼極まりなくてごめんなさい)
でも、それくらい本当に焦りました。
ずっと前ばかり見ていたら、いつの間にか追い抜かされていたのです。そして、自分のすぐ後ろには篠宮という存在がメラメラと闘志を燃やしていることにも、そこで初めて気づきました。
今まで部内で対抗意識を持っていたのは兼と岩井くらいでしたが、2人はまだ種目が違う分、練習で直接対抗意識を燃やすというより、試合の結果で対抗意識を燃やすことの方が多かったです。
しかし、関カレ以降は廣木さんと篠宮に対して、特に練習で対抗意識を燃やし始めました。
ライバルがすぐ近くにいることで、練習への向き合い方が変わり、より身の入った練習ができるようになりました。おかげで布勢では自己ベストを更新し、部内エースの座を奪還できました。しかし、関カレ以降ライバルの存在の大切さに気づいた僕は、すぐ背後に迫る2人への対抗意識を忘れたことはありませんでした。
ライバルって大事だね。2人とも、ありがとうございます。
そういえば…と軽く語れることでも無いのですが、4継の話も少し。
悲願の決勝進出を果たしましたが、いよいよこれまでの想いをぶつけるぞというところで、またしてもバトンミスで失格となってしまいました。
これで関カレは3年連続4継失格。僕が呪われているのかもしれませんね。
先輩方の涙や想いを晴らすのはまたしても延期となってしまいました。
【全カレと日本選手権リレー】
全カレでは、100mで4位と、大学初の全国大会入賞をすることができました。
これまでの経験から、いろんな人に助けてもらいながら勝負に臨みました。
特に、アップ前とレース後に毎回ケアをしてくれた大江さんには頭が上がりません。1日に多くて3本も走る僕のケアを毎回素晴らしいクオリティでしてくれて、本当に助かりました。
大江さんのケアの力だけで入賞できたと言っても過言ではありません。
それくらい体の感覚にケア前後で違いがあったし、なにより僕の体の感覚の悩みをちゃんと理解しようと聞いてくれて、一緒に悩んで解決しようとしてくれました。おかげで大学初全国入賞という、自信につながる結果と手応えをようやく掴むことができました。
そして、4継ではついに5位入賞を果たすことができました。
塾記録も更新できて、先輩方の涙と想いも少しは報われたかと思うと嬉しかったのですが、足りないものがありました。
それは、篠宮の存在です。100mでも標準記録を突破し、出場することが決まっていた篠宮が試合直前で体調を崩し、100mも4継も出場できなかったのです。
家で死ぬほど悔しい想いをしているはずの篠宮は、試合前の日の夜に4継メンバーのLINEに激励メッセージを一人一人に送ってくれました。
あのメッセージ、めちゃくちゃパワーもらえたよ、本当にありがとう。
でもやっぱり一緒に走って、一緒に塾記録に名前を刻みたい。
そう思えたからこそ、日本選手権リレーまでメンバー全員頑張れたし、結果もついてきて優勝することができたのだと思います。
日本選手権リレーのときの想いは、本当にメンバー全員同じ想いだったと思います。篠宮のブログを読んでいて改めてそう感じました。
なので、ぜひまだ読んでない人は今までの幹部ブログも含めて篠宮のブログを読んでください。
【エコパで自己ベスト】
日本選手権リレーをいい形で締めくくり、ALL KEIOも終えて完全に終了ムードの中、沸々と戦意を保ち続けていた私は、エコパに出場して自己ベストを更新しました。
Q.なぜ自己ベストを出せたか?
A.高野さんの言う通りに動いたら予選より0.1秒速くなったから。
決勝前に魔法のようなアドバイスを下さった高野さん、本当にありがとうございます。今までも散々理解してはいたのですが、このとき改めて高野さんの凄さを理解しました。偉大なコーチすぎて、心強さが半端ないです本当に。
そして涼方、グランプリでもないのに静岡まで帯同してくれて本当にありがとう。
僕は普段、外部の治療院には行かずに涼方にケアをしてもらっています。
それほど頼りにしている涼方が来てくれて心強かったわ!まじで!
そしてエコパといえば…太郎(西尾)
スパイク貸してくれて本当にありがとう。めちゃくちゃ走りやすかった。
こうして、またしても多くの人に助けてもらい自己ベストを更新できたおかげで、シニアの土俵でも世界を目指すという目標を現実的に掲げることができるようになりました。
大4 世界/反省
ついに2024年になりました。日本代表を目標に掲げ、まず目に入ったのはパリ五輪の4継メンバーになることでした。
要項を見ると、5月の世界リレー代表になれれば、パリ五輪の4継メンバー候補者になれるとのことだったので、世界リレー代表をまずは目指しました。
世界リレーの代表になるには、4月の出雲記念で結果を出さなければならないため、如何にシーズンの序盤に調子を合わせるか高野さんと計画を立て、早めにシーズンインをして暖かい場所で練習をするという作戦を立てました。
オーストラリアや鹿児島、沖縄と様々な場所で練習をして、いろいろな人にお世話になりました。
中でも、オーストラリアは山縣さん,駿斗さん,デーデーさんと共に行動させていただき、高いレベルでの練習はかけがえのない経験になりました。
また、世界の舞台を目指す上で海外で陸上の経験をしておくというのは、目標に現実味をもたせる意味でも非常に良い経験ができたと思っています。
そうして色々奔走し、迎えた出雲記念。準決勝では向かい風の中自己ベストを更新し、決勝は4位で世界リレー代表になることができました。
冬季前に立てた作戦通りにことが進み、出雲前は自分の調子がいいことがわかっていたので、自信に満ち溢れていました。大江さんと高野さんにも帯同していただけて、とても心強かったです。ありがとうございます。
黒住も完璧なサポートをしてくれたので、動きやすかったです。ありがとう。
いざ日本代表として迎えた世界リレーでは、当初は4走はハキームさんで、僕は控えの予定でした。しかし、現地でハキームさんが1走に変わることが決まり、急に出走の機会が巡ってきました。
出雲では僕は4位だったし、2位と3位の木梨さんと山本くんを差し置いて僕が出るのは相応しくないかも…と、普通なら思うかもしれません。
しかし、僕は違いました。それは、リレーに対する思い入れを慶應で死ぬほど養ってきた背景があり、日本選手権優勝チームのエースを任されていたという自信があったからでしょう。
大1〜大2までのリレーでの悔しい想い、そしてそれを乗り越えた大3の経験、競走部で養ってきたことがあったから、世界リレーの予選でバトンを少しミスしても、自分自身の走りができたのだと思います。
これまでの競走部での日々と、現地で引っ張ってくれたチームジャパンに感謝。
帰国後、すぐに関カレが始まりました。
日本代表選手として誇りをもって臨んだので、疲労を言い訳にせず勝ちを狙いに行きましたが、結果は200mで5位。去年の結果に劣る不甲斐ないものでした。
自分には幻滅しましたが、同じ200mで明良が4位入賞をして、後輩の活躍に今後の競走部の未来が明るいことを感じ、嬉しく思いました。
明良は今後も公式戦で得点を期待され続けると思うけど、お前は期待も重圧も全部自分に巻き込んで力にできるようなやつだと思うから、楽しんでれば結果もついてくるよ。がんばってね。
そしていよいよ、パリ五輪代表がかかった日本選手権。
今持てる己の全てをぶつけたつもりで勝負をしに行きましたが、決勝まで0.05及ばず準決落ちしてしまいました。
おそらく、今持てる己の全てだけじゃ足りなかったのだと思います。
己だけで賭けれるものには限界があるので、もっと周りを頼って、環境を使い倒し、周りの力も借りないとダメでした。
もちろん、サポートしてくれた方々は最大限僕に力を貸してくれていたのですが、それを僕が最大限活かせていなかったのです。
というのも、関カレと布勢で走りのフォームに問題点が見つかり、それを改善しようと高野さんや大江さん、一紗さんの力を借りながら努めたのですが、僕が改善途中までにしか昇華できなかったのです。
持っているものでどうにかしようとするのではなく、与えられるものをどう使うかまで考えなければならないと気づきました。
日本選手権後は怪我が続き、全カレ直前までは絶不調もいいところでした。
しかし、本当に直前に高野さんがパラリンピックから帰国されて、動きの問題点に気づかせてもらってからは、大江さんと連携して一瞬で調子を上げてくれました。
おかげさまでなんとか6位入賞はできましたが、高野さんが居ないと何もできないままだった自分のせいで、もう少し早くから自分でも調子をあげれたのではないかと後悔しています。
客観的な気づきがきっかけだったことを考えると、誰かに自分の走りを評価してもらうとか、もっと色々できたはずです。
もっと周りを頼らないとダメだと日本選手権で気づいたのに、与えられることを当然と考えてしまったからか、自分から周りを頼らなかったことが敗因だと分析しています。
今年のシーズンはまだ終わっていないので、この反省を活かしてまたエコパで結果を出せるよう頑張ります!
まとめ(タイトル回収)
いかがでしたでしょうか。
4年間を振り返ってみたのですが、思っていたよりずいぶん長々と書いてしまいました。(ここまで読んでくれている人はありがとうございます)
この4年間をまとめると、本当にいろんな人に助けられて結果を出してきました。リレーでの先輩方の想いや、ライバルになってくれた廣木さんと篠宮、常に一歩先で活躍してくれた豊田に、お調子者ばっかだけど慕ってくれる後輩、主務系にマネージャー、トレーナー、コーチなど、本当にいろんな人にお世話になりました。
そして4年目には1人でできることには限界があり、もっと周りを頼った方がいいということにも気づきました。
最近、ジョの同部屋のふじゆうと烈と一緒に見ているアニメの中に、オリジナルのことわざとしてこんなものがあります。
ここまで話してきたことでなんとなく意味がわかるかもしれませんが、おおまかな意味としては「一人でできる事は限られてるよ」ということらしいです。
We over me みたいなことです。
今年の日本選手権リレーで優勝したらインタビューの時に使おうと思っていたのですが、今年は届かずに終わってしまったので、ここで供養しようと思い、タイトルにしてみました。僕が4年間を振り返って学んだことにピッタリな内容ですね。
伝えたい言葉
後輩へ
これまで僕が語った通り、1人でできることには限界があるし、大抵なにか上手く行った時は周りの人のおかげであることがほとんどです。
なので、陸上競技は個人種目だけど、だからこそ周りを頼って頼って頼りまくって、自分のやりたいことをやっていって欲しいです。
プロゲーマーの成長方法として、よく言われる言葉にこんなものがあります。
「上手く行ったら味方のおかげ、失敗したら自分のせい」
目標を目指す上ではとてもいい言葉だと思います。
ただ、自分のせいとして失敗を受け止めてもめげずにいられるかがこの言葉に従う上では重要だと思うので、うまく絶望して頑張ってください。(絶望に関しては以前の僕の幹部ブログを読んでね)
先輩へ
大島さん、あべかずさん、越宗さん、酒井さん、藤木さん、富山さん
4継で決勝いけなくてごめんなさい。
みなさんの想いを勝手に背負ったつもりになった僕が、勝手に頑張らせていただきました。あの経験があったからこそ僕はチームのことを考えられるようになりました。本当にありがとうございました。
サポートへ
以前ブログでも言いましたが、慶應のサポートは日本一です。
シゴデキすぎるマネージャーはグランプリなどで宿泊の手配、試合のエントリー、練習中は選手よりも外に居る時間が長く、試合の日は誰よりも早起きで陣地を取ってくれたりと、感謝が絶えません。
トレーナーに関しても、部室に来たらエンドレスで選手のケアをしてくれて、そもそも大学の勉強もあるのに整体の勉強を1年くらいガチでやってからケアしてくれるなんて、やばすぎです。おかげで外部の治療院に頼る事なくここまでやってくることができました。本当にありがとうございました。
同期へ
友達ってより仲間って感じが強かったと思う。あまり深く互いに関わらないけど、変なところで同調していくのは居心地が良くてめちゃくちゃ好きでした。
107代は強いと言われ続けてきましたが、過干渉しないところにも強者感が溢れていたのかなと感じています。4年間ありがとう。
引退しない人が結構居るので、一緒にがんばろうね。
特定の個人へ
高野さん
慶應に来て一番良かった事は、高野さんと出会えた事です。
どうしようもなかった僕の走りを一から生まれ変わらせてくれて、そしていろいろな景色を見せてくれてありがとうございました。
これからも全力で挑み続ける予定ですので、引き続きどうぞよろしくお願いします。
一紗さん
僕の身体を育んでくれてありがとうございました。
入部当初70kgなかった僕ですが、一紗さんのおかげで今は78kgあります。
ウエイトのウの字も知らない、動きの癖が強い僕に教えるのは大変だったと思いますが、引き続きエグキツ楽しいかずトレお願いします。
大江さん
本当に親身にケアをしてくれてありがとうございました。
フォームの分析を一緒にしてくれたり、僕の身体のことをトレーナー視点でいろいろ教えてくださったり、本当に助かりました。
いつも試合で一喜一憂するすぐそばに大江さんが居てくださり、とても心強かったです。これからもよろしくおねがいします。
ふじゆうと烈
一緒に暮らしてくれてありがとう。
ふじゆうもブログで言ってたけど、3人がそれぞれ自分の世界を持っていて、めちゃくちゃ過ごしやすかった!
話の内容は意味わからんカオスなことが多かったけど、帰る場所に誰かがいるってことは結構しあわせで、気持ちが沈んでいてもそのカオスのおかげで元気出たりしてました笑
終わればよし!で頑張って生きよう!
昆布
主務おつかれさま!中々ハードだったと思うけど、チームのことをめちゃくちゃ考えてくれて、幹部の中でもリーダーシップをとって導いてくれてありがとう!
俺としては選手として4年まで続けた昆布も中々面白かったんじゃないかなと思うんだけど、主務の昆布は主務の昆布でめちゃくちゃ輝いてたぞ!
卒論まで一緒にがんばろうぜ!たまにサッカーの相手してくれ!
篠宮
君の引退ブログを読んでうるっときてしまいました。
大3の全カレで篠宮がいなかったのは寂しかったし、だからこそ日本選手権リレーで一緒に勝てたときはめちゃくちゃ嬉しかった。
君はよく速い人の真似をしますね。俺の真似をしているのを見つけるのがとても嬉しかったです。そして、他人のいいと思ったところをすぐに真似して自分のものにしようとするその貪欲な姿勢、素直で愚直に競技に取り組む姿勢はマジで尊敬してます。
急激な勢いで成長する君にビビったし、正直負けるかも…と何度も思いました。
すぐ背後で篠宮が全力で追いかけてきてくれるから俺も全力で走り続けることができました。
ライバルになってくれてありがとう。
だけど、これからも先を走り続けるからよろしく。
4年間ありがとう。
兼
引退マネブロで、賢秀が書いていたことに少し驚きました。
この感情は俺が4年間兼に抱き続けてきた感情そのものだったから。
入部直後からずっと自分よりも結果を出し続けるバケモノ。
そんな兼には、同期として誇らしい気持ち、友達として嬉しい気持ち、ライバルとして悔しい気持ち、妬ましい気持ち、などなど複雑な感情を抱き続けてきました。
俺の前を走り続けてきた兼が似たような気持ちを自分に抱いていたことを知れて、なんだか嬉しかったです。
賢秀のマネブロによると、その直後の練習の兼は異次元に速かったらしいですが、その気持ちもわかります。
自分より前に人がいると抜かしたくなりますよね?そんな気持ちです。
自分も負けてられないと、何度君に対して思ったかわかりません。
107代が強いと言われるとき、大抵豊田と三輪がいるからだと言われることが多かった(他にもいっぱい居たのも知ってるよ!?)けど、俺が副将になったときに、そこで挙がる名前を絶対に豊田だけにはしないと決めました。
君だけに107代が強いという責任を負わせてしまうと、公式戦で君にかかる負担が大きくなってしまうからね。
だから兼が公式戦に出られなくても、三輪がいるから大丈夫だと思ってもらえるように頑張りました。少しでも主将の肩の荷物を肩代わりできていたら幸いです。
というのは建前で、やっぱり兼だけじゃなくて三輪もいるぞと自己顕示したかったというのが本音です。
常に先を行く兼が前に居たから、俺は兼を追いかけ続けて成長できました。
ライバルになってくれてありがとう。
だけど、これからは俺が先を行きます。負けねぇぞ!
4年間ありがとう。