太平記を読まないか? Vol.15~巻2-③「両三の上人関東下向の事」
[注記]
(2024/10/7記)
ここまで15回に渡って続いている太平記の記事についてですが、筆者自身がアレコレ手を出している結果、中々コンスタントに更新出来ていません(本記事が投稿されたのも実に一年以上ぶりです)。筆者は現在『花園天皇宸記』という、太平記前半とほぼ同時代の古記録を読んでおり、今後も定期的な更新は見通せない状況です。
しかしながら、前回Vol.14「為明卿歌の事」が多く読まれている(読んでくださっている!)事等を鑑みて、『花園天皇宸記』が一段落してからは、年内は太平記の更新に注力したいと思います。現在は逐次更新(記事を一本作ってすぐ投稿する方式)にしておりますが、何本か「貯金」を作り、なるべくペースが一定になるよう努めたいと思います。
楽しみにしてくださっている方には申し訳ございませんが、今月中には宸記も一旦区切りを作れそうですので、何卒宜しくお願い致します。
[はじめに]
本当に久しぶりの投稿となってしまい、続きを楽しみにしてくれていた方には申し訳のしようもない。院試→卒論→卒業/入学→ゼミ発表→教育実習のコンボでほぼ作業の時間が取れず、あまりにも中途半端な所で一年以上も間が空く事になってしまった。
今後もどのようなペースで投稿出来るかは未定だが、ともかく、再び読んでゆく事としよう。
『太平記』巻二「両三の上人関東下向の事」
[原文①]
同じき年の六月八日、東使、三人の僧達を具足し奉つて、関東に(下向す)。
忠円僧正と申すは、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学なり。
文観僧正と申すは、播磨国法花寺の住侶なりしが、壮年の比より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨なりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。
円観上人と申すは、元は山徒にてぞおはしける。顕密両宗の才、一山に光あるかと疑はれ、智行兼備の誉れ、詩寺に人なきが如し。かかりけれども、(久しく山門澆漓の風に随はば、情漫の幢高うして、つひに天魔掌握の中に落ちぬべし。)如かじ、公請の声誉を捨てて、高祖大師の旧規に帰らんにはと、一度名利の轡を返して、永く寂寞の苔の扉を閉ぢ給ふ。初めの程は、西塔の黒谷と云ふ所に居を占めて、三衣を荷葉の秋の霜に重ね、一鉢を松花の朝の風に任せ給ひけるが、徳孤ならず、必ず隣あり。大明光を蔵さざりしかば、つひに五代聖主の国師として、三聚浄戒の太祖たり。かかる有智高行の尊宿たりと云へども。時の横災にやかかりけん、また前世の宿業にや引かれけん、遠蛮の囚はれとなりて、逆旅の月にさまよひ給ふぞ、不思議なりし事どもなる。
[現代語訳①]
同じ年(元徳三年)の六月八日に、関東の使者が三人の僧らを連れ申し上げて、関東へ下向した。
忠円僧正というのは、浄土寺慈勝僧正の門弟で、十題判断の論議に合格し、山(比叡山)で並ぶ者のいない大学者であった。
文観僧正というのは、播磨国法花寺の住侶だったのだが、壮年の頃になって醍醐寺に移住した。真言の大阿闍梨だったので、東寺長者、醍醐寺の座主に補任されて、四種三密の棟梁であった。
円観承認というのは、元は山(比叡山)の僧侶でいらっしゃった。顕密両宗の才のほどは、山(比叡山)に光があるかと疑われるくらい輝いていて、知識と行いの双方を高く兼ね備え、他寺に比肩する人がいないというほどだった。そうではあったのだが、(長く叡山の軽薄な空気の中にいれば、慢心してしまい、ついには仏法を背く外道に落ちるだろう。)公の場での名声を捨て、高祖大師(伝教大師最澄)の頃の規範に立ち返るにはと一度私利私欲を捨てて、一人寂寞の修行の中に身を投じた。最初は西塔の黒谷という所に住み、霜が降りるほど寒い日も僧衣を着、松風が吹く中にあって托鉢を行われていたが、徳のある者が孤独になる事はなく、必ずそれが隣人にも及ぶ者である。太陽がこの光を隠す事はなく、ついに五代の天皇に渡って、国師として三聚浄戒の第一人者となった。このような智行兼備の高僧であっても、不慮の災難に遭ってしまったのだろうか、或いは前世の報いに遭ってしまったのだろうか、あずまえびすの虜囚となって旅の空にさすらってしまわれる事は、何とも思いがけない事である。
[原文②]
円観上人ばかりにこそ、宗印、円照、常勝とて、如影随形の御弟子三人、輿の前後に供し奉りけれ。その外の僧達には、相順ふ者一人もなし。未だ夜深きに、鳥が鳴く東の旅に出で給ふ、心の中こそあはれなれ。下しも着けず、道にて失ひ奉るべしと聞こえしかば、かの宿に着きても、今や限り、この山に休まば、ここや限りと、露の命のある程も、心は先に消えつべし。昨日も過ぎ、今日も暮れぬと行くほどに、われとは急がぬ道なれど、日数積もれば、六月二十四日に、鎌倉にこそ着き給ひけれ。
円観上人をば、佐介越前守、文観上人をば、佐介遠江守、忠円僧正をば、足利讃岐守にぞ預けられける。
両使帰参して、かの僧達の本尊の形、炉壇の様、画図に写して注進す。俗人なんどの見知るべき事ならねば、佐々目の頼宝僧正を請じ、これを見するに、「本尊に於ては、子細なき調伏の法の具足なり」と申されければ、「さらば、この僧達を嗷問せよ」とて、侍所に渡して、水火の責めをぞ致しける。
文観僧正を問ひければ、暫くが程は落ち給はざりけれども、水問度重なりければ、「勅定によつて、調伏の法行ひたりし条、子細なし」と白状せられけり。その後、忠円僧正を嗷問せんとするに、この僧天性臆病の人にて、責められぬ先に、主上山門を御語らひありし事、大塔宮の御振る舞ひ、俊基の陰謀なんど、ある事をもなき事まで、残る所なく白状一巻に載せられたり。この上は、何の疑ひかあるべきなれども、「同罪の人なれば、閣くべきにあらず。円観上人をも明日問ひ奉るべし」と評定ありける。
[現代語訳②]
円観上人にだけ、宗印・円照・常勝という弟子三人が、輿の前後に影の如く従ってお供申し上げていた。円観上人以外の僧達にお供する者は一人もいなかった。みすぼらしい輿に載せられ、見慣れない武士に取り囲まれて、まだ夜も深いうちに、烏鳴く関東への旅に出発しなさる心中は、なんとも痛ましいものである。関東に到着する前に、その道中で殺し申し上げるかもしれないという噂まで聞こえると、かの宿駅に着いても、命は今限り、この山で休んだならば、もうここまでだと、露ほどに命はあっても、心は先に喪われてゆくようであった。昨日が過ぎ、今日もそろそろ、と進んでいく程に、自ら行こうとした道ではないが、日数も過ぎて、六月二十四日に鎌倉に到着なさった。
円観上人は佐介越前守、文観上人は佐介遠江守、忠円僧正は足利讃岐守(足利貞氏)に預けられた。
両使が帰参してこの僧達が祈禱した本尊や護摩壇の様子を絵図にして注進した。俗人どもが見聞き出来るような内容ではなかったので、佐々目の頼宝僧正を呼んでこれを見せた所、「本尊については紛う事なき調伏の法の道具です」と申し上げたので、「ならばこの僧達を嗷問せよ」として、侍所に渡して、水火の責めを実施した。
文観僧正を尋問すると、暫くは耐えなさっていたもののの、相次ぐ水責めの末、「勅定によって、調伏の法を実施した事については、まさにその通りです」と白状しなさった。その後、忠円僧正を嗷問しようとしたのだが、この僧は天性の臆病者で、尋問を受ける前に、主上が山門と密談しなさっていた事、大塔宮のお振る舞い、(日野)俊基の陰謀など、洗いざらいすべてを話してしまった。この上何の疑いをかけるのか、という所ではあるが、「同罪の人なのだから、放っておく訳にもいかぬ。円観上人も明日尋問し申し上げる事とする」という評定があった。
[原文③]
その夜、相模入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿ども二、三千疋群がり来たつて、この上人を守護し奉る体にて並び居たりと見給ふ。夢の告げ、ただ事ならずと思ひければ、未だ明けざるに、預人のもとへ使者をつかはし、「上人嗷問の事、暫く閣くべし」と下知せられける処に、預人、遮つて相模入道の方に来たつて申しけるは、「上人嗷問の事、この暁、すでにその沙汰を致し候はんがために、上人の御座の方へ参つて候へば、燈を挑げて、観法定座せられて候ふ。御影背の障子に映つて、不動明王の貌に見えさせ給ひ候ひつる間、驚き存じて、先づ事の子細を申し入れんために、参つて候ふなり」とぞ申しける。夢想と云ひ、示現と云ひ、不思議一つならざりければ、ただ人にあらずとて、嗷問の沙汰を止められけり。
同じき七月十三日、三人の僧達、遠流の在所定まつて、文観僧正は、硫黄島、忠円僧正は、越後国へ流さる。
円観上人ばかりをば、遠流一等を宥め、結城上野入道に預けられければ、奥州へ具足し奉つて、長途の旅にさそらひ給ふ。左遷、遠流と云はぬばかりなり。遠蛮の外に遷され給へば、これも、ただ同じ旅寝の思ひにて、肇法師が刑戮の中に苦しみ、一行阿闍梨の火裸国に流されし水宿山行の悲しみも、かくやと思ひ知られたり。名取川を過ぎさせ給ふとて、上人一首の歌をぞ吟じ給ふ。
みちのくの憂き名取川流れきて沈みや終てむ瀬々の埋れ木
さればにや、この三界不自在の中にしては、大権の聖者も災難を脱るる事なきは、自然の理りなり。これ仮に出でて、心あらん人に不自在の謂はれを尋ね習ふべき子細なり。
[現代語訳③]
その日の夜、相模入道(北条高時)がこんな夢を見た。すなわち、比叡山の東坂本から、猿(※1)が二、三千匹も集まって、この(円観)上人を守護し申し上げるような様子で並んでいたのである。この夢のお告げはただ事ではないと(高時が)思ったので、未だ夜も明けないうちに、預人の元へ使者を遣わして、「円観上人を嗷問する事は暫く留保せよ」と命令しようとした所、預人自ら相模入道の元に来て申し上げる事には、「上人の嗷問についてですが、今日の明け方にはもう嗷問を開始しようとして、上人の御座の方へ参上したところ、灯火を付けて上人が座禅を組んでおられました。上人の影が背後の障子に映る様子は、不動明王のお姿かのようだったので、驚いてまずこの事について申し上げるために参上した次第です」と。夢のお告げといい、不動明王の出現といい、不思議な事が幾つも起こったので、やはりこの円観上人はただ人では無いとして、嗷問は中止になった。
同月の七月十三日に、三人の僧達の流罪の行先が決定し、文観僧正は硫黄島、忠円僧正は越後国へ流される事となった。
円観上人だけは、遠流を一等下げられ、結城上野入道の預かりになったので、奥州へお連れ申し上げて、長旅にさすらいなさった。左遷や遠流と言われないだけで、結局関東の外に遷されなさっているのだから、これも(遠流と)同じ旅の心地がして、肇法師が刑罰に苦しみ、一行阿闍梨が火裸国に流されて(※2)水辺や山中を旅する事になった時の悲しみはこうであったのだと思い知らされた。名取川をお過ぎになるところ、上人が一首の歌をお詠みになった。
すなわち、
みちのくの憂き名取川流れきて沈みや終てむ瀬々の埋れ木
(憂き名を取るという奥州の名取川まで流され、川瀬の埋れ木のようにここに身を沈み果ててしまうのだろうか)
と。そうだからであろうか、この三界不自在(※3)の中にあっては、大権の聖者も災難を逃れる事が出来ないのは、自然の理である。これは、凡夫の世界(仮)だから生じる事で、思慮のある人に不自在の由来を尋ね学ぶべき理由なのである。
※1:猿は、比叡山の守護たる日吉山王権現の使者とされている。
※2:この火裸国の伝説は日本でのみ確認されるようで、例えば同じ軍記物語である『平家物語』巻二などで見られる。
※3:不自在というのは、煩悩に囚われている≒自在でない存在を指す。また、大権の聖者は、「権(かり)」の聖、つまり仏が仮に人の姿をとって現れた(それが円観上人である)という意味である。
[解説]
久しぶりにしては長かったであろうか。ともかく、ここまで行きついたのをお互いに称賛し合おう。
今回の場面では三人の僧が関東へと下向(現在の感覚とは異なるかもしれないが、京都から関東へは下り、関東から京都へは上りである)し、あろうことか拷問を受け、北条氏調伏の修法をした事を白状している。
特に円観上人という僧が如何に高僧であるかが語られている。円観上人は天台宗の僧で、弘安四(1281)年に生まれた。後醍醐天皇とは、自身が建てた律院に「元応寺」という寺号を賜ったほか、他の歴代天皇・貴族から篤い信仰を博する等(『国史大辞典』)、政変以前から深い関係にあった事が伺われる。
より深読みしてほしい私としては、この円観上人が、建武新政の傾く中で足利尊氏ら北朝派に与した事に注目したい。おおよそ「南朝びいき」と言われ続けて久しい『太平記』だが、円観上人については随分と良い書かれ方をしている。これは、北朝に与していたとはいえ、高僧として、例えば文和元(1352)年閏二月、南朝後村上天皇の八幡行幸に際して足利義詮の私的な使者として派遣されていた事(『国史』)、そして後伏見・花園・後醍醐・光明・光厳という五代の天皇の戒師(出家を望む者などに、戒を授ける法師)であった事が影響しているのかもしれない。
大河ドラマ同様、このような歴史物語を読むうえではネタバレを避ける事が実質的に不可能だが、それを逆手に取って、書きぶりについてより深読みするという楽しみもあるだろう。
さて、久々の記事がこの辺りにしておこう。中々時間が取れない日々は続くが、折を見て定期的に更新していきたいと思う。
では、また次回の記事でお会いしよう。
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?