太平記を読まないか? Vol.13~巻2-①「南都北嶺行幸の事」~
[はじめに]
こんにちは。今回から、『太平記』も巻二に入っていく。巻一に続いて、鎌倉幕府の瓦解に向けて動く後醍醐天皇や、その関係者に注目しながら読んでいこう。
『太平記』巻二「南都北嶺行幸の事」
[原文①]
元徳二年二月四日、別当万里小路中納言藤房卿を召し、来月八日、東大興福両寺に行幸あるべしと、仰せ出ださる。則ち古へを尋ね、例を考えて、供奉の行粧、路次の行列を定めらる。三公九卿相随ひ、百司千官列を引く。言語同断の厳儀なり。
東大寺と申すは、聖武天皇の御願、閻浮第一の盧舎那仏、興福寺は、これ大織冠、淡海公の御願、藤氏尊崇の大伽藍なり。されば、代々の聖主、御志ありと云へども、一人の御幸容易ならざるによつて、多年臨幸の儀もなかりしを、この御代に至つて、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興して、鳳輦を廻らされしかば、衆徒歓喜の掌を合はせ、霊仏威徳の光を耀かす。されば、春日山の嵐の音も、今より万歳を呼ばふかと怪しまる。北の藤浪千代かけて、花を折る春の景深し。
[現代語訳①]
元徳二年二月四日、検非違使別当の万里小路中納言藤房卿を呼び、来月八日に東大寺・興福寺の双方へ行幸するという意志を(帝が)仰せになった。そこで(藤房らは)古例を探し、その(行幸の)手順を考えて、供奉する者達の装いと、彼らの順序を定められた。三公九卿がそれぞれ随行し、多くの役人が列に並ぶ事で、言葉に尽くせない荘厳な儀式となった。
東大寺と申しますは、聖武天皇の御願寺で、藤氏が尊崇した大伽藍を持つ。そうであるから、代々の帝に御志があると言っても帝の行幸が容易ではなかったので、長年臨幸も執り行われなかったのを、今代に至って、絶えた伝統を再び継ぎ、廃れた物を再興して、(帝が)帝の車を廻らされたとして、多くの僧が喜んで(帝に)掌を合わせ、霊仏は徳を以て威光を輝かせた。なので、春日山で鳴る嵐のような音も、今では万歳を唱えているのかと思われるようだった。
[原文②]
同じき三月二十七日に、比叡山に行幸なつて、大講堂供養あり。かの御堂と申すは、深草天皇の御願、大日遍照の尊像なり。中興の後、未だ供養を遂げずして、星霜すでに古りにければ、甍破れては霧不断の香を焼き、扉落ちては月常住の燈を挑ぐ。されば、満山歎いて年を経る処に、忽ちに修造の大功を遂げられ、速やかに供養の儀式を調へ給ひしかば、一山眉を開き、九院首を傾く。呪願は、時の座主、大塔の尊雲法親王、導師は、妙法院の尊澄法親王にてぞおはしける。称揚讃仏の砌は、鷲峰の花薫ひを譲り、歌唄頌仏の処は、魚山の嵐響きを添ふ。伶倫遏雲の曲を奏し、舞童廻雪の袖を翻せば、百獣も率し舞ひ、鳳鳥も来るばかりなり。
住吉の神主津守国夏、大鼓の役に登山したりけるが、宿坊の柱に一首の歌をぞ書き付けたる。
契りあればこの山も見つ阿耨多羅三藐三菩提の種や植ゑけん
これは伝教大師、当山草創の古へ、「わが立つ杣に冥加あらせ給へ」と、三藐三菩提の仏達に祈り給ひし古事を思ひて、詠める歌なるべし(応永三年講堂供養の時、津守国久、伝へこし道のたむけに我までも阿耨菩提の種や植ゑけん)。
[現代語訳②]
同じ三月の二十七日に、比叡山へ行幸があって、大講堂供養が催された。この御堂というのは、深草天皇の勅願によるもので、本尊は大日如来である。御堂中興の後、未だに供養が遂げられれず、幾星霜も過ぎてしまっていたので、屋根瓦が割れ、入り込む霧が不断に焚かれる香となり、壊れた扉から差し込む月光は常夜の燈火となっていた。なので、比叡山中が悲しみに暮れて年を経ていた所に、すぐさま修造の大きな功績が遂げられ、速やかに供養の儀式が整えられたので、比叡山中、全ての僧が晴れやかな顔になり、全員が(帝へ)頭を下げた。呪願を行ったのは、その時の座主である大塔の尊雲法親王で、導師を努めたのは妙法院の尊澄法親王でいらっしゃった。讃歎の声が響く庭は、鷲峰の花の香にも勝るようで、偈頌の歌声は、魚山の嵐のような響きにも似ていた。楽人は飛ぶ雲をも止めるような曲を奏で、舞人は流麗に袖を翻せば、それに合わせて動物も舞い、鳳凰さえ来るかのようであった。
住吉社の神主である津守国夏が太鼓の役のために比叡山に登った時、宿坊の柱に一首の歌を書きつけた。
伝教大師は至高の悟りの種をこの山に蒔いておいたのだろう。私もこうして、この叡山の荘厳な儀式を見る事が出来た。
これは、伝教大師が、かつてこの比叡山を草創した折、「私が立つこの山を、どうぞご加護ください」と三藐三菩提の仏達にお祈りなさった古事を思って詠んだ歌なのだろう(応永三年の講堂供養の時、津守国久が「(伝教大師をはじめとして、これまでの僧達が)伝えてきた道の手向けに、私も阿耨菩提の種を植えよう」と読んだ)
[原文③]
そもそも元亨以後は、主愁へ、臣辱かしめられて、天下安からざる時に、折節こそ多かるに、今、南都北嶺の行幸、叡願何事ぞと尋ぬるに、近年、相模入道の振る舞ひ、日来に超過せり。
蛮夷の輩は、武命に順ふものなれば、召せども勅定に応ずべからず。ただ山門、南都の大衆を語らひて、東夷を征罰せられんための御謀とぞ聞こえし。これによつて、大塔の二品親王は、時の貫首にておはせしかども、今は行学ともに捨てはてさせ給ひて、明け暮れは、ただ武勇の御嗜みの外は他事なし。御好みある験にや、早業は、江都の巧み、軽捷にも超えたれば、七尺の屏風必ずしも高しとせず、打物は、子房が兵法を得たまへば、一巻の秘書、尽くさせずと云ふ事なし。天台座主始まつて、義真和尚より以来一百余代、未だかかる不思議の門主はおはしまさず。後に思ひ合はするにぞ、ただ東夷征罰のために、御身を習はされける武芸の道とは知られける。
[現代語訳③]
そもそも元亨の後、帝は思い悩み、臣下の者は辱められて、天下が乱れているようなときに、折もあろうに今、南都北嶺への行幸が執り行われて、帝のお考えは一体どのようなものであるのかと探ってみたところ、近頃の相模入道の振舞いは、日を増すごとに度を越しているのである。野蛮な東夷共は、将軍からの命令に従うものであるから、(帝)が呼んでも応じようとしない。これはただ、山門・南都(東大寺・興福寺)の衆徒を説得して、東夷を征伐しなさるためのはかりごとであるのだ。これによって、大塔の二品親王は、その時の天台座主でいらっしゃったが、もう修行も学問もおやめになってしまい、武芸をお嗜みになる事に明け暮れた。(二品親王が)武芸をお好きであった結果なのだろうか、俊敏な身のこなしは唐の江都の巧さ、軽快さをも超えていたので、七尺ある屏風を高いとも思わず、剣は子房の兵法を得なさったので、黄石公の秘書がことごとく活かされていた。初代天台座主の義真和尚より一百余代の間、未だかつてこのような不思議な門主はいらっしゃらなかった。後々になって、ただ東夷を征伐するために、御身で武芸の道を鍛錬しなさったのだと知られるようになった。
[原文④]
誠に善事は囲みを越えず、悪事千里を走る理りにて、大塔宮の御振る舞ひ、禁裏に調伏の法行はれし事ども、一々に関東に聞こえてけり。相模入道大きに怒つて、「さては、この君御在位の間は、天下静まるまじ。所詮承久の例に任せて、君を遠国へ遷し奉り、大塔宮を死罪に処し奉るべし。先づ、龍顔に咫尺して、当家調伏し給ひける法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、南都の智教、教円、浄土寺の忠円僧正を召し取つて、子細を相尋ぬべし」とて、二階堂下野判官、長井遠江守二人、関東より上洛す。
両使すでに京着せしかば、またいかなる沙汰をか致さんずらんと、主上、宸襟を悩まし給ひける処に、五月十一日の暁、雑賀隼人佐を以て、円観上人、文観上人、忠円僧正三人を、六波羅へ召し取り奉る。この中に、忠円は、顕宗の碩徳なりしかば、調伏の人数には入らざえりしかども、君に近づき奉つて、講堂供養の事、具さに万づ直に申し沙汰せしかば、衆徒与力の事、この僧正存知せぬ事あらじとて、同じく召し取られ給ひけり。
[現代語訳④]
まったく、良い事は余り知られず、悪事は千里すら超えて知られるのが道理であるから、大塔宮のお振る舞いや、宮中で怨敵(相模入道)降伏の修法を行った事などがつぶさに関東に知られてしまった。相模入道は大いに怒って、「やはりこの帝がご在位なさっている間は、天下が静まる事はないだろう。結局承久の例に合わせて、帝を遠国にお遷し申し上げ、大塔宮を死罪に処し申し上げるのが妥当だろう。まず、帝のすぐお側に仕えて北条家降伏の修法を行った法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、南都の智教、教円、浄土寺の忠義僧正を召し取り、(倒幕計画の)詳細を明らかにしろ」と言って、二階堂下野判官、長井遠江守の二人が、関東から上洛した。
二人の使いが早くに京に着いたので、またどのような沙汰をしようかと帝がお心を悩ましなさっている処に五月十一日の未明、雑賀隼人佐が円観上人、文観僧正、忠円僧正の三人を捕縛し六波羅に連れ申し上げた。この中でも、忠円は天台宗で学識の高い僧だったので、降伏の修法には参加していなかったけれども、帝に近づき申し上げて、講堂供養の事を事細かく、何でも直に申し上げて沙汰をしていたので、衆徒が(帝に)味方していた事を、この僧が知らぬはずはないとして、同じく捕まえなさったのだった。
[解説]
さて、いよいよ巻二が始まった。
原文④にある「調伏の法」とは、以前投稿した『太平記』巻一「関東調伏の法行わるる事」にて行われた、鎌倉幕府(北条高時)に対して行われた「怨敵降伏の修法」の事だ。
このような事が起これば、当然鎌倉の耳に入る事になる。当時は今より情報伝達技術が進歩していないとは言え、「六波羅探題」と言う鎌倉幕府の出先機関が京にはある上、「京都大番役」という、内裏・院御所の警護の役目を幕府御家人が交代(半年~一年)で担っており、情報が耳に入るのも宜なるかなという印象だ。なお、「京都」という呼称については、既に『鎌倉遺文』宝治元年(1247年)「京都大番役結番注文」で見られるのも興味深い。
しかし今節で面白いのは、鎌倉幕府・北条高時をある種「呪っていた」帝が、高時の怒りに対して「宸襟を悩ます」程度の反応しか取っていない事である。この時代、武家・公家・寺社はそれぞれの権力を持っていたが、鎌倉幕府が成立して以降は、幕府が全国支配をほぼ達成し、公家の支配力には陰りが見えていた。帝と言えども、高時の怒りに対して無視できないものがあるはずだが、特に慌てる様子もなく、「宸襟を悩ます」だけなのである。無論、実際に帝がどうだったのかについては確定が難しいが、このように「物語る」所も、『太平記』の魅力的な点だ。
それでは、今回はここまでとしよう。また次回。
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