呪いの排除と肯定、そして宙を漂うもの —— 芥見下々『呪術廻戦』
※ 『呪術廻戦』最終話までのネタバレを含みます。
誰か、もしくは何かとの関わりのなかで腑に湧き上がるストレスや負の感情。それら感情が肉体の外へと漏れ出したものが、『呪術廻戦』における「呪力」である。あらゆる人々から発された呪力は宙を漂い、降り積もり形を成す。それが「呪霊」である。作中において「呪い」とは、まずこれら二つを指す言葉として使われている。
呪いは、それを発した人がいなくなった後も世界に残り、他の人から発された呪いと結合しながら漂い続ける。例えば差別的な感情や因習、対立を生み出す構造、SNSで増幅していく言葉。『呪術廻戦』における「呪霊」とは、負の感情によって形を成し、固定されたもの全ての比喩であると言えるだろう。
憎しみが憎しみを生むように、残された呪いは誰かに影響を与え、その誰かがまた新たな呪いを生み出していく。世界を漂い廻り続ける呪いの因果。それを断ち切っていくことこそが『呪術廻戦』という作品の主題である。しかしそれはどうして可能だろうか。
呪いとなること/分かち合うこと
『呪術廻戦』において主軸となるのは「呪術師」であり、呪術師とは呪力によって呪霊を祓うことで非術師を守る「職業」である。職業であるために、その専門学校である「呪術高専」や等級評価などの制度、そして取締役会のような上位組織である呪術総監部が存在する。
呪術師と対となるのは呪霊、そして「非術師」である。「非術師」とは、呪力を知覚すること、そして呪力を操ることのできない人間を指す。呪術師と非術師は脳の構造が異なっており、生まれつき異なる人間のようにおかれている。呪術師は非術師に対して少数であり、非術師をいつでも殺す能力を持つという点で強者である。そして時に呪術師は、非術師による畏怖や排除の対象となる。
物語の一つの始点となるのは、五条悟や夏油傑が学生だった頃を描く「懐玉/玉折編」であり、そこで主軸となるのは弱者である非術師に対する葛藤であると言える。夏油傑は役割を果たしていく中で、仲間である呪術師の死、そして非術師の醜さに直面し、弱者である非呪術師を守るという役割自体に疑問を抱き、非術師たちの抹殺という選択肢を選ぶようになる。
呪霊の見える子供達(美々子、菜々子)を、化け物として虐待する非術師たち。夏油傑は彼らを皆殺しにすることによって「呪詛師」となる。呪力によって非術師を助ける呪術師に対して、呪力によって人に危害を加える存在が呪詛師である。呪詛師とは呪霊のように「呪い」となった人間だと言えるだろう。夏油傑は自らの体内に呪霊を取り込んでいくが、同様に人々から発された呪いをも抱え込んでいったために、自らも呪いとなっていく。
呪術師である五条悟は、呪詛師となった夏油傑を殺す。この出来事をきっかけに、五条悟は教育により〈強く聡い仲間を育てる〉(11話)道を選ぶ。その意図の一つは、夏油傑のように、呪いを一人で抱え込む存在を生み出さないことにあるだろう。そして五条悟の教え子たちは、例えば釘崎野薔薇が虎杖悠仁に自分たちが〈共犯〉(63話)だと伝えるように、呪いを分かち合いながら、呪いと対峙していくようになる。しかしここで、五条悟が呪いを分かち合うことのできる相手はもういなくなっている。
境界上の内戦としての「呪術廻戦」
作中では、呪詛師となった夏油傑、そして夏油傑の肉体を乗っ取った羂索によって二つの「呪術テロ」が行われる。一つ目は非術師を皆殺しにし、呪術師だけの世界を作ることを目的とした夏油傑による「新宿・京都百鬼夜行」。そして羂索の策略により、特級呪霊たちが呪霊と人間の立場の逆転を目的として行った「渋谷事変」である。失敗に終わった新宿・京都百鬼夜行に対して、渋谷事変は羂索の目論見通りの結果となり、物語は「死滅回遊」という呪術師同士の殺し合いの「ゲーム」へと雪崩れ込んでいく。
呪術師は、呪いと人間の間を揺れ動く存在としてある。渋谷事変までの前半で呪術師と対峙するのは、呪詛師、人間のような知能や感情を持つ漏瑚や真人のような特急呪霊たち、人間と呪いの間に生まれた子供達など、全て呪術師と同様に人間と呪いの間のような存在である。そして死滅回遊以降の後半では、呪術師同士が対峙することになる。ここで敵と味方の区別はなく、敵であったものが味方となり、そして味方となり得たかもしれないものが味方によって殺される。
呪術師とは、負の感情の蓄積によって生まれた呪霊たちを命を賭けて祓っていく職業であり、「呪い」というものが存在する限り永遠に終わらず、誰かが自らを犠牲にしながら、果たし続けなければならない役割である。ここで、呪術師となることは血筋、生まれ持った才能、そして第三者により取り込まされた呪物などにより、予め決められたものである。つまり、呪術師の多くは呪術師になることを自ら選んでいない。
死滅回遊とは、不条理に参加させられたプレイヤーたちによる、どちらかが全て死ぬまで終わることのないゲームであると言えるだろう。死滅回遊において羂索の策略により、呪力というエネルギーの獲得を目的としてアメリカなど複数国家の軍が介入するようになる。『呪術廻戦』の登場人物たちは、共に呪いと人間の境界上にある存在である。しかしそこに呪いと人間、呪詛師と呪術師という区別がある限り、二つの間の殺し合いは終わることがない。
「怪物」が意味するもの
死滅回遊以降、「怪物」や「人外」という言葉が繰り返し使われるようになる。禪院真希は怪物に成ったと言及され(190話)、乙骨憂太は五条悟の代わりに、自らが怪物となることを引き受けようとする(261話)。そして死滅回遊に続く両面宿儺たちと呪術師たちの決戦は「人外魔境新宿決戦」というタイトルとなっている。
「怪物」と「人外」は似た意味で使われるが、作中において「人外」、つまり人間でないものとは呪いである。「怪物」とは、呪いを孤独に抱え込んだ存在、そしてそれ故に呪いへと限りなく近づいた存在を指していると言えるだろう。
新宿決戦において、裏梅は秤金次に〈現代の術師は人間であろうとする心が強い〉〈人間性を保つ為己の中に膨らむ異能を抱えながら壊せるモノを壊してはいけないと言い聞かせる〉〈だがその人間性こそ孤独を恐れる弱さだ〉と言い、そして秤にはそれがないからこそ人ではないと言う(245話)。このセリフは怪物・人外の説明となっているが、ここで、壊してはいけない〈壊せるモノ〉とは、例えば夏油傑にとっては醜い非術師たちであり、両面宿儺にとっては自分を虐げてきた人間たちである。日車寛見は不当な判決を下した裁判官たちを殺し、禪院真希は禪院家を虐殺し、五条悟は腐敗した呪術界の上層部を虐殺する。彼らは共に「怪物」であり、夏油傑と同様に呪いへと転じつつある存在である。
新宿決戦は両面宿儺と五条悟との一対一の決戦と、五条悟以外の呪術師たちとの決戦に分けられるが、前者は呪いを一人で抱え込んだ存在同士、後者は分かち合う存在との決戦として対比関係にある。そして戦いを通して、怪物となったものたちも、呪いを分かち合っていくようになる。乙骨憂太が五条悟にかける〈もう独りで怪物になろうとしないでください〉という言葉はそのことを象徴する。
呪いの排除と増幅
呪いは祓われるべきものであり、非術師から存在を隠されるべきものとして描かれている。例えば呪霊は、帳という結界術によって隔離される。〈闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え〉(6話)という帳を下ろす際の詠唱に表れているように、呪いとは古くから穢れである。
呪いを分かち合うことと対比的におかれているのは、他者や自然に負の感情を抱き、排除することである。非術師たちから虐待されていた美々子と菜々子、釘崎野薔薇の地元での他所者である家庭への嫌がらせなど、作中では非術師や呪術師による排他的な行いが繰り返し描かれていく。そしてその行いこそが、呪いを生み出し、強大にしていくことになる。
呪いは、それを生み出すものが存在する限りなくなることはない。そのために、互いに呪いを分かち合おうとも、呪術師たちの戦いも終わることがない。それに対して、九十九由基は二つの根本的な解決策を示す。一つ目は呪力からの脱却、非術師や呪術師を呪力を持たない存在へと進化させることであり、二つ目は呪力の最適化、非術師を呪術師へと進化させ、全ての人間が呪力をコントロールできるようにすることである。
夏油傑、その肉体を乗っ取った羂索は、九十九由基と対の存在として置かれている。二つ目の方法を、非術師を呪術師へと進化させるのではなく、非術師を抹殺することで実現しようとしたのが夏油傑であり、羂索は、夏油傑と同様に二つ目の方法のバリエーションとして、呪霊との同化により非術師を進化させようとする。呪いによる加害をなくすために考えられた方法が、結果的に弱者である非術師たちへの加害へと転化してしまうのだ。そして、物語はそうではない方法を探すように進んでいく。
両面宿儺と五条悟
排除の歴史と共に蓄積した呪い、その呪いが形となったものが呪霊である。そして両面宿儺は〈呪いの王〉と呼ばれ、最後の敵となる。
新宿決戦において、一対一で戦うことになる五条悟と両面宿儺は「怪物」を代表する存在である。「怪物」は「孤高」「孤独」という言葉と併せて使われ、そのことは両面宿儺が周囲にある人間を含めた全てを動物を調理するように切り刻み、焼く術式を、そして五条悟が他人からの干渉を許さない術式を持っていることにも反映されている。
両面宿儺は忌み子として虐げられてきた存在であり、故に呪いとなる。そして五条悟同様に呪いを分かち合う存在がいない。作中では日本の国民性が「自己責任」という言葉で形容されるが、自己責任とは、呪いを抱えた他者を自らから切り離す態度を指す。そのことは、呪いを抱え「怪物」となった呪術師たちを「孤高」「孤独」と見做す態度と対応する。
五条悟は両面宿儺との戦いの決着において、両面宿儺が自分に〈全てをぶつけることができなかった〉(236話)ことを申し訳なく思うと言う。それは、両面宿儺の抱えた呪いを分かち合うことができなかったことへの後悔だろう。
役割としての呪術師
ここで、呪術師を職業として見た時に、望まれるのは期待される役割を果たすことであり、それができる存在こそが「強い」呪術師となる。そして両面宿儺は、役割を遂行する能力こそがその人の価値であり、その価値に見合った幸福・不幸を受け入れるべきだという、新自由主義の極致のような価値観を持った存在である。
呪術師の強さは、禪院真希などの例外を除けば、生まれ持った術式の性能、生み出す呪力の量、そして呪力を如何に無駄なく扱えるかという「呪力効率」によって決定される。五条悟が乙骨憂太に〈雑な呪力どうにかしな〉(261話)と言うシーンが何度か挟まれるが、それは乙骨憂太が感情の揺らぎを呪力として無駄に発していることへの指摘となっている。
呪術師を役割を果たす道具として見れば、呪霊を祓うことに使われない呪力は無駄であり、価値のないものである。その考えの根本にあるのは、果たした役割こそがその人の価値であるという、両面宿儺に象徴される価値観である。虎杖悠仁は渋谷事変を経て、自らを呪術師という総体の一つの部品として位置付け、役割を果たすことを自らの生の理由とするようになる。この価値観もまた、両面宿儺のものと変わらない。
物語は五条悟と両面宿儺の決戦を経て、虎杖悠仁と両面宿儺の決戦をクライマックスとする。五条悟は同じ怪物、そして強者として両面宿儺の呪いを分かち合おうとする。一方で虎杖悠仁は死滅回遊以降も「怪物」と名指されない、その他の呪術師と比較すれば弱い存在である。そもそも、虎杖悠仁の役割とは両面宿儺を肉体に宿す器であることであり、その役割は両面宿儺が伏黒恵へと受肉した時点で失われる。新宿決戦において両面宿儺が繰り返しなじるように、虎杖悠仁は価値のない、無駄な存在となる。
表現としての呪術
呪術師であることが、生まれた時から決められた役割を果たす道具へと、自らを形づくることに重ね合わされる一方で、呪術師の扱う呪術は、一般的には役割とは相容れない「表現すること」の比喩のように描かれている。
特に象徴的なのが「生得領域」及び「領域展開」の設定である。生得領域とは人の中にある心象風景、つまりその人に蓄積された記憶やイメージである。呪力とは、人の中にある感情が外に漏れ出したものであるが、領域展開は、本来は感情と同様にその人の中に閉じられているはずの心象風景を、呪力によって現実世界に具現化・展開したものである。それはまさに、絵画や小説、漫画、ダンス、もしくは誰かとのたわいない会話など、あらゆる表現と重ね合わせることができる。
〈術師との戦いの最中稀に相手と繋がることがある〉〈この現象は呪力が人間の感情由来であるための副作用のようなもの〉(265話)と作中で語られる。表現を通して感情といった内側にあるものを感じられるように、呪力は時に人と人を直接に繋ぐものとして置かれている。そして「黒閃」は、表現の最中にあるフロー状態と重ね合わせることができる。呪術とは、怒りや悲しみといった負の感情の、表現への昇華だとも捉えられるだろう。
呪術師とは、役割によって生の価値を規定されつつも、役割には還元されきらない表現の可能性を持つ、近代以降の社会における人間そのものの比喩であると言えるだろう。ここで、表現は呪いと表裏一体である。役割を人の価値とする社会において、役割に寄与しない限り、表現も呪いも、すなわち感情自体が無駄で価値のないものである。
個人的な記憶と『呪術廻戦』
『呪術廻戦』は多くの引用が埋め込まれた作品である。主人公たちが阻止しようとするのは、呪霊と非術師の同化である。同化が行われれば非術師たちは自我という境界のない一つの存在となるが、これは『新世紀エヴァンゲリオン』における「人類補完計画」の引用としても見れ、加えて与幸吉(メカ丸)が扱うロボットはエヴァンゲリオンと似た造形となっている。呪術の設定は『HUNTER×HUNTER』の念能力に似通っており、同作のオマージュも頻出する。また、区別の曖昧な敵と味方、古くからの因果の結果テロを契機として勃発する戦争、という点では『進撃の巨人』と重ね合わせることもできるだろう。髙羽史彦の戦闘シーンでは『ボボボーボ・ボーボボ』といったギャグ漫画からのジャンルを跨いだ引用も差し込まれるが、引用元はお笑いなど、漫画作品に限られない。そして引用されるのは、作者の世代が親しんできただろう作品や表現に集中している。『呪術廻戦』は、作者の個人的な記憶によって編み上げられた作品のように見えるのだ。
両面宿儺との決戦において虎杖悠仁は、領域展開によって彼の地元である岩手県北上市の風景を見せ、そこでの個人的な記憶を共有しようとする。それは彼自身の表現であるが、作者である芥見下々もまた岩手県出身である。ここで読者である私たちが見るのは、そして『呪術廻戦』という作品を通して見続けてきたのは登場人物たちの、そして作者自身の個人的な記憶の表現である。
分かち合われる記憶と呪い
呪術とは表現の比喩であり、そして『呪術廻戦』という作品が行っていること自体の比喩ともなる。五条悟との戦いにおいて両面宿儺が使役する「魔虚羅」は、呪術をデータとして解析し適応する存在であり、〈場当たりの発想と瞬発力〉(236話)で戦う五条悟とは、AIと人間による表現の対比としても捉えることもできるが、ここで、背景説明や物語展開の自然さよりもキメの表現を優先する『呪術廻戦』は、まさに場当たり的に見える展開を推進力としてきた作品である。
五条悟と両面宿儺の戦いと並行して、髙羽史彦は自分が親しんできた面白いものを呪術によって共有することによって、羂索を止めようとする。『呪術廻戦』は呪術、すなわち表現を通して、呪いを分かち合おうとする物語であると言えるだろう。そして同様に、虎杖悠仁は両面宿儺に自らの記憶を共有する。
虎杖悠仁が両面宿儺に見せる風景は、既に失われている。百貨店に敗れ、なくなっていった個人店。農薬によって消えていったイナゴたち。それらは資本競争の中の弱者であり、価値がないとされたものである。そして語られるのは、幼少期の些細な記憶である。この記憶もまた、役割を果たすことにおいて無駄なものだろう。
しかしその記憶によってこそ人は、与えられた役割には収まりきらない固有性を持つ。生の営みのなかで生み出される負の感情、その記憶。呪いを発し、そして蓄積していく。人とは、呪いによって形作られた存在である。その点において呪霊と人の区別もまた曖昧であり、呪術師が呪詛師となるように、人は呪霊となり、そして呪霊もまた人へとなり得る。だからこそ、呪いの否定は人の否定へと繋がっていく。
失われていった景色、宙を漂うもの
呪いは人の肉体から外へと漏れ出で、宙に残る。呪いとは感情や記憶と同様に見えないものであり、しかし空気中に確かにある。例えば失われていったものの記憶。いなくなってしまった誰かの残した怒りや後悔。世界は見えない呪いで溢れている。
呪術界の基底となる存在である天元は、死滅回遊を終わらせる力を持つが、これまでに続いてきた呪霊との戦いや呪術のノウハウを残すために、それをしない。作中において戦いの起点となるのは渋谷であり、建物が壊され更地になっていく様が描かれる。作中の舞台となるのは2017年から2018年であり、渋谷は東京オリンピックに向けて再開発下にある。土地が更地になっても、呪いは宙に残るだろう。そして残された呪いは誰かに渡り受け継がれていく。
しかし呪いを表現として見たときに、呪いの持つ意味は反転する。『呪術廻戦』を編み上げる引用は、誰かの残したものが誰かへと受け継がれていくという事実の表現である。
最終話
作中最強の存在である五条悟は、主人公である虎杖悠仁に〈僕とは全く違う強さを持つ人間〉になって欲しいと伝える。虎杖悠仁は、以下の言葉へと辿り着く。
どこかを漂う〈小さな記憶の欠片〉とは、呪いを指すだろう。人の価値は与えられた役割ではなく、生きていること自体、そして呪いを発すること自体にある。虎杖悠仁が最後に辿り着くのは、呪いの肯定であり、それを発する人の生の肯定である。虎杖悠仁は呪いを祓うのではなく、呪いと共に生きることを選ぶ。そしてそれこそが、虎杖悠仁の持つ、五条悟とは〈全く違う強さ〉である。
排除し、透明化するからこそ呪いは生まれ、増幅する。そしてその呪いが新たな呪いを生み出していく。その因果こそが廻る呪いであり、作中で描かれてきた、本来は分け隔てられないはずのもの同士の呪い合いである。『呪術廻戦』とは初めから、呪いを分かち合う物語であり、呪いを受け継ぎ合いながら、呪いの持つ意味を反転させていく物語だったと言えるだろう。見えない呪いを見ようとする。そして呪いを解き、消し去るのではなく、肯定し分かち合おうとする。それこそが、廻る呪いを断ち切っていく一つの手立てとなるのだ。
最終話。呪術を嫌がらせに使う男が現れる。彼は小さな呪いであると言える。虎杖悠仁は彼の居場所を作ろうとする。それは彼の呪いを受け入れ、分かち合うことである。そのために、彼は呪詛師にならずに済むだろう。