子育ては自分の思い込みを手放す旅
ほんと子どもって親の常識をぶっ壊して
くれるよなと思う。
その為に、子育てをしてるとも言える。
なぜなら、常識をぶっ壊される度に
親の器が広がるから。
許容範囲が広がるとも言う。
許容範囲が小さいより、大きい方が
人生は楽に生きることができる。
器が大きいっていうことね。
選択肢も同じ。
選択肢が少ないより、多い方が人生は
自由で豊かなのだ。
先日、次男に
「お母さんってめんどくさがりだよね」
と言われてびっくりした。
めんどくさがりという言葉ひとつ取ると
嫌なイメージがあるけど
わたしの場合、どうやったら自分が
楽に楽しくできるか考えた末に
めんどくさいことを簡単にして
めんどくさくない考え方を採用してきた。
だからシンプルにシンプルにしていく。
そのシンプルにしようとすることが
次男にとっては「めんどくさがり屋」
になったんだろうな。
わたしの精神をいちばん鍛えたのは
次男なんじゃないだろうか。
良くも悪くも
なんなら20歳になった今でも
彼は今でもわたしにとって
こころ悩ませるキーマンなのだ。
この前だって
明日雪がすごかったら仕事休むと簡単に
言い放った彼⇓
よくよく次男の話を聞くと
今は製造期間ではないので休んでも大丈夫で、
他の社員さんも雪で休むひとが多いそうな。
理解ある会社で何よりです。
だがしかし、他の会社が同じように通用すると
思うなよと
なかなか自分の生きてきた常識から
抜けれない母でございます。
うちは夫婦で考え方が違う。
旦那は頭がいいからなのか超真面目の
頭の固い常識人。嫌味で彼を「我が家の法律」
とわたしは呼んでいる。
一方、わたしは考え方がゆるい。
そんな二人だからこそ、
子どもに伝えるアドバイスが真逆。
自分と真逆なことを言うわたしを見て
旦那はいつも嫌な顔をするんだけど
夫婦で同じ意見を言うのは
だだの押し付けになるんだよね。
大事なことは子どもが選ぶこと。
人生は選択の連続なんだから
自分で決めることが大事でしょ。
それが自己責任ってやつだ。
自分の決断を自分以外のひとに委ねて
しまうと、いつまで経っても
自立できないんだよね。
(過去、母のの言うとおりに生きて
きたわたしの経験上の話でもある)
これについて次男は
「夫婦で別の意見言うのやめてくれる?
困るんだけど。いつも別の意見だよね」
と苦言を伝えてくる。
まあ困るよね。
親の意見が一致している方が楽だよね。
考えなくてもいい楽もある。
いや、一旦悩んだらいいと思うよね。
悩んで自分で考えて決めることが大事よね。
親だって、いつまでも一緒にいれるわけ
じゃないんだからさ。
それに真実はひとつじゃない。
世の中にはいろいろな考え方があるからこそ、
何を採用するかは自分が決めることなのだ。
正解がないからこそ、
自分で正解を創るしかないんだけど
正解だって自分で創る自由が
人間には与えられている。
情報過多な時代だからこそ、
「自分で選ぶ力」がこれから
ますます重要になってくるんだよね。
いや~、でも子どもって
「こんなことしちゃっていいのか」
っていうことを
さらりとやってくれたりしません?
例えば、雨の日、公園で遊びたがる子ども。
親はなんとか回避しようとするんだけど
一瞬離れたすきに、水たまりに向かってダイブ! !
でも、全身泥だらけになって楽しそうに
笑っているのを見ると、純粋だった頃の
自分を思い出す。
わたしも子どもの頃、純粋にやってみたいって
ことをすぐに行動してたよなって。
大人になって、あの純粋さはどこ行ったんだ?
とかね。
子育てを通してちょいちょい起こる
人生の振り返り。
子どもを見ていて
「好きなことばっかりしやがってー」と
怒りが湧いた時は
自分こそ、いつも何か我慢していないか、
振り返るチャンスなんだ。
他人は自分の鏡。
大事な我が子も自分の鏡。
我が子の自由さって
ほんとうにいいお手本だなと思うのです。
次男の自由奔放さは
わたしが憧れている自由奔放さ。
自分がいちばん禁止している
自由奔放さ。
あ~、次男よ、いとも簡単に
やってのけるあなたを尊敬する。
と言いつつ、
お前、ちょっとはみんなが信じている
世間の常識ってやつも
見たらいかがかね?
と思う自分と
もうそのまま我が道を行ってくれ
と願う自分と
そんな真逆な2人の自分との会話をしながら
子育てしながら自分の思い込みを手放して
ますます自由になっていく自分を楽しみながら
歳を重ねていくって悪ことじゃないよねっ
思うのでした。