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叔父が亡くなった。
叔父が亡くなった。
自分にとっては母親の弟である。
母の血族があまり好きではない私にとって、叔父もまた同じような感覚であった。
叔父は私が子供の頃、嫌な揶揄い方をする人だった。
可愛さゆえ、といえばそれだろうが
子供の私には胸糞悪い揶揄い方も、ときにはすることがあった。
デリカシーがないのである。
やはり、当時の印象は「あまり好きではない」だった。
とはいえ叔父は叔父。
たまに祖母の家に行くと必ずそこにいた。
叔父は母とそれほど年齢が離れているわけではないが、ずっと独身であった。
大卒で就職もしたが、長続きせず、ほとんど祖母の家で祖母が営む店を手伝っていた。
ほとんどお客の来ない店だったので、大まかに開店と閉店のシャッターを上げ下げするだけだったと思う。
今思うと、俗に言われるニートだったのだ。
祖母の家に行くと、叔父はずっと本を読んでいたり、寝ていたり。
身近な大人の男性といえば父親だったのだが、
その父と比べてしまうとなんともぐうたらすぎた。
その上、感情の起伏も激しかったと思う。
祖父が激昂型の、いわゆる昔ながらの頑固親父だった。
私はこの祖父も苦手だった。(というか嫌いだった)
祖父はもともと警察官をやっており、色々と厳しい人だったそうだ。
母いわく、とても怖かったとのこと。
孫になればだいぶ甘くもなるだろうが、それでも怖かったのだからよっぽどなのだろう。
また地方出身のせいなのか元々の気質なのかはわからないが、
しゃべっても何を言っているのかわからず、祖母を介してでないと理解できなかったのを思い出す。
叔父はきっとその性格を受け継いたのだろう。(また母も同じく激昂型であるので受け継いているのだと思う)
目を見て話すのだけど、目線が合わないとか、ちょっとしたことで急に怒り狂ったりとか
子供ながらに何かおかしいと思いながら過ごしていた。
当時はそれほど深刻なことではないのだと、これが普通なのだと思っていた。
子供から思春期になり、また大人になって、叔父とは会ってもあまり話し込むこともなくなってきていた。
その生活が一転したのは、祖母が病に伏して入退院を繰り返すことになってからだった。
その頃には祖母は叔父と二人暮らし。
母の兄弟である妹の叔母もいたが、少し離れたところに住んでいたのでなかなか世話を焼くことができない。
祖母がかろうじて生きていた頃は母も世話を焼きに行っていたと思う。
叔父は一緒に暮らしていたので、介護ばかりの生活。
もちろんニートをしてたので然るべき行いではあるのだが、介護だけの生活はきっと
身を滅ぼしていくのだろう。
叔父に会っても精神的にやられているな、と思うような節もあり。
あるとき叔父が若い頃に精神科を受診していたことを知る。
それを聞いて、色々と合点がいった。
目を合わせようとしてもどこか、焦点の合わない眼差しを思い出した。
それ以来、可哀想な人だと思うようになってしまう。
祖母の生命力は強かった。
何度ももうダメだと言われていながら、2年くらいは生き長らえたように記憶する。
そんな中で亡くなったので、私としては苦しみながら「生きる」というか「生かされている」状態だった祖母がようやく旅立てたと安堵したのだが
叔父はそうではなかった様子であった。
祖母が亡くなって、祖母にとっての長女と次女はちゃんと家族がいて、悲しみを分け合うことができたのに
長男だった叔父は1人で悲しみを堪えることしかできなかったのだ。
「俺はよくやった」とボソボソと呟きながら、心ここにあらずといった状態で葬儀に臨んでいた。
それから、叔父は1人では生きていけなくなってしまった。
兄弟である母は冷たいもので、突き放していたのだが義理の兄だった私の父は、それでもしょうがなくではあったが甲斐甲斐しく世話をしてあげていた。
特に見た感じどこが悪いわけではないのだが、起き上がれないとか、トイレに行けないとか逐一私の父に連絡をしては、父は叔父の家に出向いて世話を焼いてあげたのだ。
どこか悪いのかと、病院へ連れて行って検査をしてみるものの、特に異常はなく。
それでも同じことを言うのだから、きっと寂しさが上回っていたのだろうと思う。
私自身が最後に叔父に会ったのは、確かこの頃だったと思う。
病院にいると言うので、お見舞いに行くが、そこにいたのは普段とは違う弱々しくなった叔父だった。
叔父は祖母の最後と同じように入退院を繰り返した。たとえ検査で異常が見られないとしても、だ。ただし入院中、寝て起きればそばに人がいる生活が手に入った。不謹慎であったかもしれないが、叔父にとってはそれがセラピーだったのかもしれない。そう言ったことを感じつつあった頃、叔父は老人ホームへ入ることになった。
本当に病気の人を差し置いて入院を繰り返すよりも、ずっとその方が良かった。
叔父が言い出したのか、私の両親が話し合ったのかは定かではないが、叔父にとってはいい選択だったのではないだろうか。
実際、叔父は老人ホームで2、3年暮らしたのち亡くなった。
先日葬儀に参列した。
叔父から見ての兄弟姉妹家族と、加えて通夜葬式に父方母方従兄弟がそれぞれの日に1人ずつ参列してくれた。
母の従兄弟はどこか祖母や祖父の系譜を踏んだ個性的な人たちだった。
血筋というのを意識した。
久しぶりに見た叔父の写真は微笑んでいるような、どこか穏やかな表情だった。
聞けば、老人ホームで散歩に出かけた時に撮ってもらった写真だったそうだ。
叔父の亡骸を見て、祖父に似ていると思った。
私自身悲しいというかどこか安心した気持ちがあったことは、偽ることができない事実だと思う。
ただ、誰か親族が亡くなると言うことは、潜在的なところに傷をつけるものなのだと実感した。
私自身、入籍間もなくであったので叔父と面識のない夫を参列させるには忍びなく、両親に伺いを立てて今回は参列しなくてもいいと許しをもらった。
1人で参列したわけであるが、潜在的についた傷を癒すことについて、夫がいなかったらきっともっと時間がかかっていたとも思う。
そういう意味でも、パートナーがいることはありがたいことなのだと実感した。
私には姉がおり、また母方の叔母の家にも一人っ子の従兄弟がいる。
その2人は壮年期であるが、未だに未婚である。
私が結婚したから、優位に思うことは全くない。
ただ、こんな気持ちは1人で負うことではないと思う。
従兄弟はともかく、特に仲がいい姉ではないが、姉が叔父のようになる可能性は少なからずある。
10年近く結婚の機会があったにもかかわらず結婚しなかった私から、
結婚しろとは言うにはおこがましいが、せめて支えになるようなパートナーを作るべきだと思った。
こういう時代である。
パートナーが女性でも男性でも構わない。
それを認められる家族でありたい。
火葬場で焼かれる時間は、記憶だと1時間以上はかかっていたと思った。
叔父が亡くなった同じタイミングで亡くなる人が多かったようで、昔からある近くの火葬場は予定が組めないほどだった。
我々は少し離れた隣の区の火葬場へ行くことになった。
その最新の施設を有する火葬場では40分で全て焼けるとのことであった。
その間に叔父の思い出を話すのかと思っていたのだが、それぞれに今の生活について話したり、仕事に立ち戻ったり、まるで叔父が亡くなったのが嘘のような時間だった。
あまり実感がないのは、きっと直前までお世話をするわけでなく、顔も見るわけでなく、
亡骸や遺影を見ても別人のように穏やかな表情の叔父だったせいかもしれない。
そんな叔父の、私の知らない一面はどうだったのだろう。
老人ホームでは穏やかに笑って過ごしたのだろうか、
はたまた未だにキレる老人だったのだろうか。
仕事だからという体であったかもしれないが、叔父に親切に接してくださった方々がいて
叔父がその方々に支えてもらって余生を過ごしたのだろうか。
そんな叔父が亡くなった時、悲しんでくれた方々がいたのだろうか。
色々推測する材料は多かったが、
最低でもあの遺影を撮れるような、親身になってくださった職員の方がきっといたのだ。
私はそこで納得することにした。
叔父は
叔父の姉だった母にとっては、実際鼻つまみ者だったように思う。
叔父の義理の兄だった父にとっては、扱いづらい人間だったと思う。
亡くなることによって、悪人も善人のようになるだろう。
亡くなることで、泣き喚く人がいない穏やかなお見送りが、ある意味羨ましいことなのかもしれない。
大事な人を最後まで悲しませることや、後を追わせることは絶対したくないから。
火葬を終えた後、職員の方が骨の説明をしてくださった。
喉仏の骨にはしっかりと仏様が手を合わせた形で鎮座していた。
本当に綺麗な仏様であった。
葬儀が終わった後、私はものもらいを発症した。
叔父が私に託した未練だったかもしれない。